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セナは、かなり長い間眠った。過剰な眠りが激しい頭痛を脳全体に広げ、喘ぎながらセナは目を覚ました。セナが現実に意識を取り戻した時、辺りは静かになっていた。寒気のする沈黙が広がっていた。その沈黙の向こう側から、虫を踏み潰す音が微かにした。血の匂いが隙間風にのって、セナが眠るベッドの上にまで香る。医務室近辺の害虫駆除は終ったのだろう。そして、今、広大な収容所の敷地内の隅の隅に隠れている敗者を退治し始めているのだろう。メインストリートの方角は静かだった。
セナは、孤独を少し感じた。背骨の間の脊椎がじっとりと冷汗をかく。死ぬことは怖くないが、一人取り残されている事実にセナは、少し身震いをした。
「早く死にたい・・・・」と、セナは呟いた。死ぬことよりも生かされている方にセナは恐怖を感じ始める。セナは、自分の体を凍傷で不自由になった手で引っ掻き始める。引っ掻ききれずに苛立つ。生かされている事実に震え始めたセナの体が、痛みという麻薬を狂おしいほどに欲しがり始めた。膿で張りついた包帯を動ききらない右腕でぎこちなく引き剥がす。セナは、うめく。
セナは、ベッドから起き上がり、医務室内を物色し始めた。自分を傷つける道具を探す。部屋の隅に錆びた一本の釘を見つけた。しかし、その一本の釘をセナは拾い切れない。指がうまく動かない。セナは、狂ったようにその釘を拾おうとする。しかし、釘を拾いきることは出来ずセナは部屋の隅で苛立ちながら狂いながら孤独の恐怖に打ちひしがれた。
そして・・・・
セナが孤独の中でもがいている間に、収容所は完全なる静寂に包まれた。
敗者は、セナを残して絶滅した。
施錠されていた医務室の扉が鈍い音を立てながら開く。
ヘスが、軍人を多数引き連れて、セナの前に現れた。
「さあ、月に存在する最後の敗者よ。この星を守ってくださる月の女神に生贄として捧げられる時が来た。神妙に振舞えよ」
ヘスが語り終えた後、周りにいた軍人達がセナを担ぎ上げ、外に出し、そこでセナに十字架を背負わせた。
月の軍人達は、十字架を背負ったセナを大型トラックの荷台に載せた。収容所のあちこちに大型トラックが配置されている。入口の前には百台近い除雪車が停まっていた。月の首都から収容所へと道を作ってきたのだろう。セナが戻ってきた時に踏みしめた処女雪は綺麗に除雪車のローラに書き込まれ、吹き飛ばされ道の両側に高い壁を作っていた。
ヘスが入口の前の除雪された土の真ん中で拡声器を握って立っている。ヘスは、収容所中で自分の指示を待つ軍人、職員達に向かって叫んだ。
「皆、よくやってくれた。我々は、この星に巣くい、この星を蝕んでいった敗者という害虫を駆除した。今、我々が誇る月は美しく輝いている。そして、皆の頑張りで我々、月の民族は太陽という悪魔からの侵略を防ぐべく闘いに入る体制を整えた。これも皆の地味ながらも積み重ねてきてくれた一つ一つの仕事の賜物だ。我々は、月の王から首都に戻ってくるように勅命を受けた。敗者という忌々しい存在がうごめいていたこの収容所に火をかけて、燃やせ。敗者が残した菌を全て燃やしつくし、月の裏側をキレイにして戻ろうではないか」
そこまで叫んで、ヘスは黙った。そして、冷たい言葉をゆっくりと吐いた。
「全てを燃やし尽くせ」
その言葉を合図に、収容所中に火が放たれた。火炎放射器を持つ軍人が施設を燃やし、職員が手榴弾を投げ込み、収容所内に点在していた火力発電所に設置されていた時限爆弾が爆発した。
暗い空の下、真っ白の雪で覆われた世界に赤々と巨大な炎が燃え上がる。何もかもを燃やし尽くしていく。セナは、その巨大な怪物のような炎を見つめ、この収容所が内に秘めていた悪魔の存在を目視した気持ちになった。この悪魔に全て飲み込まれ、死んでいった。形なく、全て灰になり、消えていった。軍人や職員を載せたトラックが次々と除雪車を先頭にして月の裏側から月の首都へと走り出した。トラックのヘッドライトを点灯させずに各車、走っていく。収容所を燃やし尽くす炎が暗闇を赤々と明るく照らしていた。敗者収容所からなぜか大量の鼠が炎を恐れて逃げてくる。不衛生極まりない場所は、鼠にとって天国だったのであろう。空から舞い落ちる処女雪は、皆、地面に落ちる前に水に姿を変え、炎の前で蒸発し、消えていった。後には、灰以外、何も残らない。
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三千台を越えるトラックが首都へと近づく。軍用トラックが駆け抜ける雪の降らない月の大通りのコンクリートの脇には、月の民族が群がっていた。群集は皆、その手に石を握っていた。月の権力に洗脳されたウサギ達は、皆、一様に耳が短くなっていた。そして、トラックの荷台に差し込まれ、十字架に架けられた耳の長いウサギであるセナに石が次々と投げつけられる。
「あんたみたいな糞敗者がこの星に危機をもたらしたのよ」
「あんた達が腐らせたこの星が臭くて臭くてたまらないわ。どうにかしてよ」
石とともに野次が飛ぶ。セナが・・・・・見たこともない変種のウサギが街を覆いつくしていた。
「お前が死ねばこの星から敗者は消え去る。そして、俺達には栄光が待っている」
そんなことを月の高校生達が叫んでいた。セナは、ひたすら石を投げつけられるが、天然記念物的に貴重なこの月面に残る最後の敗者を月の軍隊達は、鉄の盾を持って一時的に守った。それでも、セナの体に石は当たり続けた。痛み慣れした体に、特に何とも思わない痛みが広がった。
セナは、少しだけ思いを巡らせた。
勝者と敗者の違いは何だろう・・・・・。
確かに、道の脇にいる耳の短いウサギ達は、皆、セナよりもいい服を着ていた。口々にわかりきったような知識を口にしていた。皆、大勢のグループの中に埋没し自分の意見なのかどうかもわからない言葉を・・・・・自分のことを省みずに吐き捨てては、セナに投げつけてきた。
セナは、思う。
勝者と敗者について・・・・・・。
この星は、こんなちっぽけな定義を巡って・・・・星全体で騒いでいる。
きっと政府だけでなく、マスコミも煽るのだろう。
この星は、勝者と敗者の区別もつかないまま燃え上がり、曖昧で無意味な境界線を現実に引いては集団化できない孤高の弱き者達を敗者と軽蔑し、差別する。
孤独を知らないもの・・・・・。
集団に埋没し自らの弱さに目を向けずに無視するもの・・・・・。
知識階級と呼ばれる一部の盲目の教職者に従い世界の摂理を学ぼうとするもの・・・・。
権力を絶対だと神聖化し、神と言う名のもとに嘘だらけの信仰に身を委ねて安心するもの・・・。
学歴が全てだと信じるもの・・・・・。
金が力だと信じるもの・・・・・。
数え切れないほどの・・・・・・・素顔の上に仮面を被り勝者と名のる者達がセナに石を投げつけてくる。
ぽん太は、この偽善の中で殺された。
セナは、その事実に少しだけ歯を食いしばった。
勝者・・・敗者・・・・そんなくだらないことにこだわる奴等にぽん太は殺された。
でも、セナにはぽん太を思い出したところでもう何も出来やしなかった。
奴等の言う最後の敗者として、妄想が作り上げた女神とか言う奴の生贄になり殺される。
沿道から浴びせられる敵対心には終りがないように思えた。
セナは、ただ・・・・十字架に架けられ、石を投げつけられる自分の運命に身を任せた。
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月の首都にある中央広場にはウサギが溢れていた。そして、広場に壁のように聳える舞台の前には数十万という若き兵隊達が隊列を組んでいた。皆、十代後半から二十代前半だろうか・・・・生きていることを実感しきれずに影響を受けやすい時期の子供達が軍服を着ている。
月の軍隊を囲むようにして老若男女、耳が短くなったウサギ達が百万人程、奇声をあげて叫びながら広場に集結していた。その叫びが広場に地響きを起こす。
「チェストー」
「チェストー」
「チェストー」
群集は、月の民族が気合をいれる時の掛け声を叫び続ける。
「チェストー」
その気合の掛け声は、太陽の民族と同じもの。太陽と月は、遠い昔、同じ民族。歴史のどこかにある小さな誤解によって憎しみあい、恨みあい、敵対しあうようになり別々の進化の道を歩んだ二つの民族。同じ掛け声を叫び、今、再び闘おうとしている。
「チェストー、チェストー、チェストー、チェストー」
手に負えない現実が振動しながら広場に広がっている。セナを載せたトラックは、舞台の袖で待機していた。セナは、石を投げつけられらた傷口から血を流しながら静かに自分が処刑される出番を待つ。
舞台の上から音楽が流れてきた。月の星歌を舞台の上のオーケストラが奏でている。重々しく壮大な感じでオーケストラは、月の星歌を演奏しようとするが、指揮者の耳が短く、各演奏者の耳も短いため音を拾いきれずに、不調和なメロディーが広場に響く。しかし、そのメロディーの不自然さに気づくものはいなかった。
舞台の上には玉座があった。そして、セナがいるのとは逆の舞台袖に空高くからへリコプターが風を切り裂くプロペラ音を響かせて着陸してきた。真っ白なヘリコプターだった。着陸したヘリコプターの周りを大勢の家来が囲み、赤い絨毯を舞台への階段に向かってひいた。ヘリコプターのドアが開き、中から極端に耳の短い丸々太った幼い顔をしたウサギが赤い絨毯の上に足を下ろした。その肥満ウサギは、頭にダイヤを散りばめた王冠を載せ、犬の毛皮のコートを着て階段を登り始めたが・・・・しかし、体が重たいため登り切れず、最後には屈強なボディーガード達三人に騎馬戦のような陣形を組ませ、その上に乗って舞台の上にまで登ってきた。言うまでもなく・・・・月の若き王だった。
月の若き王は、その太った体をゆっくりと舞台の中央まで進め、そして、群集に向かって右手を高く空に突き立て、「チェストー」と叫んだ。群衆も皆、右指先までをぴんと伸ばし、空に向かって右手を突き立て「チェストー」と叫んだ。狂ったナショナリズムが一つの訳の分からない言葉に集約される。
意味なき言葉の連呼・・・・・。
「チェストー、チェストー、チェストー、チェストー」
月の若き王は、無意味な大合唱に身を委ねながら、ゆっくりと玉座についた。そして薄ら笑いを浮かべながら広場全体をゆっくりと見回した。笑って開いた口の歯は真っ黒にお歯黒が塗ってあった。
セナは、初めて月の若き王の顔を見た。ぽん太や自分と殆ど変わらないほどに幼い。まだ二十歳前後だろう。世間知らずの幼い自信が表情に浮かび上がっている。セナは、その自信を恐ろしく思った。権力が根拠も経験もない過剰な自信の上に降り注いでいる。浅いその表情に浮ぶのは、民族全体の死相。
玉座の前に、マイクが設置された。若き王は、一度腰を降ろした玉座から再び立ち上がる。
玉座に一度座ることに意味があったのだった。
再び立ち上がった王は、もう一度右手を空に突き立て、「チェストー」と若き王は叫び、群集は呼応する。群集は興奮する。しかし、若き王は、右手の人差し指をゆっくりと唇に当て、群集の興奮をなだめた。そして、手紙を朗読するようにして声を出した。
「親愛なる誇り高き月の民族達よ」
大袈裟に語りかけようとする若き王の言葉の抑揚に冷めに冷めたセナは練習のあとを感じる。
読まされている文章・・・・・語らせられている言葉・・・・・。
「まろ達らは、宇宙で最も優秀で気高き民族でごじゃる」と続く。更に続く。
「この暗闇に覆われた宇宙を照らす月明かりがもたらす生命の営みの輝かしい美しさ。奇跡でごじゃる。生命の神秘を司る月のこの権力・・・・・月なくして、この宇宙は成り立たないでごじゃる。そして、まろ達らの持つ能力は、生命を育むだけではないでごじゃ候。再生。それが、月が持つ最も気高き力でごじゃる。太陽の暑苦しい派手で汚い輝きなど足元にも及ばない神秘に満ちた月明かりがもたらすもの、再生。しかし・・・・・この宇宙にまろ達らの持つ神秘に嫉妬する者達がいるでごじゃる。それは誰でごじゃる?」
月の若き王の朗読調の問いかけに、群集は答える。
「太陽、愚かな太陽」
「太陽、糞太陽」
「悪魔、悪魔」
狂ったように月の若き王の言葉に反応する群集達。彼らの脳裏にあるのは、理性ではなく操作された思考のみ。月の若き王は、群集に向かって肯く。
「そうでごじゃる、愚かで醜い太陽どもがまろ達らの力を妬んでいるでごじゃる。そして、思い違いも甚だしいが、この月を滅ぼそうとしているでごじゃる」
月の若き王の歴史認識の間違い・・・・。太陽が月を恨むのは、月が持つ力を妬むわけではなく、征水論に端を発した過去の紛争の延長とそれに付随してきた様々な感情のしこりから。嫉妬なんて陳腐な感情ではない。過去に国家・・・民族の尊厳を傷つけられた憎しみと怨念が太陽を闘いへと駆り立てる。
「しかしだ、なぜこの月が太陽の嫉妬を許し、血に飢えた愚か者達の狂気に脅威を覚えねばならないでごじゃるか。それは、まろ達らの星の弱体ぶりにあるでごじゃる。なぜ、こうもまろ達は弱くなったのでごじゃるか。それは、月の再生能力にすがる敗者どもが、宇宙の隅々にたまる埃のような輩がこの星に積もり、月は呼吸ができなくなるほどの窒息状態に陥ったからでごじゃる。まろ達らは、慈悲深き民族であるがために、それらの敗者を、埃を粗末にせずに丁重にもてなし、復活の手助けをしたでごじゃ候。それも無償ででごじゃ候」
無償という言葉に若き王の力が入った。腹筋に力を込めたのか、だぶついた腹回りの脂肪が軽く揺れた。
「まろ達らの祖先が築き上げた政策が今の時代に適応しなくなったでごじゃる。古き良き時代には宇宙の尊敬を集めた敗者保護政策でごじゃるが、時代の中でこのまろ達らの良心を悪用する星が多くなりすぎたでごじゃる。ゴミのような人材を月に押しつけ、精鋭だけで国家運営にあたる星が競争を勝ち抜き、まろ達らはただのゴミ集積場のような扱いを受け続けたでごじゃる。まろ達らの国家予算は、敗者のためにその大半を裂かれたでごじゃ候。しかし、予算を組んでも組んでも、敗者は月に流れ込み続けたでごじゃる。そして、悲劇はまろ達らが最大の努力をし敗者を復活させるために全てを尽くしても、敗者達は少しの努力もせず復活する意志すら持たないものが大半だったでごじゃ候。まろ達らは、敗者という悪性のウィルスをこの星に抱え込み過ぎたでごじゃる。敗者は月を蝕み、まろ達らの生活を蝕み、まろ達らの力を蝕んだでごじゃる。だが、喜んでほしいでごじゃる」
そこで月の若き王は、一瞬の間を置いた。
「この月に巣くった敗者は、たった一命を除いて全て処分したでごじゃる。まろ達らを腐らせる元凶を、まろは排除したのでごじゃる」
その月の若き王のお歯黒がむき出しの口から出た言葉に月の民族は絶叫した。興奮の叫びが広場で膨れ上がり、爆発しそうになる。だがまだ爆発しない。何もかもを破滅へと導く爆発を起こすには、導火線に火を点ける小さな生命の炎が必要だった。
「まろ達ら月の民族が、宇宙で最も優れた民族であることを証明する時が来たでごじゃる。愚かな太陽を潰そうではないかとごじゃ候。宇宙を照らすあの忌々しい下品な光を消し去らねば駄目でごじゃる。妬みの塊でその惑星を燃やし輝くあの太陽をこの宇宙から排除し、まろ達らの日々の生活に平和を取り戻そうではないかでごじゃ候。この宇宙で最も美しい光、それは月光でごじゃる。まろ達らに必要なのは月光の持つ力でごじゃる。月の女神のご加護がまろ達らを闘いの中において守ってくれるでごじゃる筈。月の女神に愛と敬意を持って、生贄を捧げるでごじゃる」
月の若き王がそこまで語ったところで、セナは舞台袖に集まる軍人達に命令され、十字架を背負って階段を登り始めた。
「この月面に存在する最後の敗者の血を月の女神に捧げるでごじゃる」
月の民族は、狂ったように絶叫し「敗者、死ね。敗者、死ね」と連呼した。
セナは軍人達に急かされながら、重たい十字架を背負い、太ももに力を込めながら死刑台へと登っていった。そして、舞台の真ん中にセナは立たされ、軍人達はセナが背負ってきた十字架をセナもろとも持ち上げ、舞台の上に埋め込んだ。セナは、両手を広げ、胸を前に突き出したまま群集の前に晒された。セナは、群集の顔を見た。そこにはあるべきものがなかった。月の民族、額に刻んだ月の刺青。輝くべき額の月が黒く浸食されている。どす黒く光っている。セナの額の月の刺青も薬に侵された体のせいで輝かなくなったが、それでもどす黒く光ってはいない。
セナは、暗黒時代の幕開けを察した。舞台の上で張り付けられるセナは、幕の開いた舞台の中央で悲劇と喜劇を同時に演じる役者のよう。群集は、セナに向けてあらゆる罵声を投げつける。セナは、鼻息荒く鼻で笑った。空を見上げ、地球のある方角に向けて呟く。
「ここには何もない。何もない景色の中で叫んでる奴等ばかりだ。こんな奴等に皆、殺されていったんだな」
セナは、ため息を漏らした。猛々しい吹奏楽が舞台で鳴り、幼い子供達が三十人ほどセナの周りを囲む。男の子、女の子入り乱れ、皆、軍服を着せられている。そして、手には鋭い刃を持つ槍を持っていた。刃は、セナに向けられる。月の大人達は、槍を持った子供達を誇らしげに見つめていた。セナは、その大人達の微笑む口元を見た。そして、また呟いた。
「ここにいる奴等は誰一人として口笛を吹けないだろう。皆、口笛を吹けると口では言いながらも、吹いたことのない奴等ばかりだ。それを皆、隠しながら生きている。群衆を見ても、三十人の刃を持った子供も、その親も皆、偽りが作り出した現実の中で敗者になるのを恐れて怯えている」
セナには、笑顔の仮面の裏側、恐怖に怯える群集の本当の顔が苦しいくらいに見えてしまう。
月の若き王は、セナが物思いにふけっている間に、月面における口笛の神秘と歴史について群衆に向かって語っていた。奇跡とは何かを、奇跡を見たことも感じたこともない若き王は熱く語る。
「さあ、奇跡を起こすでごじゃる。皆のもの達、口笛を吹くのでごじゃる。そして、敗者の血を女神に捧げ、闘いに赴こうでごじゃる。さあ、皆のもの口をすくめるでごじゃる。そして、月面に美しきメロディーを響かせるのでごじゃる」
真っ黒な歯をむき出しにして若き王が叫んだ。群集は、口をすぼめ口笛を吹こうとした。音色が響いたら、セナを刺し殺すように三十人の子供達は言われていた。
しかし、広場に口笛は響かなかった。メロディーは、月面に生まれない。月の若き王ならびにその側近達は、皆、一様にその現実に慌てた。王は、側近に耳打ちする。
「なぜ、口笛がこの月面に響かんのでごじゃる?」
月の若き王の側近は皆、首を傾げる。群集は、動揺し始めた。誰一人として口笛を吹けるものが広場にはいなかった。皆、理解できない現実を掴めない。ただ一人、セナだけが大きな広場でただ一人、現実を把握していた。
「当たり前。勝者を装って、敗者だって事実を隠して生きてきただけの臆病者達に口笛が吹ける訳がない。俺が、収容所で知り合った奴等は、もっと生きるために必死だったわ。自分の劣等感や敗北感になんとかして向き合い、逃げ出しては苦しんだりして、悩みに悩んで自分と向き合ってた奴等。ここにいる集まった奴等の中で、そんなことを考えたことがある奴等が何人おんねん?勝者という名を得るために愛想良く笑って、自分と向き合うこともできずに、何もかもをやり過ごしてきた奴等なんちゃうん?笑えるわ、民族総敗者やな」
セナは、十字架に張りつけられたまま狂ったように大声で笑い出した。大粒の涙を流しながら、叫ぶようにして笑った。こんなお粗末な現実が、一体どれだけの生命を軽んじ、どれだけの生命を踏みにじってきたのだろうか。それを二つの目で見つめ続けてきたからこそ、大声で笑ってやりたかった。口笛が響かない広場に、セナの笑い声だけが響いた。誰かに笑われたことのない月の若き王は、真っ黒な歯で歯軋りをし、冷たい汗を額に滲ませながらセナを直ちに処刑するように側近に命じた。とにかくこの忌々しい敗者を殺すことから始めなければならないと月の若き王は思った。敗者が絶滅すれば、この月面に自分に逆らうものはいない・・・・・そう、いつしか自分の憎むべき存在、都合の悪い者達全てを敗者と定義し始めるようになっていた月の若き王。三十人の耳が発達しきっていないウサギの子供達は、槍をセナに向けて突き刺そうとした。刃がセナの体に触れる直前だった。月を飲み込んでしまうほどの大きな雄たけびが月面に響いた。地面が激しく揺れ、広場にいたウサギ達は皆、倒れこみ、四つん這いで身を伏せながら屈みこんだ。あまりの迫力に、月面に立っていられる者は誰一人としていなかった。そんな中、張りつけられたセナだけが激しく揺れた現実の光景を真っ直ぐに見ていた。セナの周りには何が起こったのかわからずに泣きじゃくる子供達が怯えていた。
セナは、奇跡を見た。憎しみのために流した涙の跡に、感動の涙が伝った。
「ぽん太・・・・・」
セナは、死んだ友の名を呼んだ。あのお人好しの敗者が残した遺産が腐り始めた歴史の前に輝いていた。溢れ出す涙でぼやけた景色をセナは瞬きすらせずに見つめた。あの狭い牢屋の中で、二人過ごした日々。ぽん太は、何度かセナに月に来るに至った経緯を話してくれた。ぽん太が拾って家で飼っていた猫が、実は水星の王子で、その王子に敗者っぷりを叱られて、墓地の近くのトンネルを抜けるように言われて、その通りにしたら月についていたという話。
「ぽん太、お前の言ってたことオモロイ冗談かと思ってたわ。でも、冗談ちゃうんやな。お前は、本気でアホみたいな人生を語っていたんやな」
広場で倒れこむ月の民族達の後ろに、宇宙最強の戦闘集団が陣構えていた。水星猫科の軍隊がざっと見ただけでも十万以上、戦闘態勢で月の広場の舞台を睨みつけている。ライオンキングジュニアが猫科の精鋭軍隊の前に気高く四足を地面につけて佇む。体中が百獣の王としての筋肉に覆われていた。少し老いていて、たてがみに白髪が混じるが、大きな瞳は深い黒色の水晶玉のようで、目に映る景色に恐れを抱くことのない勇気が眼光に混じっていた。しかし、そのライオンキングジュニアよりも前に佇む猫がいる。体は小さい。ただのチャトラ猫。トロ・・・・・いや、水星の王子セバスチャン・ダニエル・フレデリクソン八世だった。体に纏う黄金の茶色い毛を月の冷たい風になびかせ、トロは壇上で這いつくばる月の若き王を睨みつけ、吠えた。
「いい加減にしろよ、ど阿呆。我輩はお前を絶対に許さない」
トロが叫んだ後、トロの隣りにライオンキングジュニアの娘婿のタイガーが顔を出した。
「ははははっ、水星の新たなる王がそんなにムキになってどうするのです、あんなゲスに」
大声で笑う顔中、体中傷だらけのタイガーは、左目が潰れているらしく、独眼流正宗のように目に刀の鍔を当てていた。セナも噂には聞いた事があった。水星、最強で最凶の虎バイオレントタイガー、黄鬼。しかし、忠誠心に厚いと聞く。暴れん坊だが、絶世の美女のトロの妹に恋をしてしまい、世論が激しく反対した中、水星の王子が仲を取り持って結ばれたという恋物語を聞いた事があった。それ以来、妻を一途に愛し、王子に命を賭けて忠誠を誓ってきたと言われている黄鬼。
黄鬼の横に、更にピューマが顔を出す。ライオンキングジュニアの甥っ子で、水星最速の脚力を持つ。トロとは昔から遊び仲間で親友。
「月の若き王、久々ですな。宇宙王子パーティー以来ですかな?まさか、あなたが本当にこの奇跡の星の王になるとは思わなかった。痛みも苦しみにも向き合わないように行儀良く振舞って大人受け良く育った王子の変貌ほど怖いものもありませんな。常軌を逸するほどにズレてしまった身勝手なあんたのエゴ。はぁー、過去に戻るのが許されるのならあのパーティーのメインディッシュにわたくしがあなたの霜降り肉を頂いたのに。ウサギの肉は我々猫科の大好物」
トロの周りに、次々とトロの仲間が顔を出す。月の軍隊は、恐れ慌てながらもなんとか銃を持ち、水星の軍隊に向けたが、最前線にいるトロ率いる水星の軍隊の精鋭中の精鋭達は髭の一本も動かさない。そして、トロは月に宣戦布告をする。
「今、この瞬間を持って水星は長年培ってきた月との同盟関係を断ち切る」
月の若き王は、トロが水星の前面に出てくるのを嫌った。なぜ、王子風情に月の王である自分が吠えられなければならないのか。
「王子の一存で決まらんでごじゃろう、外交問題は?」と、月の若き王は間抜け質問を返した。
それを聞いて、王であったライオンキングジュニアがのんきな声で答えた。
「昨日、水星で王位継承を行ったんです、月の王。お知らせしようと思ったんですが、今日、こちらに伺う時にお知らせすればいいと思いましてね。私は、隠居の身でございます。後は、孫の誕生を心待ちにしてボケていくだけの老いぼれです。ということで正式に宇宙に水星の王位継承をこの場で発表させて頂きましょうかな」
ライオンキングジュニアは、トロに百獣の王の称号を委ねながら高々と宣言した。
「水星の王位は、王子セバスチャン・ダニエル・フレデリクソン八世に譲る。そして、王子は、王に即位するにあたり、キャットライオン・トロ一世と名乗る」
トロは、月の若き王を睨みつけた。月の若き王は、トロが水星の王になったと知るや媚を売ろうとした。
「いやぁー、そうでごじゃったか。王位継承、おめでとうございますでごじゃる。しかし、水星の王。同盟破棄などと穏やかならぬでごじゃろう。何をそんなにお怒りでごじゃるか?」
時代を経て、統制が取れるようになった猫科の軍隊は、太陽の軍隊に匹敵するほどに宇宙の脅威。その惑星から同盟を打ち切られると月は滅びる。冷汗が、広場中で流れる。甘いものを食べ過ぎてきた月の若き王の真っ黒な奥歯が痛んだ。
トロは前へ向かって歩き出した。その周りを猫科の戦士達が取り巻く。広場に溜まった月の民達は、恐れおののいて道を開ける。その光景は、地球の聖書に描写を借りるのならば、モーセが海を割り前へ進んでいくような様子。月の民という海は、波飛沫を上げながら水星の軍隊が歩く道を作る。そして、トロは舞台の前まで来て、月の若き王に向かって静かに言った。
「敗者絶滅収容所について知りたい」
舞台の上、その水星の新しき王が呟いた言葉に、月の若き王並びに臣下全てが冷たい汗をかいた。トロは、さらに続けた。
「我ら水星が全面的な信頼を込めて地球から月面に送り出した根性なしの敗者の行方を知りたい。我々が月面に張っている情報網から、我輩の愛すべき敗者の消息が消えた。返答次第では、今、この場で月の若き王・・・・・あなたを噛み殺す」
慌てながら・・・舞台上にいる月の支配階級は顔を引きつらせながら反論した。若き王のすぐ脇に立っている政治家がトロに向かって叫んだ。
「何を根拠にそのような事を仰せになる。月の名誉を傷つけるのも大概に・・」
トロは、月の若き王を操る一味の言葉を最後まで聞かずに遮り、吠えた。
「F33258の行方を知りたい。その敗者に、我輩自身が一度地球で命を救われている。恩人だ。そして、敗者でありながら勇気と優しさを持つものだ。奴が、復活を果たせばこの狂った宇宙空間に少なくとも小さな勇気と優しさの芽が花を咲かせるところだった。お教え願おうか、F33258の行方を」
水星の王になったトロの言葉に舞台袖にいた敗者絶滅収容所のヘスは震え上がった。心の中で、焦りながら、自分に確認を取る。
「F33258・・・・覚えがある、その敗者の番号。ああああああああ、あの踏み絵にした敗者か・・・。奴は、水星の王子、否、宇宙最強の軍隊の総帥である水星の王のお墨付きだったのか・・・・・」
管理不行き届き、滝のような冷汗をかく。
壇上で、月の若き王が臣下に耳打ちする、「すぐに事実関係を確認するでごじゃる」と。
壇上が冷静を装ってざわめき、臣下達が舞台袖にいる収容所所長ヘスの下へと駆け寄った。今、月面にたった一人生き残った敗者は、十字架に張りつけられている。そして、それは地球人ではなかった。誰の思考にも・・・その敗者がすでに収容所内で除去された光景が想像された。
臣下達は、ヘスに答えを求めた。ヘスは、黙ったまま汗をかき、口を半開きにしたまま固まった。なんとか言い訳を考えて、口に出そうとしたが頭の中が完全に真っ白だった。雪に埋もれたヘスの思考は、冷たく固まり、凍死していく。臣下達は、ヘスを抑え込むように舞台袖の軍隊に命令した。死に物狂いで暴れるヘスを収容所でヘスの部下だった軍人達が抑え込み、舞台袖から舞台裏へと引きずった。ヘスは、舞台裏で射殺された。顔面に三発の銃弾を打ち込まれ、顔面が跡形もなく崩れた。幻に忠誠を誓い、命ぜられたことを全て忠実に遂行した男は、その幻に裏切られあっさり首を吹っ飛ばされた。ヘスの死体は、この世に信じられるものなど何もないと嘆くようにして、大量の血を首から流した。
舞台の上で、月の若き王は言う。
「敗者絶滅収容所などと言うものは知らんでごじゃる。そして、あなたの言う敗者も知らんでごじゃる。濡れ衣を纏わせるのはやめるでごじゃる」
トロは、その答えを聞いて、右前足の肉球を空に振りかざした。戦闘準備の合図だった。
水星の軍隊は、一斉に攻撃態勢に入った。
「証拠は全て揃っている。我輩達が、一体、何万匹の鼠を諜報間者として敗者絶滅収容所に送りこんでいたのか、知らなかったとはめでたい。猫が脅せば、鼠はこの宇宙のどこであろうとスパイとして行動することをまさか知らなかったわけではないだろう」
トロは、舞台上の月の支配階級を揺さぶる。誰も言葉を発せない。舞台袖で待機する軍人達は、敗者絶滅収容所を燃やした日のことを思い出した。大量の鼠が収容所の隅々から湧いて出てきたことを気持ち悪く思ったものだった。あの時は、何の疑問も感じなかった。しかし、あれら全てが水星からのスパイだったとは・・・・夢にも思わなかった。
トロは、引き金を引く覚悟を決める。
「古き良き月の姿は、もうこの宇宙には存在しない。狂気に飲み込まれ、我を忘れ、自滅の道を探りながら、触れるもの全てを傷つけていくだけの存在に成り果てた月ならば・・・・太陽が月を葬る前に、同盟国であった水星が月を丁重に葬ろう。それが、せめてもの情けであり、かつてこの宇宙の奇跡と呼ばれた星への敬意であり、歴史の中で月に救われた水星の感謝の気持ち」
トロは、そこまで語ると感極まったような表情で右手を振り落とそうとした。しかし、その瞬間にセナが壇上から叫んだ。トロの顔を見つめ、訴えかけた。
「ぽん太は・・・・・ぽん太は・・・・あいつの敗者復活戦を終え、地球に帰りました。あいつが生きた日々は、この俺の心の中に、今も熱く熱く焼きついています。あいつは、いつだって誰かのことを思って生きていました。自分の弱さからたんぽぽを傷つけた過去を思い悩み、その弱さを乗越えるために・・・自分以外の愛のために身を捧げぽん太は死んだ。あいつは、俺と俺を愛してくれた人の間にあった障害を全てその体を粉々になるまでぶつけて壊してくれた。あいつを敗者だなんて呼ぶ奴は、俺がぶん殴ってやる。ぽん太は、確かに敗者だった自分から復活し、そして煙になって故郷に返って行きました」
セナは、十字架の上で泣き崩れた。ぽん太との思い出が心から溢れ出す。月の民衆の目には、傷だらけでボロボロに成り果てたセナの姿が、なぜか美しく見えた。苦しみの中で生き抜いてきた生命の強さが肉体に刻み込まれていた。真実の美しさがそこにはあった。
トロは、セナを見つめて言った。
「あなたが、あの根性なしの敗者を火葬して地球に返してくれたと鼠達からは聞いております。本当にありがとうございます。あなたは、あの男の余韻で包まれている。そう、途方に暮れた野良猫にマグロのトロをご馳走してくれた・・・あの柔らかい優しさに包まれている。我輩は、あいつが踏み絵にされた事実に対して怒るばかりで、あなたが言うようにあいつが地球に帰っていったという事実を見過ごしていました」
トロは、空を見上げた。地球が遠くで輝いていた。美しい星だとトロは思った。
沈黙が当たりを包んだ。
しかし、沈黙は破られる。
「わぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」と月の若き王は、大声で狂ったように叫んだ。いや、事実、狂っていた。
壇上で思い通りにならない現実にストレスを溜めに溜めたのか・・・・瞳孔を見開き、額に血管を浮き立たせ、短い耳をピンと立てて、「茶番、茶番。何もかも茶番でごじゃる」と唾を飛ばしてわめき散らし始めた。完全にキレていた。
「何が敗者でごじゃる。何が敗者復活戦でごじゃる。地球に帰りました。笑わせるなでごじゃる。夢見てんのもいい加減にするでごじゃる。この世は、力が全てでごじゃる。力とは、金、暴力、血筋のことを言うでごじゃる。力なきものに、この世界を生きる資格など生まれた時からないのでごじゃる。まろは生まれながらにして王様でごじゃる。王様がこの世界で一番偉く、力を持っているのでごじゃる。王様の機嫌を損ねるものは皆、死ぬでごじゃる」
王の側にいる臣下が数人、王のキレっぷりに恐れをなして諌めようとした。相手は、水星猫科の軍隊・・・・・機嫌を損ねれば殺されるのは、自分達だった。しかし、耳の短い月の若き王は、その臣下の言葉を聞こうとしなかった。
「殺すでごじゃる。そこにいるこの月面に残る最後の敗者を殺して、この星をキレイにするでごじゃる。汚らわしい、あああ汚らわしいでごじゃる」
月の王の命令に、軍隊は躊躇しながらもセナを殺すために抱えた銃口を十字架に向けた。
「お前は、ここまで来てまだ自分の置かれた立場を理解できないのか、ど阿呆ぉぉぉぉぉ」
トロは、大声で叫んだ。
「銃を降ろさせろ。武器を捨てろ」
トロは、右前足を再びあげて、歯を食いしばり喉の奥から威嚇のうなりをあげてそう言った。しかし、月の若き王は、狂ったように首を横に振る。首のまわりについた脂肪がぶるぶる揺れた。
「まろは、正義のためにこの星を蝕んだ敗者を絶滅させるのでごじゃる。殺せぇぇぇぇぇぇぇ」
キレた叫びに軍人達は、一斉に引き金を引こうとする。その瞬間に、トロは右前足を振り下ろし、前線にいたトロの従兄弟率いるピューマー突撃部隊が一斉にセナを狙う軍隊に襲い掛かった。ピューマーは、一瞬にして軍人ウサギ達の首元に噛みついた。血飛沫が舞台の上に舞い、ピューマーは、その牙に血を滴らせた。トロは、暴力に暴力をぶつける。生命の一番粗い部分が擦れ合い、摩擦を起こす。
舞台の上に繰り広げられた現実に広場にいる民衆達は、皆押し黙った。容赦なき殺し合いを皆、初めて目の当たりにした。戦争が始るということがどういうことか目が覚めるようにして悟る。
トロは、静かに、そして冷たく黄鬼に言う、「ここにいる月の支配階級を皆殺しにしろ」と。
「御意」と黄鬼は、頭を下げ、自らが率いる最強の戦闘集団タイガースに攻撃命令を出した。虎がうなり声をあげ、ヨダレをその大きな口から大量に垂らした。その虎達の眼は、戦闘モードに入り、獲物以外の何ものも見えなくなっていた。月の民衆達は、恐怖に震え上がった。月の若き王は、狂乱状態に陥り、瞬きもせずに叫び続ける。独眼流の黄鬼が、月の若き王に飛び掛ると、一斉に虎達が舞台上の月の支配階級に飛び掛った。
絶叫が月の空に響き渡ろうとした瞬間に、その叫びを打ち消す大きな音が空から降りてきた。若き王が登場した時のように、一台のヘリコプターが空から舞い降りてくる。ヘリコプターの中には、まばゆいばかりの光が輝いていた。その光は、窓を通して冬の夜空に広がる。真っ暗闇に光る北極星のようにその光は揺るがず、強く輝いている。あまりの眩しさに、タイガース達はふいをつかれ、攻撃を一時中断した。まだ、獲物に飛び掛っただけで殺してはいなかった。
ヘリコプターは、ゆっくりと着陸した。そして、ドアが開いた。中から皺皺のウサギが杖をついて降りてきた。老人のウサギだった。耳が唖然とするほどに長い。そのウサギ老人が神々しいほどに眩しい輝きを放つオーラを纏っている。月の民衆は、皆、その老人ウサギを見て平伏した。誰一人として頭をあげるものはいない。別に、その老人ウサギが平身低頭を強要している訳ではなく、民衆全てが心からの忠誠心で頭を下げていることが傍から見ていた水星の軍隊にもわかった。そして、水星の軍隊の兵卒はその老人ウサギが誰なのか知ることがなかったが、王のトロをはじめとして水星の上級仕官全てがその老人に向かって頭を下げているのに気づいた。それを見て、皆、自分達も頭を下げねばならぬと思い、急いで頭を下げた。
まばゆい輝きを放つ老人が歩き、その後ろに古い軍服を着た耳の長いウサギの集団が広場に駆けつけて続いた。皆、耳が長い老人のウサギだった。杖をつく老人は、舞台の上に登り始めた。そのまばゆい老人の足取りを続く老人ウサギ達が支えた。軽く息を切らし、輝く老人ウサギは呟いた。
「なんじゃい、なんじゃい。この老いぼれが軽い痴呆症を喰らっている間に、偉い騒動になってるやんけ。隠居して、アホみたいに盆栽いじってる間に時代から取り残されておったわい」
輝く老人は、月の主だった。周りで月の主を支えるのは、月が滅ぼされるギリギリの淵で耐えに耐え、月を守りきった英雄達だった。




