【東京大空襲】地獄橋
大火炎に包まれた○○通りを突破せんと、X一行は精魂すべてを注ぎ込んだ。意思を宿すかのような動きで乱舞する火炎の動きを見極め、ほんのわずかな空白地帯めがけて、わっと走る。
一瞬でも遅れたものは、真っ赤な腕に掴まれ、松明のように燃え上がった。悲鳴をあげる間もなく炭化し、胎児のような姿勢となって地面にごろりと転がるのだ。
Yの耳に届くのは、激しい燃焼音と風の音、そしてXの言葉だけである。Xは滝のような汗をながし、あちこち火傷や切り傷、擦り傷を追いながら、なお目には知性を宿していた。
Xは無学である。ふるまいは粗雑、言葉遣いも粗い。それでも、彼のうちには真なる智慧がある。人々を導く強烈な何かがある。
それを感じているのはYだけではない。今日出会ったばかりの大勢の避難民、さらにはXを軽蔑していたはずの少年警官もが、Xに命を預け、彼の言葉に身を委ねる。
○○通りを抜けるのに要した時間は、十五分ほどだったろうが、Yには五時間にも五十時間にも感じられた。
ともかく、気づいたときには火炎は後ろに過ぎ、一行は煤まみれの、真っ黒な顔になって、互いを見つめあっていた。
だが、まだ死地を脱したわけではではない。
火炎がいつこちらに戻ってくるか知れたものではないのだ。
Xの号令のもと、一行は歩みを再開した。
通りの左右の商店は依然、地獄の釜のように火を噴き出しているので、できるだけ道の中心部を進む。
あちこちに真っ暗な塊があった。人の遺体である。
二つ三つと折り重なっているのは家族である。
子どもを守るように親が上に被さり、そのままの形で炭化したのだ。
だが、もはや誰も気にもしない。
みな、ここまでの凄絶すぎる経験で感情が麻痺しているのである。
ただ、足を前に進めるだけで精一杯、憐れんだり、悲しんだりするだけの余力が失せている。
唯一の例外は、やはりXだった。
遺体を見るたびに、口の中でもごもごと何か呟いている。
経文を唱えているのではない。
「難しいですなあ。なぜ戦争が起こるのか」
「人が減るのは困りますなあ」
「悟れる人間を。そうですなあ」
会話しているようなのだ。
しかし、相手がいない。
Yは訊いた。
「どなたとお話しされているのですか?」
Xが自分の頭を指す。
「観音様だよ」
「おお!観音様が我らをお救い下さるのですか?」
「いや、そいつは無理だよYさん。観音様は雨を降らせたり、B29を落としたりすることはできない」
「では、どのようなお話を?」
「観音様はこうおっしゃってる。こうして戦争で大勢の人々が死んでいくのは悲しむべきこと。平和な世を作るためには、なんとしても教えを広め、悟りに到達できる人間を増やさねばならない」
Yはふいに湧き出した涙を拭った。
「おっしゃる通りです。この地獄から人々が救うのが、X先生の、わたしたちの協会の使命です」
歩くに従って、また周囲の人々の数が増えてきた。
さきほどの大火炎を生き延びた人間が、彼ら以外にもいたのか。
それとも路地から出てきたのか。
やがて、道は○○街道と合流した。
人の流れが一挙に何百人、いや、何千人という数になる。大八車を押した大家族、リュックを背負って幼い妹の手を握る男の子、老婆を背負った若者、あらゆる人々が同じ方向に向かって進んでいる。
Yたちはその流れに飲み込まれた。
引き返そうにも、人波の圧力でうまくいかない。
「この人たちは、どこに向かってるんだ?」と、少年警官。
Yは都内の地図を思い浮かべた。
「この先は○○川です。○○橋を渡って○○島へ向かうつもりなんでしょう」
「○○島?」少年警官が首を伸ばす。「そっちの空も燃えているぞ?」
人波は○○橋へとYたちを運んでいく。
Y、X、少年警官、それにここまで一緒についてきた避難民たちは、人混みの中で切り離されてしまった。互いを目視はしているが、声が通らない。
Yは一瞬、路地に逃げ込むことを考えたが、そんなことをすればXとは二度と会えなくなる気がした。
一行は、周囲に押されるようにして○○橋に吸い込まれた。後ろから来る人々の圧で、どんどん前に進んでいく。
だが、ついに前方の人の歩みが止まり、まったく動けなくなった。
橋の反対側から、○○島の人々が同じように橋に雪崩れ込んでいるのだ。両岸ともに炎に包まれているし、それは互いに目視できているのに、人々は必死で反対側に辿り着こうと、橋の上で押し合いへし合いしているのだ。
Yは嫌な予感が止まらなかった。
さきほどから、降り注ぐ火の粉の数が増している。
気温はどんどん高まり、空気が極度に乾燥し始めた。
さきほど通り抜けてきた、○○通りもこのような感じだった。
まもなく地獄が始まった。




