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陰獣X  作者: 白色矮星
第一部 悟りへの道
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【東京大空襲】火炎橋

Yの身体は炎の光でオレンジ色に染まった水面を突き破り、二メートルほども沈んだ。

衝撃で眼鏡が剥ぎ取られる。

痛いほど冷たい水が体を包む。


Yは上も下も分からないまま必死に手足を動かした。

どうにか顔が水の上に出た。

息を吸い込むと、焦げ臭い空気が肺いっぱいに入ってきた。


Xの声がいう。

「もっと離れるんだ。つぶされちまうぞ!」


彼のいう通りだった。橋の上から次々に避難民が飛び込んでくる。その大半は火だるまだ。Yのそばに浮かんでいた女の上に、燃え上がった大柄な男が激突し、二人して沈み、浮かんでこなかった。


YはXと共に橋から離れた。

どうにか二十メートルほど進んだとき、耳障りな金属音が炎の音よりさらに大きく響いた。

首を返してみると、橋の鉄骨が飴細工のように捻じ曲がるところだった。

橋がねじまがり、何百人という避難民が宙に放り出された。

人々は水に転がりおち、そのうえにまた人が落ちてくる。

溺れまいと周りの人間を手がかりに這い上がり、下になった人間を水面下に押し下げる。

互いが互いに掴み掛かる。

助けてくれ!誰か!という声があちこちから聞こえてくる。


Yは目を逸らすと、Xとともに橋から離れ続けた。

Yの心は麻痺し始めていた。

もう哀れみも悲しみもない。

もういまでは自分が生きることしか考えられなかった。


着衣のままの泳ぎである。

布地がまといつき、体力はあっという間に消えていく。

氷のような水が熱を奪う。

筋肉はこわばり、まともに動かない。

しかも、どこを目指せばよいのか。

もはや両岸ともに火が回り、岸壁を這い上がったとしても助かる場所などない。

力尽きたものから暗い水の中に沈んでいくだけだ。


Yがいよいよ終わりを覚悟したとき、前方から救いの主が現れた。

一艘の手漕ぎ船である。Xが誰よりも先に放り込んだ少年警官が船先に身を乗り出し、こちらを指している。櫓を漕いでいるのは船の持ち主である漁師か何かか。頷いて船を寄せる。


Xが「でかした!」と頷き、手を伸ばした。


少年警官は一瞬躊躇した後、その手を両手で掴んだ。彼が先に救出していた避難民、Xがここまで導いてきた避難民たちが、同じように手を伸ばし、Xを水面から引き上げた。彼らは救世主を迎える信者のように、Xを抱きしめ、Xもまた包容を返した。


少年警官は続けてYを引き上げた。

「あ、あ、ありがとう」Yは寒さに震える口でどうにか答えた。


船頭がいう。「おまわりさん!これ以上は無理だ!」


「引き返してくれ」と少年警官。


水面にはまだ大勢の市民が浮かんでいる。

しかし、少年警官はもう彼らには見向きもしない。

助けられないのは明白なのだ。

船にはもうただ1人も乗せる余地がない。

それでも、市民たちは必死で手を伸ばし、舷側を掴み、這い上がってこようとする。

船のバランスが崩れ、大きく揺らぐ。

赤ん坊を抱いた女が落ちそうになって悲鳴をあげる。彼女の服の裾を、水面から伸びた手が掴んでいる。


「生阿弥陀仏!」Xが船底に置かれていた棒を掴み、その手を目一杯の力で打った。骨が砕ける音とともに、手が離れ、水の下に沈んでいく。


「生阿弥陀仏、生阿弥陀仏」Xは助けを求めて群がってくる市民たちを叩き続ける。しかし、船を掴む手はあまりにも多い。


Xの打擲だけでは間に合わない。Yがそう思ったとき、別の誰かが亡者の手を蹴り飛ばした。少年警官である。X同様に「南無阿弥陀」と叫びながら、守るべき市民たちを水の底に追い返す。


Xが守ってきた避難民たちも両手を合わせ「南無阿弥陀」と唱え始めた。

船頭が必死に櫓を動かし、船が少しずつ動き始める。


両岸は大炎に包まれ、水面は反射光で血のような赤に染まっている。

Yたちの小舟は南無阿弥陀の大音声とともに進んでいった。


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