始動(3)
青年は、戸惑いながらも、凍えた身体を引きずるようにして小屋の中へと一歩、足を踏み入れた。
室内は、物がない。
粗末なベッドと、小さなテーブル、そして壁に立てかけられた、あの不吉な大鎌。
暖炉の火だけが、この殺風景な空間で唯一、生きているかのように揺らめいていた。
「……落ち、着いて。……ゆっくり、話して」
再び、錆び付いた声が私の口から漏れる。
二年の沈黙は、声帯の使い方さえ忘れさせていた。
一つ一つの言葉が、喉の奥からガラスの破片を吐き出すように、痛みを伴う。
その声に、青年ははっと我に返ったようだった。
彼は床に膝をついたまま、深く、深く頭を下げた。
「すまない…。俺は、ライハだ。妹のサーシャを助けたくて…」
顔を上げた彼が、問いかけるように私を見る。名前を、尋ねているのだ。
「……雪原の魔女。それ以上でも、それ以下でも、ない」
私がそう答えると、ライハは息を呑み、しかし、それ以上は何も聞かなかった。
彼は、妹のサーシャの話を始めた。
身体が、まるで冬の訪れのように、少しずつ冷たくなっていく原因不明の病。
名医と呼ばれる者は全て訪ね、あらゆる薬を試したが、進行は緩やかになるばかりで、決して止まることはないのだという。
そして、最後の希望が、あの『月下の涙』。
万年氷の奥深く、月の光が年に一度だけ差し込む洞窟の最奥に咲くという、伝説の花。
ライハは、その伝説が記された古文書の写しまで用意していた。
私は、暖炉の火を見つめながら、その話をただ聞いていた。
彼の言葉は、必死で、切実で、聞く者の心を動かす熱があった。
だが、私の心は、凍てついた湖面のように、何の波紋も描かなかった。
希望、絶望、家族愛。
それは、あまりにも遠い、かつて自分も持っていたはずの感情の残骸。
戦争が、私が、すべてを焼き尽くしてしまった。
彼の必死な目が、私には、ただひどく滑稽なものにさえ見えた。
まるで、とうに神が死んだ世界で、祈りを捧げる愚か者のように。
ライハが全てを話し終え、懇願の眼差しで私を見つめる。
その目に、私は何も返さない。依頼を受けるとも、断るとも言わない。
ただ、消えかかった暖炉の火に、黙って薪を一本、追加した。
「……今日は、ここに、泊まっていくといい」
私のその言葉に、ライハは何かを言いかけたが、やがて口をつぐんだ。
私は、彼の返事を待つことなく、部屋の隅にある、毛皮を重ねただけの自分の寝床へと向かう。
そして、壁に向かって横になり、硬く、目を閉じた。
これ以上、話すことはない。
会話の終わりを、そして私の存在そのものが放つ拒絶を、彼は嫌でも悟るだろう。
ぱち、と薪の爆ぜる音だけが、気まずい沈黙に満ちた小屋に、響いていた。