【Xの生い立ち】仏陀がいっぱい
「悟りとはすなわち無です」
そう話すのは、金村欣二、脳学者であり宗教家でもある男である。療養所の医師の同級生だというのだから、歳は七十歳ほどか。長い白髪と白鬚の持ち主で、どこか仙人めいた雰囲気がある。
Xが金村と向き合っているのは、○県○○郡にある金村の私邸である。家は年季の入った個人医院であり、藁葺きの庄屋家屋と、コンクリ作りの平屋がくっついたような形をしていた。
Xは電車とバスを乗り継ぎ、およそまる三日かけてこの集落を訪ねた。
Xの故郷よりなお辺鄙な地域であり、十数軒の家々に、瓦葺きの屋根はひとつもなかった。
地勢の悪さから田んぼはどれも小さく、小屋から顔を覗かせている牛も貧相である。
だが、それでいて村内の雰囲気は驚くほど柔らかい。
すれ違う人々はみなにこやかで、どこか楽しげである。
彼が話しかけた三十歳ほどの野良着姿の女性はたいへんに親切で、Xが金村を訪ねてきたと知ると、わざわざ一里近くも離れた金村の家まで案内してくれた。
人が良いのは当の金村も同じであった。
Xが医師からの紹介状を差し出す前に、身元も知れないXを日差しの差し込む応接間に入れ、いまや滅多に手に入らなくなった舶来の紅茶を惜しげなく出してくれた。
金村は紹介状に目を通すと、面白そうにいった。
「なるほど、脳損傷と知力の関係に興味がある、と」
「はい、この通り、わしは銃弾を頭に受けて生還した身ですので」Xは自分の額を指した。
金村が白い髭をなでつける。
「あなたが不思議に思うのも無理はありません。脳に傷を負った結果、知力が高まるというのは自然の摂理に反してますからねえ」
「わしは別に頭が良くなったとは」
「わたしに隠す必要はありません。わかるのです。あなたは悟っている。悟ったことで知性が向上したのです」
「はあ? 悟り? それってお釈迦さまのアレのことで?」
Xはかつて生まれ故郷の村の寺で、住職が話していた内容を思い出そうとした。このところ過去の記憶を容易に参照できるようになっているのだ。住職が話していたのは、支那事変の少し後だった。出征していく若者のために「悟り」について法話を行なったのだ。
「死は恐ろしくはないとか、輪廻転生から免れるとか、そういった話ですか?」
「本質を外してはいませんね。悟りというのは、無理やり一言に収めるならば、不安を感じなくなるということです。ご存知ですか? 仏教を創始した釈迦牟尼は、宗教家ではなかった。彼が説いたのは技術、精神の安定を図るための、具体的かつ実践的な自己操作術なのです。彼が現代に生きていれば、高名な精神科医として名を馳せたことでしょう」
「うーん。つまり、坊さんたちの読んでるお経っちゅうのは一種の技術書だってことなんですか? あれ、お釈迦さんの言葉なんでしょ?」
「さすがに鋭い。一言で言うなら、その通りです。釈迦牟尼が説いた、精神操作術を身につけるためのコツを彼の弟子たちが書き留めたものがお経なのです。現代の宗教家たちは、お経を唱えることそのものに心を救う力があるとしていますが、読経とは、じつのところ教科書を音読するに等しい行為なのです」
「はあ、しかし、わしはまともに経文を読んだことがないんですがね。お釈迦さまの説いたコツなんぞ、何一つ知らんのです。そんなわしがどうして悟れるんですかい?」
「悟りの道は一つではないからですよ。たとえば、そう、自転車の運転を考えてください。街の自転車屋で自転車を買う。店の主人が操作法が書かれた説明書を付けてくれるでしょう。購入者はそれを読みながら、何度も転倒することを繰り返して運転術を身につけていくわけです。しかし、まれに説明書など読まずとも、始めからいきなり運転できる人もいるのです」
Xは手をぶんぶん横に振った。
「いやいやいや。それじゃあ、世の中お釈迦さまだらけになっちまうでしょう」
「その通りですよ。だから、じっさいに世の中には何千何万という悟った人、仏陀がいるんです。悟りというのは、修行者だけが手にできるものではない。悟りの才能があるものならば、ごく自然に身につけているのです。そこいらの牛乳配達夫が悟っていることだって、十分あり得るのです。ただ彼らは、自分が悟りを開いていることに気づいてないので、悟った!とはいわないだけなのですよ」
「牛乳配達してる仏陀ぁ?」
「ええ。わたしはこれまでに様々な仏陀を見てきました。悟りを開いた人間は見れば分かります。彼らはみな不安から解放され、特殊な幸福感に包まれている。畑を耕している仏陀がいれば、駅でもぎりをしている仏陀もいました。そして、支那で頭部を負傷した元兵士の仏陀もね」




