【Xの生い立ち】ブッダの村
「ま、大筋はそういうことです」金村が立ち上がり、Xについてくるよう促した。
案内されたのは、小さな研究室だった。壁の棚には試験管やフラスコがずらりと並び、Xには用途の想像すらつかない電気機械たちがブンブンと唸っている。奥の壁は一面全てが黒板になっており、複雑な計算式や化学式にぎっしりと埋め尽くされている。
Xは手を叩いた。
「こいつはたいしたもんですなあ」
「この村の裏手には水力発電所がありましてね。この村が養蚕で栄えていたころ、当時の新しもの好きの村長が、わざわざ独逸から技師を呼び寄せて建築したものです。発電量が極めて少ないため、お国に接収されることもなく、こうして自由に使えるのです」
金村は小さな冷蔵庫のような機械の前で足を止めた。スイッチらしきものを切ると、機械の前扉を開き、中から小さなビーカーを取り出した。
どろりとした薄墨色の液体が入っている。
「そいつは?」と、X。
「かんたんにいうなら、ハッショウマメからある種の成分を抽出したものです。古来より、一部の修験者たちはマメを食べることで悟りに近づけると考えていました。とある宗派ではマメはブッダの身体の一部となまでされています」
「じゃあ、納豆を食ってりゃ悟れるってことですか?」
「そうです。統計的に豆科植物の摂取量が多い地域では、犯罪の発生率が低いという結果が出ています。また、納豆の消費量が日本で三番目に多い○○県○○群は、住民の幸福度が極めて高いとされているのです。では、なぜマメを食べると悟りに近づけるのか。それは、マメが無意識を強化し、幸福感をもたらす神経伝達物質の前駆体を多分に含んでいるからです。特定の仏教宗派は肉や魚を禁じています。わたしは、あれらは本来、前駆体の摂取を推奨するものであったと考えています」
Xは金村が差し出したビーカーを手に取り、液体の匂いを嗅いだ。食欲をそそるとはいいがたい。
「しかし、なんちゅうか。幸せになれたとしても豆ばかり食う生活ってのは、味気ない気もしますねえ」
「もちろん、脳内物質の分泌を操作する方法は食以外にも多数あります。現在法、呼吸法、問答法、苦行法、どのようなやり方であれ、最終的に悟りに到達できればそれでよいのです」
「なるほど。そいじゃ、もう一つ教えて欲しいんですがね。悟りに到達したら、なにかこう、声が聞こえたりとかはあるんですかね?」
「ありますとも。悟り状態の脳は、自己と他の境界が曖昧になります。つまり、この世界すべてと一体化するのです。そのとき、地球の意思を感じる人もいれば、神の声を聞く人もいます。その質問が出るということは、あなたも何かの声が聞こえたということですか?」
「わしは、その、村の観音様の声が聞こえとるんですが」
「声を恐れる必要はありません。声はある意味ではあなた自身なのですから。悟りの一環として受け入れればよろしい」
金村はXからビーカーを受け取ると、灰色の液体を優雅に飲み干した。
ビーカーを洗い場に置き、二人は研究室を出た。
金村が先に立ち、洋風の医院と連結した藁葺きの母屋にうつる。
「そんで、悟りに到達した人間は、そのあとはどうなるんです?」と、X。
二人は大きな縁側に腰を落ち着けた。
小春日和である。
村はじつにのどかだった。
向かいの家では、年頃の女性二人がこちらと同じように縁側に座って茶を飲んでいる。
金村が彼女たちに手を振る。
「どうにも? ただ日常を継続するものもいれば、釈迦牟尼のように自らの技法を他者に伝えようと腐心するものもいます。あるいは、さらなる悟りの高みを目指すものも」
「先生はどうなんで?」
「わたしはそのすべてというところですかね。悟りというのは、自ら幸福を生み出す技術です。苦を苦としない技です。しかし、そもそも自身の周囲に苦となる要素がなければ、脳と肉体はより研ぎ澄まされ、さらなる幸福に辿り着けるのではないでしょうか。そして、周囲から苦を排除するには、高い知性を持ち、精神的に安定し、温和な性質を備えた人々と共に暮らせばよい」
金村が両手を広げた。
「ですから、ここを作ったのです。この村の住人は全員悟りに到達しています。つまり、ブッダだけの村なのです」




