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『水星の王子 トロ』


 青山霊園で酔いつぶれる、二十二時間程前、ぽん太は狭いアパートの四畳半の自分の部屋で静かに狂っていた。電気ストーブをOFFにし、大声を出す訳でもなく、暴力を振るう訳でもなく、唯、口を動かすのをやめ、力なく目を閉じ、自分の作り出した闇の中に身を任せた。ぽん太は、一言も発さずに皮膚や筋肉の更に内側に存在する絶対的な声で自分を罵倒できる限り罵倒し、嘲笑できる限り嘲笑した。そして、ぽん太は大きく息を吸い込み、力なく肺から二酸化炭素を零れ落とした。自分を鼻で笑うとなぜだか慰められた気がした。


 野球を辞めたあの時と同じ様に、ぽん太は西暦二千年三月二日の午前一時過ぎ・・・・・小説を書くのを諦めた。たんぽぽの前ででっちあげた夢。別れる理由に使った苦し紛れの嘘。そんな口から出まかせたゴミ屑みたいな言葉でも、たんぽぽと別れてから時が経ち、覚え切れない程無意味な日々が流れ、彼女の影がぽん太の人生から静かに消えていこうとすればする程、ぽん太は消えてゆくその影を追い求めるように、でっちあげた夢を叶えなければいけないという焦燥感に駆られた。全ての過ちに気づいたのは、何もかもが積もった後悔の雪の下で枯れてしまった後だった。敗者だと信じ込んでいた自分を必死に支え続けてくれたたんぽぽを・・・・・ぽん太は、スニーカーの裏底で踏みにじった。後に残ったのは、靴底の泥にまみれた汚い雪だけ・・・・・そして、ぽん太は、本当の敗者になった。


 冬に咲いていたたんぽぽは震えながら、「いつか必ず春が来るから・・・・」と冷たい景色の中で凍えるぽん太の手を握り締め、優しさと温もりをもって語り続けた。自分だけが寒いんだと思いこんでいたぽん太は、たんぽぽが与えてくれる温もりを嫌った。

 「掌に体温の残るこいつに一体、俺の何がわかるんだ・・・・」

 ぽん太は、たんぽぽがその女の子の冷え性な体に残る微かな温もりでさえ、自分に与えてくれている捨て身の愛情に気づかない。たんぽぽ以上に体温の高い自分に気づかずに、被害者意識と犠牲者であるという認識が何もかもを謝った時の流れにのせていく。たんぽぽの優しさを受け入れられずにひたすらイジケた少年は、哀れだと思い込む自分の悲しみだけを信じ、それ以外の全てを信じようとしなかった。そして、何もかもが雪に埋もれて消えた・・・・・微かな温もりも優しさも・・・・そして愛も・・・。愛のあった日々の上に、雪は降り続く。雪は思い出の上に容赦なく積もっていく。



 哀れみながら強がっていたぽん太は、一人になってから気づく・・・・・。自分の脆さ、弱さ、そして愚かさ。少年は、初めて孤独に向き合う。それは、ドアも窓もない、何もない小さな部屋に監禁されるような感覚だった。ぽん太は、その部屋の中で叫び続けた。叫べば叫ぶほどに、心に雪が降り、積もっていく後悔に心は押し潰されそうになった。ぽん太は、窓のない孤独の部屋で、心の奥の奥に広がる雪景色の中、雪を両手ですくい上げ、失った温もりを探した。雪を掻き分ける手がかじかむ。地平線の彼方まで雪は積もる。あの温もりを与えてくれた震えていた掌の面影すら、鏡のように反射する真っ白な雪は映さない。そして、美しく咲いたたんぽぽを踏みにじった後、ぽん太の心の斜面に積もった後悔は雪崩落ち、孤独の部屋ごと飲み込み、愚かさを埋もれた雪の下で抱きしめながら、ぽん太は敗者復活戦を求めるようになった。


 敗者復活戦・・・・・・・。

 そんなものが、本当にこの地球上に存在するかどうかは、かなり怪しいところだった。

そう・・・・それは、この世界に神が存在するのか、しないのかという議論と同じレベルで語られる奇跡。

 しかし、それ以外にたんぽぽを失ったぽん太に信じることのできるものは何一つなかった。弱き人間達が神にすがるように、この宇宙に無数に存在する敗者の一人であるぽん太は、敗者復活戦という言葉が持つ響きに、救いを求めるしかなかった。でっちあげた夢を叶えること・・・・それがぽん太にとっての敗者復活戦だった。だけど、どれだけ文章を原稿用紙に書いたところで、ぽん太の書く小説には終りがなかった。どこにも辿り着けない文章が原稿用紙の上を彷徨う。ぽん太は、書いても書いてもどこにも辿り着かない自分の物語を、最後には諦めた。諦めた瞬間の感覚は、野球少年だったあの日、三塁線を跨いでグランドを後にした感覚と全く同じだった。敗北感がまたぽん太の生き血を吸おうと墓場から蘇る。敗者の血を旨そうに飲む吸血鬼がぽん太を抱きしめ、首元に牙を当てようとする。ぽん太は、敗北感を抱きしめながら、何もかもが自分の無力さを証明するためだけに存在しているのだと思った。



 ぽん太は、静かな怒りをぶつけることすらできずに椅子に寄りかかりただ呆然としていた。電気ストーブを止めたせいで部屋は、一気に冷え始めた。ぽん太は狭い部屋の脇にある母親が使う鏡台を見た。鏡を覆う布が少しずれている。ぽん太は、鏡の端に映る自分の姿を見た。運動をしなくなりどれくらい経つだろう・・・・体はタヌキのようにふっくらしている。タヌキは、こらしめられる運命にあるんだ・・・・と心の奥底にあった昔話を紐解きながらぽん太は、唇を動かし、声を出さず呟いた。ぽん太一人が起きていて、他の家族は別室で皆寝息を立てていた。時おり、遠くから車が走る音が聞こえてきたが、それ以外はいたって静かな空間が周りには広がっていた。

 ぽん太は、寒さに微かに身震いした。その時、リビングの方から物音が聞こえた。それは誰かの足音だった。その足音が、狭い廊下をぽん太の部屋に向かって歩いてくる。ぽん太は、少し緊張した。しかし、その足音は気まぐれに、またもと来た廊下を戻り、リビングに引き返していって、闇の静けさに溶けるようにして消えた。


 時刻は、午前1時四十二分を過ぎていた。筆圧の高い右腕は、終りなき文章を書き続けて疲れきっている。ぽん太は、放心状態のまま、特に何を思うわけでもなく、擦り切れた畳の上に布団を敷いた。自分に言い聞かせるように心で呟く。

 「もう何をしたところで駄目なんだ。無駄あがきはやめて、眠ればいいじゃん。楽に生きりゃいいよ。適当に彼女作って、適当に生きていけば、それなりの幸せは・・・・・多分、きっと・・・・手に入る。二度と苦しまなくて済む。それが人生のあるべき姿なんだ。過去に囚われた囚人・・・・でも、今を生きなきゃならないから・・・いくら求めたって過去は二度と手に入らない。それは、刑期に服す罪を犯した囚人が、今更ながら無罪を求めるようなもの。春に咲く花は、幼かったあの頃の子供の愛の象徴。冬の寒空の中で、それをいくら求めたところで手に入らないことに気づけよ、俺。もう二十歳だ。大人にならなきゃ・・・・」

 ぽん太は、本心にない言葉をお経を読むようにして心の中で唱え、自分を納得させようとした。無宗教のぽん太にお経に書かれていることの意味が分かろう筈がない。

 ぽん太は、敷布団を敷き終え、押入れから毛布と掛け布団を取り出し、そのまま体に被りながら、電気を消し、敷布団に倒れこんだ。

 ジャージに薄いスウェットを着ているから寝巻きに着替える必要もない。ぽん太は、上掛けの毛布の中に隠れるようにして潜り込む。眠りはいつだって極上の逃げ場所。ぽん太は、一瞬で眠りに落ちた。あまりにあっさりと眠りに落ちることができた自分に、ぽん太は無意識の中で驚いた。絶望などそんなものなのか・・・・と思うほど、簡単に逃げ場へ落ちていったぽん太の意識。ただ、深い眠りの底で、狭い廊下をぽん太の部屋目指して歩いてくる足音がまた聞こえた。さっきよりもその足音は、リアルに鼓膜まで届き、ぽん太の無意識に現実的なリズムを刻みながら響いてきた。

 その足音は、今度はリビングの方へと引き返すことなく、ぽん太の部屋のふすまを開け、畳の上を軽快に歩いてきた。そして、ぽん太が自分の体と心を覆い隠す掛け布団の上へと軽やかに足を進ませてきた。ぽん太は、山なりのぽっちゃりした腹の上に重みを感じた。ぽん太は、それをいつもの神経性胃炎だと思った。精神的にやられ胃が痛む時、胃が踏み潰されるような感覚を味わうのはよくあること。味わいたくない満腹感は胃酸の爆発、そしてその後にくる荒れた胃が感じる空腹感は空っぽの自分を象徴する。

 神経性胃炎だとぽん太は信じ、眠り続けたが、その重みは四足で、胃の辺りをなんともなく通り過ぎ、ぽん太の顔の近くまでやってきた。一匹のチャトラ猫がぽん太の胸の上に乗り、寝顔を見下ろす。あまりに不甲斐ない寝顔が気に食わなくて、チャトラ猫はぽん太の顔に猫パンチを食らわせた。柔らかい肉球を力の限りに硬くして、ぽん太の顔面を思いっきり殴りつけた。一発じゃない。右前足、左前足、右と左のワンツーフックの連発。肉球パンチの乱れ打ち。そして、あらゆるパンチコンビネーションを試した後、とどめにチャトラ猫は右ストレートをぽん太の鼻に打ち込んだ。一筋の鼻血が、じわーっとぽん太の鼻の穴からしみ出てきた。チャトラ猫は、一瞬やり過ぎたと思ったが、まあ、鼻血くらい何でもないだろうとすぐに思いなおした。

ぽん太は、柔らかい肉球で殴られ続け、特に痛みを感じることもなかったが、自分の目を覚まさせようとする誰かの存在に気づき、逃げ込んだ深い眠りからかったるそうに目を覚ました。寝ぼけた目をあくびとともに開ければ、そこには自分を見下す猫がいた。

 「駄目だなー、お前も。全くもって情けない」とチャトラ猫は、ぽん太の顔に、生暖かく若干夕食に食べた猫缶のツナの臭いのする口臭でため息に似た呆れ息を吹きかけながら言った。

 「昔なぁー、藤村操って人が、日光の華厳の滝に飛び込んで自殺する前に言った言葉を知ってるかい?お馬鹿たぬきのぽん太君。大なる悲観は大なる楽観に一致するって言ったんだよ。水星の学校で勉強する地球史のマニアックな夏の課題研究『日本人はいかにして自殺するか?』ってので学んだよ。お前のは、大なる楽観に一致しない自分を慰めるだけの薄っぺらい悲観さ。つまり操って人が言ったのは、死を目前にすれば悲観も楽観もたいして変わりないってことなんだけど、それを区別できている段階のお前の悲観なんてエビの背綿ほどの価値もないよ・・・・・・って、ちょっとヨダレがでちゃうけど。我輩、今、猛烈に甘海老が食べたい気分になってしまった」

 チャトラ猫が喋った。それも全然意味のわかんないことをべらべらべらべら喋ってる。ぽん太は、寝ぼけた目を勢いよく擦った。夢と現実の境目がよくわからない。自分が本当に目覚めているのか、それともまだ眠っているのかさえわからなかった。

 「幸運だなぁー、お前も。夜の闇の中で敗北の辛酸を舐めに舐めたからこそ、こうやって我輩の話を聞くことができる。夜は、月が支配する夢と幻想の世界。太陽が出ている間にお前が敗北感を感じたところで、現実の支配者の常識的論理下では、我輩は何もしてはあげられない。太陽に照らされた現実世界では、お前に語りかける我輩の言葉は、『にゃーおー』しかない。しかし、今は夜が最も深い時刻。お前と我輩の現実を月明かりが幻想という手段を持って繋いでいる訳だ。そうやって夜の闇の中でのコミュニケーションは成り立つ」

 ぽん太にはチャトラ猫が話していることの意味が全然よくわからなかった。ぽん太が、一年近く前に荒川の土手で拾った捨て猫が自分を見下しながら偉そうに話しかけてくる。

 「トロ?」とぽん太は自分を見下すチャトラ猫に呼びかけた。それが、ぽん太の拾った猫についた名前。

 「トロは、地球留学用の名前だ。本名は、セバスチャン・ダニエル・フレデリクソン八世」とチャトラ猫は返した。意味がわからなかった・・・・・。ぽん太は、その圧倒的な幻想の質量を持て余した。

 「トロでしょ?」とぽん太はもう一度聞き返した。そんなぽん太にチャトラ猫は大声で怒鳴り返す。

 「阿呆かぁぁぁ、お前は。一度言ったら頭ん中叩き込め、ボケぇぇぇ。トロは、我輩の大好物であって本名ではないって言ってんだろ、ああ?それはマグロの部位の名前であって、誇り高き水星猫科の名ではない。もう一度繰り返すが、それは誇り高き水星の民族においしく食べられる魚の部分的な場所である」

 チャトラ猫は怒鳴った後、ごっくりと唾を飲み込んだ。どうやらトロのとろけてしまう絶品な味を思い出したようだった。ヨダレがチャトラ猫の口の脇から零れた。しかし、とっさに我に返り、チャトラ猫は言葉を続けた。

 「しかし、地球に留学している限りは、あなた達ホストファミリーが我輩に好意でつけてくださった名前、トロで一向に構わない。まぁー、怒鳴ったりしたが、トロと呼んでいただいて結構」

 ぽん太は、大きな口をあけてただ唖然とするのみ。そんな時、またチャトラ猫は大トロを頭に思い浮かべたのが、ぽん太を見下ろしながらヨダレを垂らした。そのヨダレの雫が大きく開いたぽん太の口の中に落ちてきた。「うぁ、汚ねー」とぽん太が叫ぶと、チャトラ猫は、ぽん太の顔面に右ストレート肉球パンチをお見舞いしてきた。また、鼻血が少し垂れた。


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