【東京大空襲】トタン屋根
超高温の炎は、タコのように支腕を伸ばし、犠牲者を次々と消し炭に変えた。
もちろん炎がじっさいに生きているわけではない。
博識のYは、たんに可燃物に引き寄せられているだけたと、脳では認識していた。
それでも、炎に邪悪で純粋な意志が宿っているかのように感じざるを得なかった。
通りの左右の商店は猛烈な火炎に包まれている。
退路には、生きた炎が前方以上に蠢いている。
炎は、地面から高さ50センチほどに浮き上がり、まさに海中をおよぐタコのように、ふわふわうろついていた。
Yの足は恐怖にすくんだ。
落ち着くために、Xから教わった呼吸法を使いたくとも、空気が加熱しすぎており、呼吸に集中できない。
若い警官も、連れ合いをなくした男も、そのほかの避難民も、誰もが死の予感の前に動けなくなっていた。
例外はXだけである。
Xは「よっしゃ!」と吠えると、そのゴツい手のひらで、Yを含めた避難民たち全員の頬を張った。
Yはふっとび、地面に倒れた。
メガネを拾い上げて、どうにか立ち上がる。
「な、な、な、なにをなさるんですか!」
Xが笑った。
「そのいきそのいき!さあ、みんな!進むしかないんだ。進もうじゃないか!」
Yは自分の足に力を感じた。
ああ、そうだ。と思う。この方はどんなときでも道を示してくださるのだ。どんなときでも、迷い子たちを導いてくださる。
Xには、Yのような学もなければ、美麗な肉体や顔もない。金もないし、運気もあるとはいいがたい。
それでも、Xには人々を惹きつける何かがあった。
死という狼に狙われて右往左往する自分達のような羊を、生へと導く羊飼いなのである。
集団は身を寄せ合って前進を再開した。
轟轟という炎の唸りはますます大きくなり、もはや互いの声すら届かない。
みなが見るのはXだけである。
Xが一方向を指差すと、そこに向かって死力を尽くして駆けるのである。
どこに向かっているかなど考えることもできない。
ただ、Xを信じるだけなのだ。
無数の生きた炎の動きはまるで予測がつかない。
Xの指を信じ、Xが見出した活路を突き進むほかないのである。
途中、Xが辿ってきた道を逆進するよう指示を出した。
ほとんどの人間はXに従ったが、一人、スーツを着た勤め人風の男が「戻るのはいやだ!いやだ!」と叫んで、Xの指揮から離れた。
男は十メートルほどは問題なく進めたが、そこで一際強烈な風が吹いた。Xが手ぶりで身を屈めるようにいう。みなは従ったが、集団を離れた男にはXの動きが見えていなかった。
Yは、自身の後頭部のすぐ上を、大きな何かが猛スピードで横切っていくのを感じた。ほんとうに、髪の毛からほんの数センチ上である。
猛火に周囲を囲まれているというのに、全身に鳥肌がたった。
顔をあげると、畳一枚分もあろうかという大きなトタン板がくるくる回りながら、集団から逸れた勤め人に突っ込んでいくところだった。
Yは炎を背景に、勤め人の黒い影が、上半分と下半分に分断されるのを見た。




