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いつつの四季

いつつの四季00『金魚の夢』

作者: 藤邑微風

泳いでいた。いい匂いがした。ずっと見ていた。いつの間にか同じカタチを得ていた。気がつけば歩いていた。手もある。やっぱりいい匂いがする。でも私にはない。ニンゲンが持っている、あのいい匂いのする何か。見た目はおなじになったのに。どうして?だから側を泳ぐのが気持ちよかったんだ。なんで欲しいんだろう。ニンゲンたちは時に泣いていた。傷ついていた。それなのに。

『金魚の夢』


目を閉じて静かに漂っていた。彼女の体はその透明な空間に溶け込むように、存在そのものが薄く、ぼんやりとした影を作ることなく、ただそこにあった。周囲には、どこまでも続く無限の透明。空間自体に“存在”という概念はなく、ただ金魚の微細な動きだけが、ほんのわずかな振動となって、この虚無を感じさせていた。


この場所には時間もなければ、距離も感じられない。金魚が漂うことすら、動きそのものが意味を持っていないようだった。動き続けること、それはあらゆる意味を持たず、ただひたすらに繰り返される。


金魚はその無限の透明に包まれながら、ふと目を開けた。何もない空間を前にしても、彼女の心は不安を感じていたわけではない。それどころか、どこか穏やかで、静寂に包まれていた。だがその静けさが、次第に物足りなくなっていった。


金魚はある一瞬、その静けさを破るような感覚を覚えた。それは、何かの予感だった。


「いい匂いがする。」


それは金魚の内なる声であったのか、それとも空間そのものが発した音なのか、定かではない。だが、金魚の体が微かに震え、何かが始まる気配を感じ取った。


その瞬間、目の前の透明な空間がわずかに歪んだ。それはまるで、冷たい水面が風によってかき乱されるように、空間そのものが波立ったかのようだった。金魚は思わずその歪みを見つめ、しばし動きを止める。


その歪みの先に、金魚はかすかな色彩を見た。透明で何もないはずの空間の中に、ほんの少しの色が現れた。それは金魚が今まで見たことのない色ではあったが、どこか懐かしさを感じさせる色合いだった。


金魚はその色に引き寄せられるように進んでいった。まるで何かに導かれるかのように、少しずつ、少しずつ、その色が強くなり、そしてついに金魚はその色の中心にたどり着いた。


色の中心に触れた瞬間、金魚の体が一瞬で引き裂かれるかのような感覚を覚えた。それはまるで、何もない空間が一気に押し寄せてきたかのような、圧倒的な変化を感じさせる瞬間だった。


金魚が目を開けた瞬間、そこに広がったのは彼女にとって未知の世界だった。足元に広がる道、遠くでかすかに聞こえる人々の声、肌に感じる空気。すべてが初めてで、彼女の心は興奮と驚きでいっぱいだった。


「わぁ…これ、全部…すごい!」


金魚は足を踏み出しながら、目を大きく見開いて辺りを見渡す。陽の光がやわらかく降り注いでいるが、その光にはどこかしらチリチリとした痛みがある。金魚はそれを感じると、ふと顔をしかめ、手で目をかすかに覆う。まるで陽射しが皮膚に触れるたびに小さな刺激が走るようで、心地よさよりも少し不快さを覚えた。


「うーん…あつい…でも、ここはすごくキラキラしてる。」


それでも、金魚はその光景に魅了されて足を進める。道に並んだ花々、風に揺れる木々、空の青さがすべて彼女にとって新鮮だった。けれど、目の前の一歩一歩が、まるで何もかも初めてだということを教えてくれているかのようだった。


「こわくないよね…?」


金魚は、時折立ち止まり、何か不安を感じている自分に気づく。初めて見るものすべてに、好奇心が湧き上がる一方で、どこかしら警戒心も抱いている自分がいた。足元を慎重に見つめると、地面にひっそりと隠れた小さな生き物がちらりと動いた。それを見て、金魚は一瞬背筋を伸ばし、身を固くした。


「なにかが…動いた…?」


すぐに動物やものが生きている証拠だということに気づくと、少しホッとしたような気持ちと、少し怖いという感覚が入り混じった。金魚はその場所を通り過ぎる時、足元に注意を払いながら進む。


「でも、すごく面白い…すべてが…!」


金魚は再び歩き出すと、ふと空気が湿っていることに気づいた。少しジメジメとした湿気が、肌にまとわりつくような感覚があった。それに、道の先に咲いている花の香りは甘く、けれどどこか少し重たい感じがする。すべてが美しいとは限らない。金魚はその重さを感じ、少し顔をしかめる。


「なんだか、ちょっと、重い匂い…」


けれども、それでも金魚は歩みを止めることなく、歩き続けた。どこか不快なものも感じる一方で、彼女の好奇心は止まることなく、目の前の新しい世界にどんどん引き寄せられていく。


そのとき、ふと風が吹き抜け、陽の光が柔らかく金魚の肌を撫でた。以前のチリチリとした感覚が少し和らぎ、心地よさが広がる。金魚はその瞬間に顔を上げ、ゆっくりと深呼吸をした。


「ここ、なんだか楽しいかも!」


すべてが初めての経験で、ひとつひとつが新しい感覚だった。良いこともあれば、少し不快なこともある。でも、金魚はそのバランスを感じながら、目の前の世界に足を踏み出していった。


カランカラン


金魚が扉を開けると、店内の空気が一瞬にして変わったように感じられた。彼女が踏み込むその一歩一歩に合わせるように、バーテンダーの目がしっかりと金魚を捉えていた。その目は、まるで金魚がここに来るのをずっと待ち望んでいたかのように、あたたかく、どこか含みを持っていた。


「いらっしゃいませ。」


その言葉は、単なる挨拶ではないような気がした。金魚はその一言に、なんとも言えない安心感を覚えながらも、どこか不思議な気配を感じ取っていた。


店内に足を踏み入れると、金魚の周りに広がる光景はまるで別世界のようだった。壁に飾られた写真や絵画から、ほんのりと甘い香りが漂ってきて、金魚の感覚を一層研ぎ澄ませた。そこには人間がいるのに、どこか人間ではない存在の気配が漂っているような不思議な感覚を覚える。特に、写真や絵から香るその匂いは、金魚のような存在にしか感じ取れないものだった。それは、どこか夢幻的で、空気の中に溶け込んでいるような不思議な香りで、金魚はふわりと目を閉じてその香りに酔いしれた。


視界を戻すと、カウンターの端にはひとりの男性が座っている。糸目の和服を着たその男性は、まるでこの店に溶け込んでいるかのように、静かに猪口を手にしていた。彼は金魚に気づくと、少しだけうなずき、微かに目を細めた。その視線が、金魚の心に何かを語りかけるようで、金魚は少しだけ視線を逸らす。


そして、金魚の目線がカウンターの反対側に移ると、そこにいたのは白くふわふわした猫だった。猫はまるで金魚を待っていたかのように、静かに座っており、その目はどこか遠くを見つめている。その姿に、金魚はどこか不安を覚えるものの、同時にその存在に対する好奇心が湧き上がる。


「カウンターでも?」


金魚が少し戸惑いながらカウンターに近づくと、バーテンダーは静かに、そしてやや優雅にグラスを手に取った。彼は言葉少なに金魚に微笑みながら、そのまま彼女に向かってグラスを差し出す。


「どうぞ。バイオレットフィズです。」


金魚は目を輝かせてそのグラスを受け取り、一口飲むと、その味に驚いた。甘さと酸っぱさが絡み合うその味わいは、まるで異世界のような感覚を与えてくれる。


「すごい…!すごくおいしい…!」


金魚はその美味しさに思わず声を漏らすと、バーテンダーは静かに答える。


「気に入っていただけて良かった。今日は特別な日だから、すべてが少し違うかもしれませんね。」


金魚はその言葉に少し驚きながら、店内を見渡した。すると、目を引くのは、壁に飾られた写真たちだ。それらの写真には、どこか神秘的な空気が漂っており、その一枚一枚から、あの甘い香りがほんのりと漂っているのが感じられた。その香りは、まるでこの世ならざるものの存在を告げるような、不思議な力を持っているようだった。


金魚はその写真に手を伸ばしそうになるが、ふと、周囲の客たちのことが気になり始めた。糸目の和服の男性は、静かにその猪口を持ちながら、何かをじっと考えているように見える。その姿は、どこか時間が止まっているような、静かな存在感を放っていた。金魚はその人物が何を考えているのか知りたくなったが、近づく勇気が出ず、ただ目を合わせないようにして少し離れた。


そして、白い猫の方に視線を向ける。猫は、相変わらず遠くを見つめ、何かを感じ取っているようだった。その姿が金魚にとっては、少し不安を感じさせる。しかし、その不安が次第に興味に変わり、金魚は思わずその猫に向かって歩み寄る。


「ねぇ、あなたは誰なの?」


金魚はその問いかけを、どこか遠慮がちに、でも純粋な好奇心から投げかけてみる。猫は、金魚に視線を向けると、ふわりとした尻尾を揺らしながら、じっと金魚を見つめ返した。それが答えになることを知っているように、ただ静かに座っている。


その時、バーテンダーが静かに金魚に言った。


「それぞれに物語があります。あなたも、きっと自分だけの物語を見つけることになるでしょう。」


金魚はその言葉に、少し驚きながらも、心の中で何かがひとつずつ繋がるような感覚を覚えた。


金魚はグラスを手に取ると、ふとそのカクテルの名前を思い出した。バイオレットフィズ。なんだか、しっくりくるような響きが心にひっかかる。


「バイオレットフィズ…?」金魚は、小さな声で呟いた。その言葉が口に出た瞬間、心の奥で何かがピリッと反応する。何か懐かしい感じがする。でも、どうしてか分からない。


バーテンダーが静かに言った。

「バイオレットフィズのカクテル言葉は、『私を覚えていて』です。」


金魚はその言葉を聞くと、なんだか胸がキュッと締め付けられるような気がした。それがなんなのかは分からないけれど、心の中で大事なものが触れられた気がする。


「おぼえていて? なんでだろう…?」金魚は首をかしげる。誰かが覚えていてくれることって、なんだか不思議で、温かく感じる。ふわりとしたその感覚が、彼女の胸に広がっていった。金魚は、バーテンダーに問いかけるように、少し不安げな表情を浮かべる。彼女の小さな手が、グラスをしっかりと握りしめていた。


その瞬間、金魚の記憶がふっと動き出した。透明な世界、何もない空間の中で感じていた“いい匂い”。あの匂いが、金魚をここへ導いた。彼女が目を閉じ、胸の中でその匂いを思い浮かべると、少しずつ、その匂いの正体が近づいてくるような気がした。


金魚はグラスを持つ手を少し震わせながら、ふと目を閉じて匂いを深く感じ取っていた。やがて、口を開いた。


「いい匂い。似てる。でも、これじゃない。」


金魚は少し考え込むように目を閉じたままで続けた。


「ずっと探してる。あの写真たちからしてる匂い。」


バーテンダーはその言葉に反応し、穏やかな笑みを浮かべながら静かに応じた。


「このギャラリーは、色々な人々の心が写し取られた作品が集まってくるんですよ。」


金魚はその言葉に耳を傾け、さらに続けた。


「ココロ…。知ってる。でも、カタチ、知らない。」


突然思い出す。数秒間、いや、数百年だっただろうか。たくさん見てきた光景。


金魚はその言葉に応じるように静かに呟いた。


「他人の期待を背負って、本当にやりたいことを見ていないフリをしてしまう人。人のためだと自分の言葉を飲み込んでしまう人。身の回りの全てを笑顔にしようとして、見えないところで力を入れ過ぎてしまう人。誰かを大切に思う気持ちが強くなりすぎて、道を見失ってしまう人。道を見失った大切な人が帰って来られるように、いつまでも待っている人。」


金魚は言葉を詰めながらも、その先を続けた。


「そんな人たちから、いい匂いがした。」


バーテンダーは金魚を見つめ、静かに言った。


「見てきたのですね。たくさんの想いを。」


金魚は小さくうなずき、目を輝かせながら答えた。


「私も欲しい。」


バーテンダーは少し黙り込んでから、静かに問いかけた。


「どうして?たくさん見て、集めてきたでしょう?」


金魚は少し首をかしげ、じっと考えた後、ぽつりとつぶやくように答えた。


「…違う。みんな、他の誰かに届けようとしてた。あれが欲しい。」


バーテンダーはその言葉に静かに反応した。


「そうですか…。迷いは…ないようですね。」


金魚はしっかりとうなずき、そしてしっかりとした声で言った。


「それを飲み終えたら、あの扉をお行きなさい。あなたに刻まれた、あなたの見てきたものは、きっとその先でも残っているはずです。」


金魚はしばらくバーテンダーを見つめた後、決心したように言った。


「行ってくる。ま、また会える?」


バーテンダーは微笑みながら答えた。


「ええ。きっと。」


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