【Yの告白】金色の猿
「この非国民のアカがっ」
そういってYの腹を蹴り飛ばしたのは、同じ囚人だ。刺青の入った筋モノであり、連続強姦の罪で懲役五年の刑を喰らっている。
Yのメガネが地面に落ちて、レンズのヒビが増えた。
Yは胃液を吐いてのたうちながら、強姦魔の如きが何を言うかッ!わたしこそ真の愛国者だ!と内心で叫んだ。
彼が収監されたのは一月前のことである。天皇への冒涜行為により治安維持法でぶち込まれたのだ。共産主義者の彼にとって、天皇が現人神であるなどという話は、愚かしい宗教的妄言の極みであるし、そんな人間が国民を戦争に駆り立てていることはなおさら許せなかった。
そこで毎日せっせとガリ版で天皇批判のビラを擦り、真夜中に辻角に貼って回った。その数およそ五千枚。さらには同じ共産主義者の仲間と共に国家転覆を狙い、町工場を借りて拳銃製造にまで取り組んだのである。
不幸中の幸いにして、Yが逮捕されたのはビラ配りの最中であり、ちょうど最後の一枚を貼り終えたタイミングだった。「たまたま貼られていた紙を手に取ったのです」という言い訳と、朴訥とした外見が裁判官に通じたのか、奇跡的に絞首刑を免れ、懲役七年で済まさされたのだった。
とはいえ、腹を抑えながらどうにか立ち上がったYは、これはそこまで幸運というわけではないな、と考え直していた。
ここ、○○刑務所は一部の軽微な思想犯と、一般囚人が放り込まれている。一般囚人はYのようなインテリがこれまで関わったこともないような粗野な人間たちであり、閉じ込められた鬱憤を、Yたちにぶつけることを至上の楽しみとしていた。
学士様を殴り、蹴り、罵倒することは彼らの心をうすら暗い喜びで満たした。
もちろん、看守がいるので何の理由もない暴力は難しい。しかし、刑務作業が遅い、工作物のねじ止めを失敗した、全体運動についてこられないといった理由があれば別だ。
看守たちはYがボコボコにされるのを、毎日平然と眺めている。
朝起きれば昨夜の傷跡が痛み、それでまた他の囚人につけいられる隙ができる。
これはもう長くはもたない、Yはそう感じていた。
じっさい、三日ほど前から高熱が続いており、寝るたびに奇妙な夢に襲われた。彼は神仏などまったく信じていないのだが、なぜか久世観音が死んだ彼の母親と共に現れるのだ。観音は拳銃を手にしており、空に向かって放つと、金色の猿が落ちてくる。
わけがわからない内容である。
死期が近づいたことによる、脳の幻覚症状だろう。
「こらぁ!なにをほうけてやがる!」
筋モノがYの顔を張る。
Yは意識がぼんやりしてきた。
この目の前の男は何をそんなに怒っているのだろうか。
天皇がいったい彼の人生に何をしてくれたというのだ。
「なぜ、ただの人間をそんなに信奉できるのですか?」
思わず口をついた。
ああ、しまった。
取り返しがつかないことは、すぐにわかった。
遠巻きに眺めていた囚人たちまでが、怒りのこもった目で彼を睨んできた。
筋モノはカチカチと虎やライオンのように歯を鳴らすと、一転して冷静な口調になった。
「死ね。死んで陛下に詫びろ」といって懐から彫刻刀を取り出す。
刑務作業中に失敬したものだろう。
経年の長い囚人はこうやって喧嘩に備えて武器を用意しておくモノなのだ。
看守があわててこちらに駆けてきたが、とても間に合わない。
Yは思わず目を閉じた。
が、いつまで経っても刃が身体に刺さらない。
それともすでに自分は死んでしまい、魂だけとなって肉体の感覚をなくしたのだろうか。
恐る恐る目を開けると、巨大な背中があった。二メートルはあろうかという大男がYと筋モノの間に割って入っているのだ。
大男の腕に、小さな彫刻刀が刺さり、真っ赤な血が流れていた。
「まあまあまあまあ」太い声で大男がいう。「なにもそこまでせんでもいいだろう。こんなつまらんことで人を殺せば、あんたまた喰らうことになるぞ。もうすぐ釈放なんだろう?」
「つまらんとは何事かっ!恐れ多くもッーー」筋モノが顔を真っ赤にする。
「わかっとるわかっとる。ほら、この学者先生にはわしからよういうとくから。な、わしの顔に免じてくれ。な?」
筋モノは舌打ちすると、ようやく体を離した。それをようやくやってきた看守たちが羽交いじめにする。「バカモノ!なにをやっとるかっ!」とぶん殴る。とはいえ、手加減はあった。看守たちもYに対する苛立ちを抱えていたからだろう。
大男は「まあまあ」と看守たちをも諌める。その腕にはまだぷらぷらと彫刻刀がぶらさがっていた。
「あなた、それは痛くないのか?」Yは礼を言う前に、思わず指摘した。
大男はニカっと笑った。
「もちろん痛いさ。だが、痛いのは身体であって、脳みそじゃないからなあ」
男はYの隣に腰を下ろし、自らをXと名乗った。
Xは奇妙な男だった。
傷害で放り込まれたそうだが、本人曰く、彼がしたのは「人助け」らしいのだ。
Xいわく、彼は不幸な境遇にある人間を見捨てることができず、救ってやった七人の女と共同生活を送っていた。しかし、近所の住民に怒鳴り込まれ、致し方なく○○町の廃業した回春宿に移った。
こちらでは、近所との揉め事こそなかったが、今度は女たちの身内が乗り込んできた。
女のうち四人は既婚者であり、夫がいたのである。
夫たちを前に、彼らの妻はXが仏の生まれ変わりであり、Xに導かれるのは至上の喜びなのだと説明し、夫たちはさらに激怒した。
Xが「まあまあまあ」と前に出たが、彼の度量が相手を飲み込む前に、夫たちの一人が手にしていた木材が頭部に命中し、そのまま意識を失った。
目を覚ましたときには、室内はめちゃくちゃ、誰もからもが血を流し、骨折し、内臓を痛め、散々な状態だった。なかでも深刻だったのは夫たちの一人で、包丁で腹を刺されていた。幸い、どうにか動けた女たちの手で病院に担ぎ込まれ、命は助かったのだが、この夫が犯人として警察に訴えたのは、どうしたことか気絶していたはずのXだった。
Xは認めた。女たちをかばったのである。
裁判所が下した判決は懲役一年六ヶ月だった。
話が終わったところで、Yは素直にいった。
「興味深いですね。構成員が女性に偏ったのは問題ですが、あなたが作り上げた共同体は共産主義の理想に適うものです。皆が働き、共同体を支えるなかでは、家族という形態は不要になるものですから」
「ほう!わしは観音様の言う通りにしとっただけなんだがね」
「観音様、ですか」
Yは幻滅した。
「では、あなたは宗教家というわけですか」
「いかんかな、宗教は」
「マルクスは宗教は民衆の阿片であると説きました。麻薬的性質を持ち、人々の向上心を破壊するものです。理想的な社会の実現にとっては、好ましくないものです」
「いやいや、彼はそういう意味で言ったんじゃない。マルクスが生きとったころは、阿片は痛み止めとしての利用が大半だったんだ。日頃の苦痛を和らげるための薬ということだよ」
Yはメガネを服の袖でぬぐい、顔に掛け直した。
「マルクスにお詳しいようですね。どちらの大学を出られたのですか?」
「わしは尋常小学校卒だ。いまのは観音様が教えてくれたことだ」
Yは「そうでしたか」と答えたものの、心の中ではXを狂人に分類していた。これは相当の重症だ。本当に神霊の存在を信じているらしい。
礼をいって立ち去ろうとしたときだった。
Xが、ぼそりつぶやいた。
「ところで、猿が何を意味しているかはわかったのかな?」
「猿?」
「ああ、君がいつも夢に見ている金色の猿だよ」




