始動(2)
胃に固形物を無理やり押し込む作業が終わり、再び虚無が訪れる。
次にすべきことは、何一つなかった。
このまま夜まで座っていてもいい。
あるいは、意味もなく大鎌の手入れを続けてもいい。
どちらにせよ、何も変わらない。
世界は回り、心はすり減り、やがてすべてが等しく無に帰す。
その、途方もない緩慢な死こそが、今の私の日常だった。
その、静寂を破る音が、唐突に響いた。
ドン、ドン、ドン、と。
嵐の夜でもないのに、何者かが、荒々しく小屋の扉を叩いている。
獣ではない。知性のある、人間の叩き方だ。
私は動かなかった。
これまでの二年間、迷い込んできた旅人や猟師が何度かいた。
だが、私は常に無視を決め込み、相手が諦めて立ち去るのを待った。
関わる理由がない。関わる資格もない。
しかし、扉を叩く音は止まらなかった。
それどころか、懇願するような、切羽詰まった声が風に乗って聞こえてくる。
「頼む! 誰か、誰かいないのか!」
「『雪原の魔女』がいると聞いたんだ!」
その呼び名に、私の眉がわずかに動く。
やがて、叩く力が弱まり、ずるずると何かが崩れるような音の後、扉にすがりついて嗚咽するような声だけが残った。
無視すればいい。
いつもと同じように。
そうすれば、やがて諦めて立ち去るか、あるいは力尽きて雪の中に埋もれるか。
どちらにせよ、私には関係のないことだ。
そう、頭では分かっているのに。
なぜか、身体が動いた。
二年間、自らの意思で開けたことのなかった重い扉に、ゆっくりと手をかける。
ギィ、と凍てついた蝶番が悲鳴を上げた。
扉の前にいたのは、私よりもいくつか年上に見える青年だった。
旅人にしては立派な、しかし雪と氷で汚れた服をまとい、息も絶え絶えにその場にへたり込んでいる。
その顔には、疲労と、絶望と、そして扉が開いたことによる僅かな驚きが浮かんでいた。
「あ……」
青年は、目の前に現れた、小柄な私の姿に言葉を失う。
これが、あの恐ろしい『雪原の魔女』だとは、にわかには信じがたかったのだろう。
だが、私の背後に立てかけられた、禍々しい大鎌を見て、噂が真実であることを悟る。
彼は、最後の力を振り絞るように、震える声で言った。
「たの、む。妹を、サーシャを助けてほしいんだ」
私は、何も答えない。
ただ、感情の読めない瞳で青年を見つめる。
その沈黙を肯定と受け取ったのか、青年は懐から大切そうに、古い一冊の本を取り出した。
「妹は、難病なんだ。どんな薬も効かない。けど、この本に載っていた。この雪原の奥深く、万年氷の洞窟にだけ咲くという『月下の涙』という花……それだけが、唯一の希望なんだ」
彼は、本の図版を私に見せる。
そこには、氷のように透き通った花弁を持ち、中心が淡い青色の光を放つ、幻想的な花の絵が描かれていた。
「あんたなら、この場所を知っているんじゃないか? 名前だけでも聞いたことがあるはずだ。礼は、必ずする。俺の持っているもの全て、あんたに渡したっていい!」
『月下の涙』。
その名前に、私は聞き覚えがあった。
かつて、まだ私が「聖女」と呼ばれていた頃、宮廷の書庫で読んだことがある。
実在さえ疑われる、伝説上の花。
私は、その花を見たことがない。
だが、その花が救う命は、一つ。
贖罪の数が、一つ、増える。
私は、青年から視線を外し、再び小屋の中の大鎌へと目を向けた。
そして、二年間、ほとんど動かしたことのない唇から、消え入りそうな、錆びついた声で、こう告げた。
「……入って」