【暗殺計画】殺意
「銃が欲しい? お前、正気でいってるのか?」
諸県浩一郎はYにいった。
諸県は伝説的な刑事だった男だ。昭和十号連続殺人事件、家電メーカー重役誘拐事件、毒物菓子放置事件等、数々の大事件を手掛け、捜査の神様とまでいわれた。
現場一筋の叩き上げながら、異例の速度で出世し、とくに昭和○○年には無試験で警視昇進という快挙を成し遂げた。が、翌年に突如辞職し、家族ともども郷里の静岡県に引っ込んでしまった。
いまの職業は実家のみかん農家の手伝いである。
この日はいつになく陽射しがあたたかだった。急峻な斜面に張り付くように植っているミカンの木を手入れしていると、まだ三月だというのに、あっという間に汗ばんでくる。手拭いで額をぬぐいながら、顔を上げると、遠くに富士と静岡湾が望まれる。
土産物屋で売っている絵葉書そのままのような景色だ。
刑事を辞めて三年目である。
ようやく周りが見られるようになってきた、と自分でも思う。
思えば、家族には迷惑のかけ続けだった。
世の安寧を守れるのは自分しかいないように考え、昼も夜もなく捜査に駆けずり回った。
その結果、子供たちの入学式や発表会、運動会にただの一度も出られなかった。
夫婦の結婚記念日を初めて祝ったのは〝会社〟を辞めた去年が初めてである。
静岡湾を望むレストランで、妻は大泣きした。そのとき、諸県は〝まだ間に合う〟と感じた。
これからは家族のために生きるのだ。
俺は十分に人々に尽くしてきた。
もう自分の平和を追い求めてもいいはずだ。
雲がゆっくりと流れ、富士山にぶつかる。
形が引き延ばされるのを、脚立に乗って眺めているときだった。
「諸県さん」
いきなり足元から忘れられぬ声が聞こえた。
彼の人生をぶち壊した声。刑事としての彼を殺した男の声である。
彼は目の前のミカンの枝を右手で掴み、転落するのをどうにか防いだ。
顔を向けると、たしかにあの男が立っていた。
かかしのように痩せた身体に、コートを羽織り、縁無しの丸メガネを神経質そうに触っている。
いまも昔も〝田舎の公立中学の教頭〟といった雰囲気だ。
だが、昔とは違う点もある。
元刑事の目は、細かな相違点を素早く捉えた。
靴の質が悪い。かつては舶来の高級革靴、諸県の月給ですら買えないような代物を履いていた。新品の靴は磨き上げられてピカピカに輝いていた。いまのそれは安手の合成革だ。精一杯手入れしているようだが、履き潰れて、表革の下の白っぽい素材が見えている。
着ているコートも吊るしのセール品なのだろう。微妙に肩幅が大きい。
諸県は左手の剪定ばさみを握る手に力を込めた。
あのとき、自分の手の中には銃があった。
あのとき、引き金を引いてさえいれば、どれほどの市民が学舎の魔の手に落ちずに済んだろうか。
いまはもう銃はない。
そもそも警官ですらない。
だが、だからこそできることもあるのではないだろうか。
「Y、今度俺の前に顔を見せたら殺すといったはずだが」
諸県は左右に目を走らせた。
Yは学舎の大幹部だ。
たった一人で行動するなどありえない。
いまもそこの幹の影、茂みの後ろに学舎青年部の屈強な男たちが潜んでいるはずだ。XやYの命令とあらば、どのような非道もやすやすと行う連中が。
「誰もいませんよ。わたし一人です」
Yが諸県の心をよんだかのようにいう。
「お前のいうことを信用しろと?」
「非難は受け入れます。あなたとはいろいろありましたからね」
「ああ、〝昇進〟させられたのはとくに効いたよ。おかけで会社にいられなくなった。俺がお前らに手心を加えたと思われたからな」
諸県は脚立から降りるとYに近づいた。
護衛はいつ飛び出してくるのか。
刑事を辞めたいまでも、日頃の農作業で鍛えられたおかげで体はよく動く。
柔道は四段、逮捕術、剣道、空手、一通り収めている。
学者肌の優男一人くらい、即座に極められるはずだ。
Yや潜んでいるであろう護衛の警戒心を解くために、剪定ばさみを放り投げた。はさみは刃先を下に土に刺さった。
裸締めだ。腕を取り、背後に回り込み、首を抑える。五秒とかからない。
Yがいった。
「昇進させた件は謝ります。わたしはそれほどあなたを恐れていたのです。あなたほど優秀で、胆力を備え、国民に忠実な警官はいなかった。あなたを放置していては、いつか必ず学舎が危機に陥ると考えたのです」
「仏の右腕にそこまで褒められるとはな」
諸県は静かに間合いを詰めた。
あとわずかだ。
この男が消えれば、学者にとってはたいへんな損失となる。
結果的にどれほどの一般市民が救われるだろうか。
彼がいざ飛びかからんとしたとき、Yがいった。
「昇進のことだけではありません。わたしはすべてに謝罪します」
諸県は思わず固まった。
「すべて、とは何だ?」
「言葉通りの意味です。わたしが学舎の幹部として行ってきた全ての行為、全ての罪に対しての謝罪です。あなたは間違いなくわたしの行為による被害者の一人ですから」
「改悛の情を抱いていると? お前たち悟った連中は後悔などしないと思っていたがな」
「それは誤りです。わたしたちは脳内ホルモンの操作によって擬似的な幸福感覚を生み出せますが、それをしなければ普通の人間と変わりありません。そして、わたしは脳の内分泌系に障害を負っているため、悟りに入ることができません。そのため、後悔を感じ続けているのです」
諸県は鼻を鳴らした。
「本当に後悔しているというなら、お前ら学舎の悪行の証拠を揃えて警察に駆け込め。新聞社に持ち込め」
「そんなことをしても無意味です。わたしたちの組織は強くなりすぎました。警察も新聞社も報復を恐れて動けないのです。ですから、わたしはここに来たのです。諸県さん。お願いします。わたしのために銃を融通してください」
「銃が欲しい? お前、正気でいってるのか? いったい何をする気なんだ?」
Yが淡々とした口調でいった。
「X先生を殺します」




