後編
「よろしい。紅尾愛花は、『縁の下』なんだ」
「縁の下、の力持ち?」
田山は不明瞭な問いを無視して、続けた。
「縁の下が幸せな間、日本は平穏が続く。縁の下が不幸に陥ると、日本も何らかの打撃を蒙る。希有な存在だ。現在日本には二人いる」
「そんなアホな話がありますか」
予期した反応だったか、田山は頬を緩めた。
「試してみろと言いたいところだが、恐ろしくてそんなことは言えない。バブルが崩壊したのも、阪神と東日本大震災も、地下鉄テロ事件も、みんな縁の下のせいなんだぞ」
「百歩譲って地震がそうだとしても、バブル崩壊は経済政策の誤りだし、地下鉄事件は特定宗教のせいでしょう。何でもかんでも縁の下とかいう存在のせいにするなんて非科学的だ」
田山は頷いた。
「確かに、昔の人が祟りと呼んだ事象に似通っている。だが、両者に相関が認められるのだから、非科学的とは言わせない。我々も、手を尽くして調べ何度も実験したんだ。お陰で日本国民に多大な犠牲を払わせた」
「原因や理論が不明でも、縁の下が不幸に陥らなければ、災いの被害を最小に食い止められると経験的にわかっていれば、研究より先に被害を防ぐことを優先すべきだとは思わないのかね?」
「例の原子力発電所事故を知っているか? 燃料の元を、排水溝掃除みたいに、バケツでやりとりしていたんだぞ。チェルノブイリの二の舞になってもおかしくなかった。首都圏に被害が拡大した可能性だってあったんだ。あの時は、縁の下の不幸を全力で抑えたからこそ、犠牲者が最小限で済んだんだ」
真剣に聞く努力はしたが、田山が力説すればするほど、馬鹿らしく感じられる。
「はあ。そんなややこしい人は、国外追放でもしたらどうですか」
「既に試してみた」
軽い冗談に、暗い顔が応じた。
「アメリカ人と結婚して、渡米するよう仕向けた。米国籍も取った。我々は快哉を叫んだものだ。当人は、不幸にも殴り殺された。亭主が暴力癖を持っていたんだ」
「それで?」
「向こうの政府筋に縁の下との因果関係がばれた。厄介払いのつもりが、倍返しされたようなものだ。最悪だった。以来、安全保障条約の改定や軍の基地問題で、我が国が強く出られないのも、あれが一因だ」
心から悔やむ風。年齢からして、その頃の当事者である筈がないのに。霊に憑衣されているとか。付き合いきれない。しかし背後霊ならぬ現実の圧力には逆らえない。
「もし本当にそんな人がいるとして、最初から隔離しておけばいいじゃないですか」
気分は議論のための議論。真剣なのは田山だけ。それに黒服。
「それがわかれば苦労しない。生まれた時には、皆と変わらないんだ。縁の下が死ぬと、概ね十五、六歳の女性が突然変異を起こし、新たな縁の下が出現する。一人は常に隔離できるのだが」
「一人できるのだから、もう一人ぐらい増えたって、手間は変わらないでしょう」
「常に隔離が可能な一人というのは、皇族だ」
また突飛な話が出てきた。以前、皇族を騙った詐欺事件があった。知られざる世界に住むやんごとなき方々の名前を出されると、深く追及してはいけないような気がして、ついつい騙されるみたいだ。田山が詐欺師としても、これだけ手間をかけてまで義教を騙す利を思いつかない。
「はあ。二人とも皇族ってこともあるでしょう?」
「そういう例は、絶対にない。私見だが、南北朝時代の混乱に関係があるかもしれん。とにかく、一人は必ず民間人から発生する。だからどこにいるか、すぐにはわからない」
疫病の話を聞いているみたいだ。そもそも、話の主題はどこへ行った?
「そういう訳で、黒田くん。我々は、君が紅尾愛花を幸せにすることを、心から願っているのだよ。彼女は君にべた惚れだからね。失恋でもしたら、日本に何が起こるか想像もつかない」
不意に話が戻った。義教は返答に困った。
「そりゃまあ」
「怖じ気づいたかね」
こんな荒唐無稽な話を聞かせられたら、誰だって二の足を踏む。一体何者? 愛花との関係は? 田山の表情が曇った。
「自信がないなら、せめてきれいに別れてくれたまえ。こちらで次の手を打つ」
「次の手?」
「君に教える義務はない」
やはり愛花は、怪しい団体の関係者かも。
「愛花の幸せと引き換えに、こちらへ色々お願いすることもできる訳ですよね」
遠慮がちに言ってみた。
「君は我々を脅迫できないよ。彼女の幸せは、我々が判断する。我々は黒田くんの人権を尊重してきたけれども、憲法にもある通り、公共の福祉との関係においては個人が犠牲になることもやむを得ない。欲張れば、君一人が不幸になるだけだ」
「そうですかあ」
午後会社へ出勤すると、義教は午前中外回りの仕事をしていたことになっていた。誰も怪しまず、誰も目配せしたりしない。会社は普通に動いていた。会社にも、彼らの手の者が潜り込んでいるのか。上の空で仕事を片付け、残業もそこそこに退社した。
スマホも鞄も返してもらっていた。男が打ったメールを確認したら、履歴ごと削られていた。他に消えた物はない。
愛花に会いたい、とメールするとOKの返事が来た。待ち合わせ場所を決める。
義教が先に到着した。どきどきしながら待つ。久々の高揚感。別の要因があることは自覚している。
吊り橋が揺れて落下の心配でどきどきするのを、恋のときめきと勘違いする心理学実験を思い出した。
さして待たなかった。愛花は、息を切らしてやってきた。いつもは先に来て待つ側だから、焦ったかもしれない。
一緒に食事した。午前中に起きた事件の話はしなかった。もしや愛花が仄めかしやしないかと期待したが、全然そんなことはなかった。段々、田山の話など、どうでもよくなった。どうせ理解できなかった。
やっぱり愛花が好きだ。要するに、彼女を幸せにすればいいのだ。
「結婚してくれる?」
愛花は、きらきらした笑顔を向けた。口を開く前から返事がわかった。
「うん。ありがとう」
言ってしまった。婚約成立。もう後戻りはできない。また、どきどきした。折角買った指輪を家に置いたままだ。
義教は愛花と結婚した。息子と娘も授かった。家族四人、幸せな生活を送っているつもりである。
風俗も断った。至って真面目な生活だ。そして、日本に大きな災害は起きていない。
一人でいる時、ふと、あれは本当の話だったのかと思う。田山にも黒服の男たちにも再会していない。
愛花の家へ挨拶に行った時も、結婚式の時もその後も、彼らを思わせる人には出会わなかった。
あれは愛花が仕組んだ壮大なお芝居で、どちらかが死ぬ間際になったら、裏話を打ち明けてくれるのではないかとの期待がある。
平穏な日常に退屈を覚える時もある。誘惑は常にある。ちょっとぐらい浮気しても彼女が気付かなければ、問題ない。万が一ばれたとしても、離婚するつもりはないのだから、妻を不幸にしたことにはならない。大体、妻を不幸にしたら、日本全体が不幸になるなんて大袈裟な話だ。
いやいやいや。妻が全員不幸だとしたら、そんな国もまた不幸だと言える。田山が言ったのとは別の意味で。そうして今日も、義教は真っ直ぐに帰宅する。