【教祖への道】信者1号
上野駅に降り立ったXは、帝都の玄関口の壮大さに驚嘆した。頑健なコンクリート造りの駅舎は神殿さながら、改札は十三個も並び、人々が押し合いへし合いしながらひっきりなしに出入りしている。鋏を入れる車掌の手の動きは、まさに目にも止まらぬといったほどだ。
駅前のロータリーには、移動を控えた陸軍の大隊規模の部隊が美しく整列していた。その周りでは修学旅行中の学生たちがはしゃぎ、風呂敷を背負った行商の集団が食べ物を売りつけようとしている。ひとりふたり、上官の目を盗んでスルメを買っている若い兵士が見えた。
Xの腹が鳴った。見回すと駅舎の周りには屋台が軒を連ねている。彼はうどん屋、おでん屋、寿司屋を梯子してたらふく飲み食いしたあと、甘味としてカルメ焼きを買い込んだ。
満腹になったが、金村からもらった金はほぼ底をついた。
東京には身寄りもなければ、知人の一人もいない。
今夜の宿の当てはまったくない。
「どうしたもんかなあ」
つぶやくと、観音様が答えた。
〝これほど人がいるのです。声をかければよいではありませんか〟
かつてのXならば、観音様の提案に引いてしまったろう。自分のような見た目も悪い大男が、誰に何というのか。平身低頭したとしても、怯えられるか蔑まれるかが関の山だ。
だが、いまのXは何の不安もなかった。
悟りを開いた人間は起きてもいないことで悩まない。
「そりゃあそうだ」と頷いて、財布に残った金をさらうと、屋台の一つでスッポンの生き血の瓶詰めを購入した。
観音様が「なぜそんなものを?」という。
Xは笑った。
「観音様はわしの無意識なのに、わしの考えがわからんのですか? 話しかけるきっかけというやつですわい」
Xは瓶を片手に左右を見回すと、目に留まった二十歳ほどの女性に近づいた。国民服姿のいかにも真面目そうな勤労女性だ。
「やあやあやあ」Xがいうと、彼女はぎょっとしたように目を向き、Xが二の句を告げる前に人混みに紛れて姿を消した。
〝あっはっはっは。きっかけになりましたか?〟
Xは鼻を鳴らした。
「なあに、これからですわい。たしかに、わしの見た目は恐ろしげですがの。ほんの少し目を合わせて話すことさえできれば」
そこからまた二人の女性に声をかけようとしたが、同じようにまともに会話しないうちに逃げられてしまった。
だが、四人目の女性は違った。
Xはまずこう切り出した。
「ご婦人、落とし物ですぞ?」
女性が振り向いた。Xは、おっ!と思った。三十半ばほどのちょっとしたいい女だったからだ。地味なスカートに包まれた腰回りはふくよかで、何人でも子供を産めそうな体型をしている。
「落とし物、ですか?」女性は怪訝な顔をした。
「ああ、ほら、これをいま落としましたな」
Xは先ほど買った瓶を掲げた。
「スッポンの生き血」
女性が笑った。
「まさか。わたしのものではありません」
「いやいや、ご遠慮なさらず。ほら、熊坂名物ですぞ。飲めばたちまち精がつくとか。そうか、落としたことが恥ずかしいのですかな?」
「恥ずかしいとかでなく、違いますから」
「ふむ。わし、少々怪しいですかな?」
「怪しいです」女性がまた笑う。
「なら、怪しくないことを説明するために、五分いただけますかな?」
「なんでですか」
「五分だけで終わり。約束しましょう。いや、せっかちさんですな」
Xはぐいぐい行く。ほんの三ヶ月前は女の手を握ったこともない彼だったが、金村の村にいる間に十人ほどの女たちを、計二百回は抱いた。ようは女に慣れているのだ。しかも、悟りを開いたことで常に幸福感に満ちており、余裕がある。己への自信が溢れているのだ。
五分だけということで、Xは女性を連れて上野公園を散策することに成功し、その日の晩には日暮里にある彼女の家に上がり込み、布団に潜り込んでいた。




