【東京大空襲】円状攻撃
○○署には既に誰も残っていない。
YはXおよび少年巡査と共に、白熱電球が切れて薄暗くなった廊下を走った。巡査の官給品の革靴がカツカツと質のいい音を立てる。
玄関ホールに入ると、室温が急に上がった。
空気が著しく乾燥している。
Yは二人に「てぬぐいを口に」と伝えた。
洗面所で見つけたてぬぐい、というより雑巾に近い代物は微かに悪臭を漂わせている。それでも、濡らした布を当てたおかげで呼吸は楽になった。
観音開きの扉は開けっぱなしで、外からは橙色の光が差し込んでいる。
Yはゾッとした。
すでに帝都は停電している。
この光量はすべて炎によるものだ。
巡査も彼の隣で立ちすくんでいる。
彼らはこれから、とてつもない大火のなかに踏み込もうとしているのだ。
Xが二人の背中を叩いた。
「さあさあ、何をしとる。生きるためにはここに留まってはならんのだろう? なら、行くしかないぞ」
Xの言葉は論理的かつ力強くYの心を励ました。
Xの言葉はいつでも確信に満ちている。
Xが二人の間を抜けて先に立つ。
Yと巡査は自然と引きずられて前に進んだ。
外に出た瞬間、霧雨のように火の粉が降りかかった。
Xの半纏の肩口がちろちろと燃え始める。
Xはハエでも払うように、さっと散り飛ばした。
熱気がYの肌と眼球を指す。
○○通りを挟んで、署の向かいに軒を連ねていた中華料理屋の窓は粉々に砕け、いつか中華街で見た祭りの日の龍のように火を吹き出している。
隣の文房具店は焼夷弾の直撃を受けたのか、屋根が大きく崩れている。燃え滓となったノートの切れ端が、煙とともに真冬の夜空へ登っていく。
空は凄まじい黒雲に覆われていた。
その隙間から、流れ星のように無数の赤い光がゆっくりと落ちてくる。B29から投下された焼夷弾だ。尾部に付けられた姿勢制御用の布が燃えているのだ。
火災の燃焼音に混ざり、エンジン音が響いている。どれほどの大編隊なのだろうか。まるで巨大な怪物の唸り声だ。
地上からはサーチライトの光が伸び出し、怪物たちの姿を探しているが、その光はあまりにもか細く、頼りない。肝心の高射砲の音も途切れ途切れだ。対空兵器は真っ先に潰されたのだろう。
Yは出てきた警察署を降り仰いだ。
コンクリ作り三階建ての建物の三階部分の窓が煌々と光を放っている。天井を突き破ったエレクトロン型の焼夷弾が、室内で派手に化学反応を起こしているのだろう。じきに署内は火の海と化すはずだ。
首を巡らせて脱出路を探す。
ところが、あらゆる方向が火に包まれている。
Xが呆れたようにいう。
「あやつら、帝都を円状に囲うように爆撃しとるな。なかの人間を一人残らず焼き殺す気か」
避難民たちは通りを右往左往している。
みな、どこに逃げればいいのか判断つきかねているらしい。
大八車を押している一家がいた。
若い夫婦に子供が五、六人、みなで積み上げた家財道具が落ちないよう支え、火の粉をはらいながら道を行く。
そんな彼らのど真ん中に一発の焼夷弾が直撃した。
焼夷弾から飛び出した油脂が周囲に飛び散ったかと思うと、一家は瞬時に超高音の火柱と化した。大人も子どももあっという間に炭化し、その場に崩れ落ち、なにやらよくわからない黒い塊に変わった。
Yは恐怖に囚われた。
ここにいては、じきに自分もああなる。




