【東京大空襲】北風
火の粉がYの顔に激しく吹き付けた。
濡れ手拭いと髪の隙間から入り込み、メガネのレンズを変色させる。
北西の方角から、台風さながらの風が都心に流れ込んでいるのだ。
暴風は、火の粉を巻き上がらせ、その火の粉が屋根板や枯れた落ち葉に生じさせた小さな炎を、たちまちのうちに猛火へと変貌させる。
Yたちは避難民の流れに乗って、○○線のガード下を目指していた。
道の真ん中で大きな車が燃えていた。
Yがぼやけたレンズ越しに目を凝らすと、消防自動車だった。周囲に倒れている黒焦げの遺体の脇には消火筒らしきものが転がっている。
これほどの火災では、日本中の消防車が集まっても何の意味もないだろう。それでも彼らは職務に殉じたのだ。
Yは立ち止まり、彼らに手を合わせようとした。
その手を、Xの大きな手が抑える。
「Yさん。祈るな」
若い巡査がわざとらしく片方の眉をあげた。
火の粉にやられたのか、その眉の端は焦げている。
「坊主とは思えない言葉だな」
「いま足を止めて祈れば、わしらが死ぬというだけだ」
「あんたは教祖をやってるくせに、祈りの力を信じないんだ」
「祈りというのは、悟りに至るための方便の一つに過ぎんよ。祈ったからといって、死んだ人間が救われることはないし、神風が吹いて上を飛び回っとる爆撃機を吹き飛ばすこともない」
巡査がサーベルの柄に手をかけた。
「貴様っ!神風を愚弄するとは。それでも帝国臣民か」
「わしは神的存在は信じとるよ。ただ、彼らが物質的現象を起こすことはないと知っとるだけだ」
Xが巡査に向かってニヤリと歯を見せた。
Xの犬歯はふつうの人間よりも長い。
そのせいで、目は笑っているのに猛獣が相手を威嚇するような気配が漂う。
「神についての講義は歩きながらにしようじゃないか。なあ、Yさん」
Yは頷き、消防士たちの遺体から離れた。
Xは講義をするといったものの、歩行中、まともに話すなど不可能なことだった。
警察署を出た時はしっかりと濡れていた手拭いは、まだ百メートルも進んでいないというのに、早くも乾き始めている。
呼吸をするたびに熱気で気道が焼かれそうだった。
帝都全体が異様な高温状態にあるのだ。
Yは水を求めてあたりを見回した。
そして、人波の一部が大通りを離れて小さな公園に入っていることに気づいた。公園には小さな防空壕があり、その扉を叩いて中に入れるよう懇願している。
あそこだ!
「Xさん!」Yが防空壕を指すと、まるでタイミングを測っていたかのように、空から降ってきた焼夷弾が防空壕の屋根に突き刺さった。数秒後、防空壕の扉が外側にはじけ、火だるまの人間が飛び出してきた。防空壕の口は真っ青に輝き、龍のように炎を吹き出した。
Yは、もう祈ることはせず、Xと巡査とともに歩き続けた。
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