【Xの生い立ち】悟りと化学物質の関係
「わしが悟りねえ」
Xはテーブルに出ていた紅茶をすすった。
これまでに嗅いだこともない香り、味わったことのない味に思わず「うまい!」と声が出た。
金村が笑みを浮かべる。
「品も良いですが、その味はあなたが悟りを開いているゆえに、より高まっているのです。味覚や嗅覚をはじめとした五感が以前よりも研ぎ澄まされているのですよ」
「いや、そうなんですかねえ。なにしろ、わしは貧乏だったもんで。紅茶なんてものを飲むのはいまが初めてなんですわ」
Xは空になったカップをテーブルの小皿に戻した。横に置かれていた茶菓子の包みを開く。中にはクッキーが入っていた。紅茶同様にたいへんな貴重品である。口に放り込んで噛み砕くと、濃いバターの味が広がった。
「そんで、仮にわしが悟りを開いてるとしてですね。なんで五感が鋭くなるんで?」
「その質問に対する回答は、あなたの知性が高まった理由にもつながります」
開かれた窓の外を、クワを担いだ若い女が二人通り過ぎた。
二人は金村に手を振り、金村も振り返す。
女たちの顔は決して美形ではないが、どこかいきいきとして魅力的だった。
「さきほどあなたもおっしゃったように、一般に、悟りを開いた人間は不安に囚われることがなくなります。心の平穏を得て、煩悩から解き放たれる。心が静かになるというのは、どういうことか。それは、脳が静かになるということです」
金村が自分のこめかみを、痩せた指でなでた。
「脳という組織は〝考える〟ことに脳細胞という資源使う。悩むという行為はとりわけ大量の脳資源を必要とします。ようは資源の浪費なのですよ。浪費がなくなれば、脳はより効率的に働く。五感の処理能力はあがり、同時に思索は深くなる。つまり賢くなるのです」
Xは金村の動きを真似て、ゴツゴツした指で自分の坊主頭を押した。
「悟りを開くと、脳みその無駄がなくなるから賢くなるってえのは分かりましたよ。しかし先生、よくわからんのですが、そもそも悟りってのは、何なんですかね?」
「無です」
「ええと、禅問答的なのは苦手なんですがね」
「そうではありません。無とは、すなわち無意識です。西洋医学においては、人の意識は常にあるものではないのです。むしろ、わたしたちは生活のなかで、頻繁に意識なしですごしているのです」
「意識がない? それでどうやって動いてるんです?」
「身体が勝手に動くのです。たとえば、あなたは自転車に乗ったことはありますか? 自転車に乗っていると、いつの間にか何も考えずに、ペダルを漕いでいた自分に気づくことがあるはずです。 ぼうっとしている間に何百メートルも走っていたことがあるでしょう? あれは、あなたの身体が意識のない状態で勝手に動いているのです」
Xは自分の手足を見下ろした。
故郷の村で農作業に勤しんでいたころ、気付かぬうちに一刻あまりが過ぎて驚いたことがあったのだ。
「身体が?」
「もちろん、身体が勝手に動くというのは語弊があります。身体を動かしているのは脳ですからね。脳が意識を生成せずに、無意識状態で身体を操作したというべきでしょう」
「まあ、わからない話じゃないですがね。しかし、頻繁に意識なしで過ごしてるってのは、無理がないですかねえ」
「いえいえ、たとえば、あなたは呼吸をするとき意識していますか? 歩く時はどうでしょう。足の運びに気を遣いますか? 口のなかの舌の位置を気にしたことは? すべて無意識が処理しています。無意識というのは、あなたが思っている以上に高度な作業を行えるのです。極めれば自転車どころか、本の朗読や剣の立ち合いすら無意識にこなせるようになるでしょう。そして、無意識のなにより重要な点は、物事に悩みようがないという点です。悩むための意識がないのですから。無意識を使いこなせるようになった人間は、無意識である間、脳を休めているともいえます。だからこそ、いざ意識が発現したさい、その処理力が上がるのです」
「そりゃ凄い! でも、すんません。まだわからないんですがね。わしはいったいどうやってその無意識を使いこなしてるんです?」
金村がまた額を叩いた。
「素晴らしい質問ですよ。そして、答えはやはり脳です。英国の○○大学の○○教授が六年前に発表した論文によれば、わたしたちの脳は神経伝達物質という、小さな小さな化学的物質を生成することで状態の変化を引き起こしています。そうした伝達物質をとくに多量に分泌するのが、前頭葉と呼ばれる部位です。つまり、あなたが中国戦線で損傷したところですよ。わたしの推測ですが、あなたはもともと人よりも無意識を使うのがうまかった。あまり悩みなどなく日々を送っていたんじゃないですかね。はじめから悟りの才能があったともいえます。そして、銃弾が前頭葉をわずかに傷つけたことをきっかけに、才能が爆発的に高まったのです」
「化学物質? 先生はお釈迦さまの教えは、化学物質を操作する技だっていってるんですかい?」




