【東京大空襲】生物
帝都の空はいまは隅田川の花火もかくやといわんばかりに美しく煌めいていた。焼夷弾が尾っぽの安定布を燃え上がらせながら、白糸の滝のように雪崩れ落ち、地上から舞い上がった火の粉は、渦を巻きながら空を漂い、また落ちてくる。
Yが頭の後ろにかすかな熱を感じたとき、若い巡査が「おい!」と叫んで彼に飛びかかってきた。巡査がYの頭を思い切りはたく。Yは一瞬怒りを感じたが、それを表明する前に自分の後頭部が燃えていることに気づいた。
巡査がどうにか火を払ったが、Yのうなじ付近の髪はちりちりになっていた。
「どれ?」Xがとのぞきこむ。「よかったなYさん、火傷はたいしことない。まあ、多少禿げるかもしれんが、坊主にすれば目立たんだろう」
「今夜を生き延びられるなら、髪なんか全て無くなってもかまいませんよ」Yは巡査に向き直った。「助けてくれてありがとう」
「あんたたちも臣民の一人には違いないからな」
Xが拍手する。
「えらい! この国はじきに敗北するだろうが、お前さんのように使命感を持てる人間がいれば安泰だ」
「貴様っ、またしても反戦主義的妄言を」
「おいおい、お前さん、まだ日本が米国に勝てると信じてるのかね」
「当然だ!現人神たる天皇陛下がおられる神国が敗北するはずがないっ」
「神ねえ。お前さんは神的存在を信じているのかね? 本気でアマテラスオオミカミがこの大地を作ったと?」
「貴様、宗教家の癖に疑ってるのか? 観音菩薩の声を聞いていると噂されていたと思うがな」
と、Xがいきなり巡査の腰に体当たりした。
二人して桶屋の軒下に積み上がった風呂桶に突っ込む。
巡査が無言でサーベルの柄に手をかけたとき、ドゴン!という音とともに、いまさきほどまで巡査が立っていた位置に、鈍色の六角柱が立っていた。
大太鼓が連打されたかのように、低い破砕音が周辺を満たす。不発の焼夷弾が降り注いでいるのだ。屋根瓦を砕き、地面に穴を穿ち、電線を引きちぎる。
不幸な女が一人、直撃を受け、左半身を貫かれた。
即死だ。
すぐ横にいた、つれあいと思しき男が発狂したかのように叫び出す。
Yはしばらく前に新聞に書かれていた、米軍焼夷弾消火の心得を思い出していた。いま、目の前に落下してきた長さ一メートル、直径20センチほどの六角柱は、子焼夷弾だ。これらは二十本ほどにまとまって母焼夷弾の内部に格納され、B29から投下されると、母の内部から飛び出してくる。尾部に仕込まれた火薬が爆発し、姿勢制御布が外に飛び出す。このとき火薬によって布の一部に火がつくことが多い。
焼夷弾はきっちりと頭を下にして地面や家屋に激突し、内部の化学物質を吐き出す。恐ろしく可燃性の高い油の一種だ。それから、爆発的に燃え上がる。この炎は基本的に消えない。水をかけようが地面に転がろうが無駄だ。対象が完全に炭化するまで、炎は決して相手を離さない。
運がよかった。
いま、この周辺に降り注いだ数本の子焼夷弾は、すべて不発だった。
同じ工場で作られた同一ロットなのだろう。内部の火薬か、配線か、どこかに共通した問題があったに違いない。
物量主義の米国ならではのおおざっぱさに、Y、X、巡査は命を救われたのだ。
巡査がXに「感謝する」といった。
Xは「ん」とだけ答えると、連れ合いの亡骸の横でサイレンのように叫んでいる男の腹を殴りつけた。
男がその場に嘔吐する。
Xはその横で、女性の遺体の顔に手にしていた手拭いをかけ、ひざまずいて経文を唱え始めた。
男は呆然とした顔でXを見つめている。半纏、足袋、五分刈りの頭、Yは大工や寿司屋などの職人だろうと当たりをつけた。
周囲では家々が燃え上がり、天ではB29が轟轟と我が物顔に旋回している。
そんななかでも、Xの声はよく通る。
Xが読経したのは三分にも満たなかったろうが、職人は自己を取り戻していた。最後にはXの横でともに手を合わせていた。
Xは職人の方を叩いくと、「御仏はあんたが生きることを望んでおるよ」と一言だけいって、Yと巡査のところに戻ってきた。
Yは「お疲れ様です」と頭を下げた。
巡査は疑るような目でXを眺める。
「あんた、さっき本官に神的存在がどうこういってなかったか? なのに、あの男に仏を口にするのか?」
「ああ、一貫していなくてすまんな。わしはあるときは神的存在を心から信じておるし、また別の時は信じておらんのだ。ようするに神というのは方便なんだよ。人の心を救うための道具だ」
「ふざけてるのか?」
「いやいや、大真面目だよ。お前さんのように聡い青年には神的存在など必要ないと思ったまでだ。とくに軍部の押し付ける神などはね」
「本官は天皇陛下の神威を疑うことなどない!」
Xと巡査は口論しながら、先を進むYの後についてある。
天を包む黒煙も、家々を焼き焦がす炎もどこ吹く風といった様子だ。
Yは彼らのさらにうしろに、さきほど連れ合いを亡くした職人風の男がくっついていることに気づいた。
その後も、Xは遺体にすがりつく人々のために、読経を繰り返した。都度、彼らの歩みは遅れ、炎からの脱出はますます難しくなり、同時に後ろについてくる人々は増えた。
○○通りの中ほどまで来る頃には、彼らは十人近い集団になっていた。
このときには、Xや巡査も自分たちが避難民の先導役になっていることに気づき、積極的に彼らを生に導こうとしていた。Xや巡査自身、どこに生き延びる道があるのかわからないにしてもだ。
○○通りでは誰の会話もなかった。
周囲の空気は恐ろしいほどの高温となり、うかつに息をすれば気道が焼かれかねないためだ。
みな、服の袖や布切れで口元を覆い、鼻からほんの少しずつ息を吸う。
周囲の建物と建物すべての窓から、青白い炎が吹き出している。
街路樹は塵に、電柱は立ったまま炭と化している。
Yは市電の軌道を踏んだ際、自分の履物の底が溶けかけていることに気づいた。
ふいに、前方を五十メートルほどを歩いていた別の集団から悲鳴が上がった。
集団の頭上に炎の塊が漂っている。
炎はまるで意志を持っているかのように、その一部を伸ばし、真下の集団をさっとなでた。
Yの目には炎は、人々を一瞬かすめただけにしか見えなかった。
だが、わずかでも炎に触れた人間は、たちどころに全身が燃え上がり、3歩と進まぬうちに炭となり、崩れ落ちた。
炎の塊は哀れな集団の全員を焼き尽くすと、するするとYたちの集団に近づいてきた。




