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『形容詞を失った少年』


 弱弱しい月明かりが、墓場にうずくまるぽん太を照らす。

 凍えながら、震えながら、妖しげな月の光に導かれながら、ぽん太の想像力は意識の中の過去の森林を彷徨う。死んだ記憶があちこちに転がり、腐っていた。死んで朽ちた記憶からは嗅覚を破壊するような吐き気を催す強烈な生ゴミの臭いがした。

 二十年という時の流れに気づかないままに・・・・気がつけば、ぽん太の十代は終わっていた。しかし、ぽん太には二十年という年月がもたらしたものが一体何だったのかがわからなかった。

 何もない。

 何一つ形に残らずに二十年は風のように過ぎ去っていった。年齢だけが幼い意識に先行して走り続けていく。そして、その年齢に追いつこうとしない自分がいる。ただうずくまって嘆いている自分がいる。

 二十年経ち、辿り着いた冬の景色・・・・・そこではあらゆる全ての色が死に絶え、あらゆる全ての感情が凍死していた。

 冬が永遠に続き、春は永遠にやって来ないことを暗示するような深く重たく冷たい暗闇が墓場には広がっている。

 闇の中、現実と幻想の境目をうまく把握できないぽん太の視線の先で、月明かりに照らされた幻想が溶けていった。幻想は液状になり、光にかき混ぜられ、ぐちゃぐちゃに混ざりあっていく。そして、過去と現在がドロっドロっに混ざり合った泥沼の奥底からたんぽぽの声が、ぽん太の耳には聞こえた。


 「ねぇ、なんでぽん太っていうあだ名なの?」

 中学校の入学式から三日経った日の放課後、たんぽぽは同じクラスのぽん太に声を掛けた。ぽん太とたんぽぽは別々の小学校を卒業し、三つの小学校が一つの学区内に収まる都内の公立中学校に進学した。小学校から引き継いだ幼さが消えない入学したての新入生の二人は、透き通るように透明な瞳で視線を合わせた。

 ぽん太は、たんぽぽの顔を見て、「たいした理由じゃないよ」とだけ言った。そして、ぽん太はさりげなくたんぽぽから逃げようとした。あまり語りたがらない上に、こそこそと逃げ出そうとするぽん太を見て、たんぽぽはよりそのあだ名の由来を聞き出したくなった。

 「なんで、いいじゃん。ケチ。ケチケチケチケチケチケチ。教えてよ!別に減るもんじゃないでしょ」とたんぽぽは、まだまだ赤ん坊のようにプニプニした頬を膨らませてぽん太にせがんだ。ぽん太は、膨れるたんぽぽを持て余しながら、初対面にふさわしい苦笑いをませた表情に滲ませながらたんぽぽに返した。

 「それお姉ちゃんとかOLさんとかのプリっプリっのおケツを触るセクハラおじさんとかセクハラ上司の決め台詞だよ、減るもんじゃないって・・・・」

 そんな返しが来るとは思わなかったたんぽぽ。それでもすぐにたんぽぽは、悪戯な小悪魔的な笑顔をその可愛らしい顔に浮かべ、「ふーーーん」と何かを企んでいる鼻息を漏らし、間を取った。たんぽぽは、何かを企みながらぽん太に向かって後ろを向き、背中を見せ、そしてお尻を少し突き出して言った。

 「じゃ、私のプリっプリっのお尻触らせてあげるから教えて」

 そんな台詞が返ってくるとは思ってもみないぽん太の顔は一瞬で真っ赤になった。たんぽぽはたたみかける。

 「私のお尻もぽん太くんに触られたところで減らないからさ。お互い減らないものどうし交換しあうってのも悪くないでしょ?」

 あどけない素振りを見せながら、言うこと大胆な少女にぽん太はたじたじになる。たんぽぽは、ぽん太の純な瞳をマセた視線で見つめ続ける。うぶなぽん太は、顔を真っ赤にしたままたんぽぽの小悪魔笑顔から目をそらした。

 ぽん太は痒くもないのに頭を右手で掻いた。頭を掻けば、顔の赤みが消えるかとでもおもっているかのように必死で頭を掻くぽん太の姿を見て、たんぽぽは悪戯っ子な微笑をそらしたぽん太の視線の先まで移動させる。ぽん太は負けを認めた。

 「幼稚園の頃の手提げ袋に母さんがつけてくれたアップリケのたぬきの名前がぽん太だったんだ。それで、俺、どうも・・・・・そのぽん太のことが大好きだったみたいで・・・・みんなの前で、自分のことをぽん太、ぽん太って呼んでたら、あだ名がぽん太になってたんだ。それに慣れちゃったから・・・転校繰り返しても、仲良くなった友達とかにはそう呼んでもらうようにしてたんだ。でも、幼稚園の紙芝居でカチカチ山を見た時のショックは今でも忘れられない。あんなに大好きなたぬきが悪さをしたり、ウサギに苛められたり・・・・・。たぬきもそりゃ悪いけど、たぬき汁にして食べてやろうとしたお爺さん、お婆さんも、そしてたぬきを苛め抜いたウサギも・・・・・なんだか何もかもがショックで、汚らしくて・・・・一人で泣きじゃくってたのを覚えているよ・・・・って、何で、俺は余分なことまで語ってんだ!!!」

 あだ名の真相とそれに付随する物語をぽん太の口から聞けたたんぽぽは、小悪魔一転、幼い天使のような表情を顔に浮べ、ぽん太に質問した。

 「そのぽん太のアップリケは今でも持ってるの?」

 「いや、どこかで失くしちゃった。もうないよ。どこで失くしたのかは今でもわからない」

それを聞いて、たんぽぽは本当に悲しそうな顔をした。

 「そう・・・・。残念ね。見てみたかったな、そのぽん太のアップリケ」

 「たいしたもんじゃないよ、別に」

 「あだ名になるくらいのたぬきよ。たいしたものよ。きっとぽん太君の小さな頃の宝物だったのね。ぬいぐるみが宝物の女の子もいれば、車のオモチャが宝物の男の子もいるように、手提げ袋が宝物なんて素敵ね。そのあだ名の由来を聞いたら、ぽん太君の名前がすごく優しく感じるね」

 「そうか・・・・・?そんな大袈裟なことでもないんだけど・・・・」

 「いいのよ、乙女をロマンチックに浸らせといて」

 たんぽぽは、笑った。ぽん太も笑った。そして、ぽん太はスポーツバックに手を描け、「さてさて、仮入部に行きますか」と体を伸ばしながら言った。

 「何部?」

 「野球部」

 「キツイね」

 「覚悟の上だよ」

 それだけ語ると二人は静かに黙った。会話は淡い空気に溶けるようにして終わった。二人が通うのは都内最強の公立中学野球部を持つ中学校。ぽん太が夢にまで見た野球部。ぽん太は荷物を担ぎ、足早に仮入部に向かっていった。たんぽぽは、グランドを目指すぽん太の後姿に向かって可愛らしく叫ぶ。

 「ねぇー、私の名前はたんぽぽって言うの。親がたんぽぽが好きだから、そのまま名前につけたの。ひねりもなにもないそのまんまの名前だけど、これからよろしくねー、ぽん太!」

 廊下を足早に歩いていたぽん太は振り返り、たんぽぽの笑顔を見た。振り返って見た風景は、春の夕陽に照らされて、美しくて無邪気な青春のそのものだった。ぽん太は、たんぽぽに向かって、「ばーか」と言った。なぜ、そんなことを言ってしまったのかは、ぽん太自身にもわからない。その言葉を聞いて、たんぽぽは、「ばかって言うほうがばかなんですーっ」と笑いながら言った。春の放課後、地平線に沈みかける前の少し冷めた太陽の光がほどよい温度で廊下の窓から注ぎ込み、幼い青春の上に降り注いでいた。



 過去と現実の泥沼の中で、キレイな思い出を探し出そうとするぽん太。

 思い出にべっとりとついた泥をぽん太は丁寧にぼろ布みたいな後悔で拭き取る。

 ぽん太は、煙草を一本口にくわえ、百円ライターで火をつけた。飲み終えた五本目のビールの空缶を投げ捨て、シックスパック買ったビールの最後の一本のプルタブに指をかける。

 爪を噛む癖は、幼稚園児の頃からなおらない。歯型が残る深爪がプルタブを引っ掻き切れずに、ビールの缶は開いてはくれない。ビールを飲めずにいるぽん太は自分の頼りない人差し指を見つめては、「幼ねーな、俺も。全然成長できてやしない。ビール一本まともに飲めないなんて・・・・」と剥き出した爪下のピンク色した生肉を見つめ、語りかける。

 ぽん太は、二度深呼吸した。そして、満を持してもう一度プルタブを引っ張りあげる。やっとの思いでビールの缶を開けた。プシューと気が抜ける音が微かに墓場に広がるのと同時に、真空状態だった缶に監禁されていた何かがアルコールの香りとともに解放される。

空気が鈍く揺れた。

 ぽん太は、自らの歪んだ視界の中に彷徨いながら、ビールを喉に流し込んだ。缶を口元まで持っていく間に少しビールは零れ、ぽん太の服を湿らせた。空きっ腹にビールが痛い程沁みる。荒れた胃の壁を溶かし始める酸の強みに耐え切れずに、「何か食わなきゃ・・・」とぽん太は朦朧とした無意識の中で、独り言を言った。

 ぽん太は、無意識の奥へと足を進ませる。そこにはキッチンがある。ぽん太は、飲みに飲んだアルコールのつまみを作ろうと心の冷凍庫を開けた。そこから、完全に真空パックしておいた自分の人生を引っ張り出す。それは、硬く冷たく凍っていたが、解凍するのにたいした時間はかからなかった。真空パックのジッパーを開けば、良くも悪くもない素材色した、賞味期限もまだ切れていない、溶け出た水分と混ざり合った肉汁を薄っすらと表面に浮べる人生が出て来た。ぽん太は、虚ろな瞳でそれを見つめ、真っ赤なその肉の表面を指でなぞり、弾力を確かめるために肉に指を押し込んだ。言葉にも感情にもならない感触が指紋に伝わる。ぽん太は、ステーキにする以外、特に良い調理法を思いつけずに、仕方なくそれをフライパンで軽く焼き上げた。味見に一口食べてみるが、味が全くない。肉に味がないのか、無意識を彷徨う自分が味覚を失っているのか、ぽん太にはわからなかった。塩・コショウで味付けをして、やっと口に入れられる程度のつまみになる。味つけや脚色のない人生は食べれたものじゃない・・・・それが例え嘘で味つけしてあっても、味がないよりはずっとマシなのかもしれないとぽん太は思った。ぽん太は意識的にビールを口に含み、無意識的に肉を食らった。何もかもが敗者の味がした。ぽん太は、うずくまったまま。動かずに幻想の中で何を食らおうと、投げ捨てた空缶達と同様、現実に飢える胃は空っぽのまま・・・・。飲み続けるビールが空きっ腹を痛み続け、湧き出す胃酸が何もかもを溶かそうとする。



 退部届けを出したあの日・・・・。あの時感じた底のない敗北感をぽん太は今でも忘れられずにいる。

 野球少年が野球を辞めた・・・・・そして、ただの少年になった・・・・。

 野球という二文字を失い・・・・形容詞を失い・・・・・何もかもを失った・・・・・・少年・・・・。


 物心ついた時から野球をやっていたから、ぽん太は野球をしない少年が日々何をしているのか知らなかった。皆目、見当もつかなかった。野球のない人生に、何があるのか・・・・・わからなかった。


 半ズボンをはいて、真っ黒に日焼けして、友達とはしゃぎまわってた幼稚園児の頃から、カラーバットとカラーボールで野球の真似事みたいなことをして遊んできた。小学生になり、プロ野球選手に憧れ、小さな頃は無邪気な球遊びだった真似事が、少しずつちゃんとした野球に形を変えていった。いつしか甲子園という夢の舞台を目標にし始めた野球少年は、名門中学に進み、小学校あがりの成長しきれていなかった心と小さな体に襲い掛かった大きな怪我を乗越える術を知らず、グランドでの疎外感に耐え切れずに潰れた。そして、最後に、あのダイヤモンド型したグランドを後にする時は、大好きだった野球を心から憎んだ。憎しみのあまり、何度、胸のうちで野球を殺したかわからない。


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