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陰獣X  作者: 白色矮星
第一部 悟りへの道
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東京大空襲01

「わしらは必ず戻ってきます」


Xの声質は力強く、人の心に響く。

いまさきほどまで、半ば混乱状態にあった警察官がハッとしたようにXの方を向いた。


ここ、○○警察署の留置場は耐え難いほどの暑さになっていた。放り込まれていた十人足らずの男たちは、汗を滲ませている。なかでも巨体のXは暑さに弱いのか、坊主頭はバケツの水をかぶったがごとくで、作務衣の首元もびしゃびしゃだ。


「巡査さんには決してご迷惑はかけません」


さすがだ。Xの右腕たるYは、ワイシャツの袖でメガネの曇りを拭きながら思った。こんなときでも〝悟り〟に到達しているXの声にはみじんの苛立ちもない。静かで、穏やかで、優しさに満ちている。Xはまだ三十前だが、その精神は百歳の高僧に匹敵する。


さきほどまで大声でがなり立てていた男たちも、鉄格子を握ったまま静かにしている。彼らも本能的に、この状況から救ってくれるのはXしかないと分かっているのだ。


「しかし」下っ端の巡査がいいかけたとき、ドンと衝撃音が響いた。警察署の屋上に直撃したのだろう。男たちのひとりが「崩れる!」と首をすくめる。


Yは教えてやった。「大丈夫。このところ、B29が投下するのは黄燐弾、油脂弾、エレクトロン弾の3種類に絞られています。どれも木造家屋を炎上させることを目的としたものです。ここのような鉄筋コンクリートの建物を倒壊させるほどの破壊力はありません」


「はっはっは!信頼して構わんよ」Xがいう。「Yさんは帝大理学部の出だ」


「ええ。しかし、鍋は火に耐えても、鍋のなかの野菜は蒸し焼きになります。早めに外に出るべきでしょう」


空気が焼ける匂いが強く漂っている。それにこの凄まじい熱気。おそらく署の外は大火災になっている。


コンクリの壁越しに、高射砲の炸裂音が聞こえる。


Xがいう。

「巡査さん。こうしましょう。巡査さんは、わしといっしょに来てください。空襲が終わったら、いっしょにここに戻りましょう。そして、わしに脅されて仕方なく留置人を放ったといってくださればいいんです。なに、もしわしが途中で巡査さんを撒こうとしていると思ったなら、遠慮なくそれで斬ってください」


巡査の手の中にある、抜き身のサーベルが、白熱電球の光を受けてギラギラ光った。


巡査は逡巡している。とても若い、顔のあどけなさからすると、十六かせいぜい十七というところだろう。


「どうかわしを信じてください」


「あんたを信じる、か」朴訥そうな新米巡査は苦笑すると、サーベルを片腕で軽く振った。刃がぴたりとXの首筋に張り付く。刃先は微かに震えている。


「あんたがどういう人間なのかは、巡査長からよく聞いてる。我が神国を冒涜するような教えを広める、新興宗教の教祖だろう? ぼくみたいな子供なら手玉に取れると思ったのかな?」


「めっそうもない」Xは頸動脈に刃を押し当てられているというのに、まるで動じていない。涼やかな眼差しで相手を見据えている。


「いっとくけど、ぼくは斬るべきときは本当に斬るからな」

巡査はサーベルを腰の鞘に収めると、牢屋の鍵を開けた。


Yは汗を拭った。近頃は年少者までがどっぷりと軍国主義に浸かっているが、この少年巡査もその類らしい。お国のためとあらば、本気でXを斬り捨てそうに思われた。


檻のなかにいた男たちも、巡査の危うさを感じたのだろう。これまでガンとして鍵を開けなかった彼に文句を言うでも睨むでもなく、みなそそくさと正面玄関へと走っていった。


Xがいう。

「それで、Yさん。いま、わしらに必要なものはあるかな?」


「必要なもの?」


「ほら、わしらはこれから爆弾の下を投げるわけだ。なのに、わしもYさんも、こちらの巡査さんも普段着のままだからの。観音様がちょいと準備したほうがいいといっとるんだ」


まったくもって。Yは思った。Xは小学校すらまともに出ていない。しかし、彼には〝観音様〟がおりてくる。信者たちが信じる通りの超存在なのか、あるいは二重人格に過ぎないのか。いずれにせよ、観音様はX本人はもちろん、帝大出のYよりも頭がまわる。


「てぬぐいです。煙の中を進むわけですから、濡れた手拭いがあったほうがいいでしょう」と、Y。


「だ、そうです」Xが巡査にいう。「拝借できますかな?」


巡査が鼻の穴をふくらませた。

「お前たち、警察から盗むつもりか!?」


「いえいえ、お借りするだけです。さあさあ、洗面所にあると思いますよ。ご案内くださいよ」


数分後、Y、X、巡査の三人は、微かに汚臭の漂う使い古しの手拭いで口元を覆い、のちに「東京大空襲」と呼ばれる昭和○年○月○日の夜に進みでた。


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