表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雪原の魔女  作者: R.D
3/14

始動(2)

 胃に固形物を無理やり押し込む作業が終わり、再び虚無が訪れる。


 次にすべきことは、何一つなかった。


 このまま夜まで座っていてもいい。


 あるいは、意味もなく大鎌の手入れを続けてもいい。


 どちらにせよ、何も変わらない。


 世界は回り、心はすり減り、やがてすべてが等しく無に帰す。


 その、途方もない緩慢な死こそが、今の私の日常だった。


 その、静寂を破る音が、唐突に響いた。


 ドン、ドン、ドン、と。


 嵐の夜でもないのに、何者かが、荒々しく小屋の扉を叩いている。


 獣ではない。知性のある、人間の叩き方だ。


 私は動かなかった。


 これまでの二年間、迷い込んできた旅人や猟師が何度かいた。


 だが、私は常に無視を決め込み、相手が諦めて立ち去るのを待った。


 関わる理由がない。関わる資格もない。


 しかし、扉を叩く音は止まらなかった。


 それどころか、懇願するような、切羽詰まった声が風に乗って聞こえてくる。


「頼む! 誰か、誰かいないのか!」


「『雪原の魔女』がいると聞いたんだ!」


 その呼び名に、私の眉がわずかに動く。


 やがて、叩く力が弱まり、ずるずると何かが崩れるような音の後、扉にすがりついて嗚咽するような声だけが残った。


 無視すればいい。


 いつもと同じように。


 そうすれば、やがて諦めて立ち去るか、あるいは力尽きて雪の中に埋もれるか。


 どちらにせよ、私には関係のないことだ。


 そう、頭では分かっているのに。


 なぜか、身体が動いた。


 二年間、自らの意思で開けたことのなかった重い扉に、ゆっくりと手をかける。


 ギィ、と凍てついた蝶番が悲鳴を上げた。


 扉の前にいたのは、私よりもいくつか年上に見える青年だった。


 旅人にしては立派な、しかし雪と氷で汚れた服をまとい、息も絶え絶えにその場にへたり込んでいる。


 その顔には、疲労と、絶望と、そして扉が開いたことによる僅かな驚きが浮かんでいた。


「あ……」


 青年は、目の前に現れた、小柄な私の姿に言葉を失う。


 これが、あの恐ろしい『雪原の魔女』だとは、にわかには信じがたかったのだろう。


 だが、私の背後に立てかけられた、禍々しい大鎌を見て、噂が真実であることを悟る。


 彼は、最後の力を振り絞るように、震える声で言った。


「たの、む。妹を、サーシャを助けてほしいんだ」


 私は、何も答えない。


 ただ、感情の読めない瞳で青年を見つめる。


 その沈黙を肯定と受け取ったのか、青年は懐から大切そうに、古い一冊の本を取り出した。


「妹は、難病なんだ。どんな薬も効かない。けど、この本に載っていた。この雪原の奥深く、万年氷の洞窟にだけ咲くという『月下の涙』という花……それだけが、唯一の希望なんだ」


 彼は、本の図版を私に見せる。


 そこには、氷のように透き通った花弁を持ち、中心が淡い青色の光を放つ、幻想的な花の絵が描かれていた。


「あんたなら、この場所を知っているんじゃないか? 名前だけでも聞いたことがあるはずだ。礼は、必ずする。俺の持っているもの全て、あんたに渡したっていい!」


『月下の涙』。


 その名前に、私は聞き覚えがあった。


 かつて、まだ私が「聖女」と呼ばれていた頃、宮廷の書庫で読んだことがある。


 実在さえ疑われる、伝説上の花。


 私は、その花を見たことがない。


 だが、その花が救う命は、一つ。


 贖罪の数が、一つ、増える。


 私は、青年から視線を外し、再び小屋の中の大鎌へと目を向けた。


 そして、二年間、ほとんど動かしたことのない唇から、消え入りそうな、錆びついた声で、こう告げた。


「……入って」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ