【教祖への道】X=観音様
性行法により、スミコは無我の境地を彷徨っている。
身体は敷布団の上で小刻みに痙攣するばかり。
Xは彼女の腹が冷えないよう、毛布をかけてやると、浴衣を着て玄関から外に出た。
牛乳受けから、牛乳瓶二本を取り出し、足元に置かれている東京新聞を拾い上げる。
彼は縁側にあぐらをかくと、ゆったりと新聞を広げた。
スミコの家には小さいながらも庭がついている。
剪定されていない松が四方八方に枝を伸ばし、池には落ち葉が溜まっているが、庭は庭だ。農村出身のXにとっては、身近に自然の懐かしさを感じられる贅沢な場所だった。
バサバサと新聞をめくっていく。
やれインドシナの軍事都市を降伏させただの、支那北部で大炭田を確保しただの、威勢のいい記事ばかりだ。
もっとも漢字の一部が分からないので、内容を完全には理解できない。
悟ったさい、Xは字が読めるようになった。
正確には、かつて尋常小学校で教わった文字というものを、意味あるものとして認識できるようになったのだ。
とはいえ、農作業の手伝いを優先して、授業をさぼったことが何回もあるのだ。その間に講義されたいくつかの漢字はさすがに読みようがない。
彼はスミコの文箱から赤鉛筆を持ってくると、読めなかった漢字を丸で囲った。
三十分ほどすると、スミコが、ううーんといいながら身体を起こした。豊かな乳房がこぼれる。Xは彼女のとなりにしゃがみ込むと、新聞を近づけた。
「赤いところを読んでくれ」
スミコは「はい」とテキパキ読み上げる。
いつものことなのだ。
赤丸のひとつが、浅草の小学校の生徒たちによる慰問活動の「慰」についていた。
スミコは誌面なぞっていた手を止めた。
「ねえ、あなた。ほんとうにこんなことしてていいの?」
「なにがだ?」
「あなたまだ若いじゃないの。それをあたしみたいな年増と」
「年増なんてとんでもない。スミコさんはじつにお綺麗だ」
「ありがと。でも、ほら、子どもができたらあなたの迷惑になると思うの。もちろん、わたしは一人で育てるつもりだけど、あなたがのちのちどこかのお嬢さんと結婚したり、偉い人になったら、籍を入れてなくても子どもがいることが足を引っ張るんじゃないかって」
「子どもなあ」Xは五厘刈りの頭をなでた。「じつはわしもそのことを考えたばかりなんだよ。たしかに、わしには大望がある。わしはあんただけじゃなくて、ひとりでも大勢の人間を救いたい。だが、子どもができることが、その邪魔になるとは限らんのではないかな。できたら、どうするか。そりゃあわしも育てるさ。わしの子だからな」
「Xさんっ」スミコがXに抱きついた。
観音がいう。
〝すばらしい。あなたはこの婦人を救ったのです〟
〝いまのは違うんじゃあないですか?〟
Xはスミコの背中をなでながら、心のなかでいった。
〝彼女は悟りを開いたわけじゃないでしょう〟
〝同じことです。彼女自身の悟りで不安がなくなるのも、あなたの行動でなくなるのも。すべては同じです〟
〝観音様はじつにおおらかだ。やっぱりわしなだけはありますな〟
観音は〝はっはっは〟と笑ったあと、〝さあ、もっと大勢の子羊たちを救いましょう〟といった。




