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『痩せ細ったタヌキの死体に零れ落ちる耳の長いウサギの涙』
雪に捕られた足を引き抜くだけでも体力を消耗する。視界は降り止まない雪で真っ白。穢れなき処女雪が容赦なくセナを苦しめる。それでも、セナは、凍傷にかかって感覚を失った足で雪を踏みしめながら・・・・遠く離れた敗者絶滅収容所を目指して歩いていった。
寒さに飲み込まれ、何度も温かい素振りをした眠気が柔らかくセナを包み込もうとするが、セナはその誘惑を必死に振り切る。眠い・・・・でも、眠ったら・・・・想いは届かない。セナは、三日三晩眠らずに歩いた。敗者収容所内、敗者達の前で晒されている友の肉体を火葬する。セナの心の中には、その想い以外何もなかった。
セナは、あの四十二棟の牢屋の中でぽん太が話していた地球の風景を何度も心の中に描き、自分を奮い立たせる。小さくて美しい島が、その地球の海に浮んでいる。ぽん太は、故郷の国の話をよくしていた。ぽん太は、確かにその島国において敗者になったかもしれない。いや、大久保公曰く、その島国自体が敗戦国であったらしい。しかし・・・・ぽん太は、敗者になったとて故郷に残した思い出をいつまでも大切にしていた。つらくて、苦しくても・・・・ぽん太の生きた証拠は、故郷にあった。敗者収容所内に、敗者が残せる生きた証など一つもない。セナは、ぽん太を火葬し、煙に変え空へと駆け上らせて・・・・故郷まで返してやりたいという想いを心の水溜りに浮かべていた。あまりに苦しい現実を目の前にして、その想いは心の奥底に何度も沈みそうになったりもする。しかし、自分を涙に届けるために命を差し出してくれたぽん太の最後を思い出す度に、溺れかけた想いは何度でも心の水溜りの水面に浮く。
セナは、考える。
敗者絶滅収容所所長のヘスは、月の若き王に一人の敗者が収容所から逃げ出したという事実を報告できずにいるだろう。その報告は、ヘスの経歴にとって致命傷になる。必死に隠し通している筈。しかし、それが知れ渡るのも時間の問題だろう。敗者収容所内でヘスを失脚させ、出世を望むものがいないわけがない。それが、組織。ヘスは、焦っている筈。その弱みにセナはつけ込む余地があると賭ける。セナが、収容所に戻れば過去に一人として脱走者を出すことのなかったヘスの実績は元通りになる。セナは、自分の命を差し出す。そして、ヘスの経歴についた泥を拭ってやる。しかし、条件に晒されたまま寒さのために腐ることもできずに放置されたぽん太の死体の火葬を引き換えにする。ヘスにとってこの何でもない条件を、彼は間違えなく、嬉々として飲むだろう。結局、自分に逆らった敗者を殺せることに変わりはない。戻ってきた敗者にそれくらいの慈悲は残す・・・・・歓喜とともに。
セナが、雪の上に残した足跡は、降り止まない雪ですぐに埋もれて消えた。
何もかもが消えていく・・・・・・。
この道をセナが通ったことは、誰の記憶にも残らないだろう。
✍
闇夜が終らない月の裏側でセナはどれくらいの時間を費やしたのか見失う。しかし、時間を見失っても収容所があるであろう方角は見失わない。あの鳥肌の一粒一粒が破裂し中から嫌悪感の汁が出てきそうな残酷で重たい空気は、離れていても感じることができる。
セナは、歩き疲れて座り込んだ。息が荒く、感覚のない下半身が震えていた。
意識が朦朧としてきた。
冷たい現実に消え入りそうになった時、視界がほんの一瞬だけ澄んで曇りのなく遠くを見ることができた。セナは、雪の合間に残忍極まりないバリケードで覆われた敗者収容所を見た。
「へっ・・・・地獄に帰ってくることがこんなに嬉しいものだとは知らんかったわ」
セナは、凍った表情に微かな皺を寄せ笑った。
セナは、大きなため息をついて立ち上がった。そして、再び歩き出した。
✍
セナは、敗者絶滅収容所の入口に再び辿り着いた。防寒着を全身に羽織った門番が、入口を厳重に警備していた。吹雪く雪の中で、耳の長い真っ白なウサギであるセナの姿は、同色で隠れる。セナは、自分に気づかない門番に声を掛けた。
「おい、わざわざ俺を探す手間を省かせてやるために帰って来てやったのに気づかないとはどういうことや。G工場所属、ヘスの怒りの根源である逃亡した敗者が目の前にいるってのに」
セナは、門番の鼻先で声を掛けた。セナの冷たい息が門番に掛かった。そして、セナは、門番の腹に弾のない銃を突きつけた。
「ヘスに会わせろ。所長のヘスに会わせろ」
セナは、重たく威圧的な言葉を門番の鼓膜に響かせた。そのあまりに重量感のある言葉に門番の鼓膜は押し潰されて、破裂しかねない程。ぶ厚いコートを着た門番の体内から激しく音が鳴る。心臓がもうバクバクで緊張とプレッシャーのあまり破けてしまいそうだった。
「いや・・・」
他の門番は、セナの存在に気づかない。セナが脅す門番のすぐ横に立っている門番ですら気づかなかった。死に掛けているセナは、気配を失っている。そして、吹雪く雪が視界をさえぎるだけでなく、その風の音で音もあたりに響かないようになっていた。門番の耳元で囁くセナの声は、息を吹きかけられるほど近距離にある鼓膜にしか響いていない。
「いや・・・・って言葉は吐いたらあかんで。俺をヘスに会わせるか・・・ここで死ぬか、選びい」
「門番程度ではヘス所長に取り次ぐことはできない・・・・んだよ」
「そんなの知るかいな。やんのか、やらんのか。世の中には、この二つしかあらへんねん」
門番は、震えながら肯いた。
「ついてこい」と、門番は力なく呟いた。
セナは、門番に銃を突きつけたまま再び地獄へと入場した。セナは、ほぼ死んだ体と体力を失った心を持ってして細心の注意を払い、ヘスがいる敗者収容所司令部への道を行く。脱走したあの日よりも注意力は磨きあげられている。未熟な注意力がぽん太を殺したと右手の薬指の皮膚に張り付いて凍った指輪が語っていた。
雪は吹雪いた。景色も音もない世界があたりに広がる。ただ全てが白い。真っ暗な闇を真っ白に塗りつぶすほどの雪が空から降ってくる。セナは、完全に消える。いや、何もかもが消えた。
セナは、司令部の前までやって来る。それは一個の豪邸のような装いで、まるで首相官邸かホワイトハウス。あたりには警備の兵が多く配置されていたが皆、寒さに凍え、半分死にかけていた。門番は、司令部の入口に立った。セナは、門番に耳打ちをして入口の前にいる警備の者達に 「脱走をした敗者を連れてきた」と言えと言った。警備の者達は慌てて司令部に駆け込み、ヘスにそのことを伝えた。
「入れ」と警備を通じてヘスは言った。セナは、弾なき銃を袖口に隠した。あまりのことに慌てる警備は、所持品を検査することすら忘れている。セナは、司令部のヘスの部屋に入った。司令部は敗者の死体を燃料に暖炉がたかれて温かかった。体中雪まみれのセナの体から雫が零れ落ち、床に引かれた真っ赤な銃弾に悔し涙のようにして落ちていった。
ヘスは、セナを見て、歓喜した。そして、そのヘスの周りには、十人の軍人が冷たい表情でセナに銃口を向けて待機していた。
「お前が帰って来てくれて俺は心底嬉しく思う」
ヘスの満面の笑みがセナに向かって投げかけられる。セナは、ただじっとヘスの顔を見ていた。この男が敗者を苦しめてきた元凶なのだと・・・・いや、この男のボスか・・・・・若き月の王か・・・とセナは思う。
「ここがそんなに恋しかったか?やはり敗者は敗者と一緒にいた方が安心するだろう。ある意味、お前達はマゾヒストなんだ。苦しみの中にしか生きてはいけないのさ」
ヘスは、いつになく饒舌だった。しかし、そんなヘスにセナは静かで冷めた言葉を返す。
「机上の空論で物を言ったらあかんわ、ボケ」
その言葉にヘスは反応し、腰から銃を引き抜きセナに銃口を向けた。セナも袖口から銃をさっと出しヘスに向けた。ヘスは、自分に銃口を向けられたことで一瞬ひるんだ。周りの十人の軍人が引き金を引こうとするとセナも引き金を引く素振りを見せた。
「待て」とヘスは、周りの者に言う。そして、冷め切った歓喜を歯の奥で噛み締め、静かに言う。
「何が望みだ?ここに戻ってくるには理由があるだろう」
セナは、淡々と望みを語り始めた。
「俺の命はくれてやる。そのかわりお前がこの収容所内で見せしめに殺したであろう俺の友を火葬させろ。それが俺の望みだ。それが済めば、俺の命はいつでもお前にくれてやる。お前の経歴についた泥も綺麗に拭い去られる。俺の周りにいくらでも警備をつけたらいいわ。逃げも隠れもせん。ただ弔いの許可と友の亡骸を火葬するまで俺の命を保証してくれれば全ては終る」
ヘスは、笑った。
「シラミ一匹、燃やすくらいわけはない。お前ら敗者の浅はかな考え方は本当に興味深いな。意味なきことに意味を求めようとする。はははは、俺も悪魔じゃない。それくらいの慈悲はかけてやろう。明日まで生かしておいてやる。好きにしろ。ただ、お前の周りには目付け役の軍人どもをつける。タイムリミットが切れた後、死ね。いいな?」
「ああ」
セナは肯いた。
「お前ら、こいつを見張れ、いいな?」とヘスは、周りにいる軍人達に命令した。
セナは、軍人に囲まれながら司令部を出た。そして、ぽん太がいる敗者居住地区の広場へと向かった。セナが歩く後ろに何足もの軍用ブーツが雪を踏む音がついてくる。
✍
セナは、広大な敗者収容所内を一歩一歩ぽん太の元へと近づいていく。メインストリートを敗者居住地区に向けて逆戻りすると、ぽん太と一緒にした無茶がありありと思い出された。耳の奥に今でもぽん太の声が聞こえてきそうな気がする。セナは、少し感傷的になった。そして、ぽん太が眠る場所へと向かう。
脱走劇を繰り広げた後、冬は更に深くなり、雪が吹雪く日が多かったため敗者収容所のあちこちで雪下ろしが行われていた。深く積もった雪を掘れば、そこに疲れ果てて凍死した敗者達が顔を出す。辺りを見回すセナは、敗者の数がかなり減ってきていることに気づく。
「もうすぐ全てが終るんやなぁー」と感慨深げに呟いた。しかし、その言葉は吹雪に掻き消される。口を開いた瞬間に口内に霜が張り、扁桃腺の表面が凍った。
雪が深いためになかなか前に進めない。それでも、セナは迷わずに少しずつ前に進む。メインストリートを歩くのはセナとセナを見張る一団のみだった。
雪に埋もれた居住地区の広場。セナは、雪葬されたぽん太を火葬し煙の形で地球に帰してやるために雪を素手で堀始めた。穴堀りは、月の民族ウサギ達の義務教育の体育の必修科目。セナは、凍傷をおこし感覚のない手で雪を掘っていく。セナにつらいといった感覚はなかった。セナは、ぽん太の存在を雪を掘る程に感じていた。まるで現実に埋もれてしまった記憶の奥底の思い出を掘り起こすような作業。大切なものに近づいていくという感覚が心にしみ渡った。
真っ白な雪に、赤みが混じり始めた。大量の血を含んだその雪をセナは掌に取った。そして、ぽん太まで後一堀りだということを悟る。爪の間の雪をセナは震えながら描き出した。
怖かった・・・・・・。
死んだぽん太に会うのが怖かった。
ぽん太の死体を見れば心が壊れて、狂ってしまうかもしれない。
セナは、最後の一掻きができずにしばらく放心状態で赤く染まった雪に目を落としたまま動かなかった。
赤い雪を雪がまた埋めていく。セナは、滲んだ血を再び覆う雪をはたいた。セナは、震えながら雪を掻いた。そして、ぽん太の体に辿り着いた。セナの唇に力がこもった。涙が頬を伝う。骨が砕け、内臓を破裂させ、筋肉は裂け、潰れたまま死後硬直したぽん太の表情・・・・。
セナは、泣いた。
涙が乾ききったぽん太の顔に零れ落ちる。セナの涙が、ぽん太の頬を伝う。
セナは、恐る恐るぽん太の頬を撫でた。凍ったぽん太の体は、あまりに冷たかった。
セナは、ぽん太の体に残る癒えることのない傷跡の一つ一つに触れた。ぽん太という一人の敗者がその体に刻んできた傷が痛々しくも・・・・・勇気を持った敗者の強さの証明であるかのように思えた。セナは、その傷を愛しく思う。セナは、自分の肩に雪を積もらせ、ぽん太の体に触れていた。
✍
ぽん太を痩せ細った腕に抱き上げて、セナは火葬場へと向かう。ぽん太の体の重さに命の重さを感じる。例え敗者であっても命に重量はある。それを無視し続けたこの月の裏側の無慈悲な理性。でも、セナはもう怒りすら感じない。何も感じない・・・・・・。心は、感受性を超えた感覚を感じた時、何も感じなくなる。その感じえない感覚は揺るぎなく、理不尽な現実すら受け入れる。大きなブラックホールのように何もかもを享受していく。ただ、セナが雪を踏みしめる音の響きだけが心に響く。
冷たい敗者収容所に燃え上がる火。意思を持った生き物のように激しく動きながら燃え上がる炎。火力発電所―火葬場は、積み上げられた敗者の死体を燃料にして腐った現実に熱を送る。疲れ果てた敗者達が作業監視員の下、大粒の汗を流し作業をする姿をセナは見つめた。セナは、火力発電所の入口を入ったところで立ったまま・・・・・・。
火力発電所にいた一人の敗者がセナの存在に気づく。そして、セナの腕に持ち上げられている死体が、ぽん太であると知る。その敗者は、セナの元へと駆け寄った。業務を放棄しようとしたその敗者に作業監視員は銃口を向けたが、セナの周りにいるヘスの直属のエリート部下達が作業監視員を制止した。ぽん太とずっと一緒に働いてきた冥王星のオッサンだった。
オッサンは、ぽん太の変わり果てた姿を見て、一目も憚らず声を出して泣いた。嗚咽が激しく、セナが抱えたぽん太の死体の前に膝をつき、ぽん太の顔を何度も撫でる。
ああああああ・・・・・・・・・・・
ああああああ・・・・・・・・・・・
ああああああ・・・・・・・・・・・
オッサンは、ひたすら嘆いた。泣きに泣いた。涙が激しく目元から流れて、口からはヨダレが垂れ流れる。オッサンは、体の震えを押さえることもできずに痙攣したまま目を見開きぽん太を見る。
ああああああ・・・・・・・・・・・
言葉に成りきれない気持ちだけが、オッサンの心から溢れ出し、口から零れてくる。
セナは、ぽん太の体をオッサンの胸に預けた。セナは、もちろんオッサンのことをぽん太から聞いて知っていた。この敗者収容所でぽん太を子供のように可愛がり、叱り、生き残る術を教えてくれた人。オッサンは、ぽん太の体を強く強く抱きしめた。大声で泣いた。オッサンの後ろで火葬場の炎が燃え上がっている。明るく、眩しく、暗い景色がセナの目に映る。
「ぽん太を火葬してやってください」
セナは、オッサンに言った。オッサンは、ただ何度も首を縦に振った。オッサンは、涙声でぽん太の耳に口をつけ、優しく囁いた。
「よく頑張ったな、坊主。俺がお前を煙にしてこの腐った現実から解放してやるからな。地球に帰りな。お前はこの敗者収容所で闘い切って、故郷に帰るんだ。もうお前は敗者なんかじゃないから」
オッサンは、ぽん太の体をおぶって、火力発電所の炎が燃え上がる炉の下まで歩いた。セナは、オッサンの後ろ、おぶられたぽん太の肩に手を置いて歩いた。続いてヘス直属の部下達が歩く。物々しい雰囲気に周りの作業監視員と敗者達は唾を飲み込む。ぽん太の死体は、燃え上がる炎の影をその体にうつす距離まで火の側にあった。オッサンは、おぶっていたぽん太を地面に降ろした。
一瞬間を置く。
セナは、ぽん太の体の横に片膝をつき、ぽん太の胸を撫でた。四十二棟の牢屋の穴から見た奇跡の光景を思い出し、ぽん太の心に描いた絵に想いを馳せた。そして、ぽん太の顔を見つめて、 「お前と出会えて・・・・強くなれたわ。ありがとな」とセナは呟いた。オッサンは、その言葉を聞いた後、ぽん太の脇の下に両手を入れて上半身を持ち上げた。セナは、ぽん太の二本足を持ち上げた。そして、ゆっくりとぽん太の体を炎の中に浸した。ぽん太の冷え切った体に熱が入り、表面から焼けていった。火は、皮膚を焦がし、肉を燃やしていった。そして、ぽん太は灰になっていく。
セナは、火葬場の外に出た。そして、空を見た。火葬場の煙突から煙が上がる。セナは、雪が降る暗闇に昇っていく煙を優しい表情で見上げ続けた。もうセナの瞳から涙は出ない。セナの心には、安堵感が滲みる様にして広がった。
「地球に帰って、でっちあげた夢、叶えろよ」
セナは、別れの言葉をぽん太に告げた。ぽん太を弔うために口笛の一つでも吹いてやりたかったが、口をすぼめたところで音色は響かない。セナは、自分の周りを囲む軍人達を見た。軍人達は、セナを感情のない冷たい表情で見つめる。セナは、肯いた。それを合図に、軍人達はセナの両腕、両足を鎖で縛り上げた。セナは、終わりゆく運命をその心に受け入れた。
『狂気の末期症状と公開処刑』
セナは、ぽん太が圧死したのと同じ場所で十字架にかけられた。衣服は全て剥ぎ取られ、極寒の冬空の下で体を凍らせていく。寒さに眠気が襲い凍死しようとするとヘスの部下である拷問部隊は熱湯をセナの体に浴びせた。セナの皮膚が真っ赤に腫れあがり、火傷の激しい痛みに目が覚める。セナは、叫んだ。踏み潰される虫が叫べるのなら、熱湯をかけられたセナのように叫ぶのかもしれない。そして、火傷した皮膚に霜が張る。痛みが痒みを伴って凍っていく。十字架に張りつけられた痛みと苦しみの唾液と涙を口と目から零れ落とす。セナは、狂う。覚悟していた死という痛みを超えた拷問という苦痛に激しく狂った。
ヘスは仕事の合間にセナの様子を見に来る。短い耳を軍人ベレー帽で隠し、見下した表情でセナを見つめ、「まだ生きてんのか、お馬鹿さん」と笑う。
「とっとと殺せや、ボケ」とセナが痛みの虫に食われる神経の激痛に耐え切れずに叫ぶと、ヘスは「もっと苦しめや、敗者」と更に笑った。その笑いを合図に、毎回、セナは手と足にある爪を剥がされる。
うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおぉぉぉぉ・・・・・・・・・・・・
セナは、叫び、まだ痛みを感じながら生きる自分を呪いたくなる。セナは、痛みを感じることのない死を必死に求めるが張りつけられた十字架ではどうしようもなかった。剥がされた爪の跡に残る生肉から血が滴り落ちる。セナの足元、白い雪に赤い斑点がとめどなくぽたぽたと零れ落ちる。
収容所の敗者の数は激減していた。ほとんどが死んだ。それでも生き残っている敗者達は、月の政府から命ぜられた太陽の軍隊と闘うための残り僅かなノルマを達成するために必死に生き抜く。そんな敗者達は、工場から牢屋への帰りにセナの姿を広場に見た。
この収容所から逃げ出そうと夢見た男に・・・・・いや、一度逃げ出して戻ってきた馬鹿な男に・・・・は、容赦ない拷問が加えられ、見るに耐えない。敗者収容所のいる全ての敗者が思う。拷問を食って苦しんで死ぬくらいなら、過労死・・・・・もしくは射殺される道を選ぼうと・・・・・。
セナは、傷つき、傷つき、傷つき、苦しみ、苦しみ、苦しみ、苦しみ・・・・・・死にたくても死ぬことを許されずに生きていた。敗者収容所内には、もう疲れ果てた敗者しかいない。月面にいた敗者狩りは遠い昔に終わり、新たな敗者の供給はない。そんな残された敗者達の疲れを慰労するために、ヘスは余興を催す。セナの両手、両足にはもう爪は一枚もなかった。セナは、白目を向き、ただ微かな息をしているだけの存在になっていた。広場には通りすがりの数十名の敗者が集められた。
「お前ら、日々働いて疲れ果ててるだろう」
ヘス直属の拷問部隊が大きく広場に集められた敗者に向かって叫んだ。
「お前らの疲れを癒す慰労のための余興をしてやろう」
そう言って、拷問部隊はにやりと笑った。「この愚かな敗者の皮剥きを見せてやろう」と余興内容を残酷に宣言し、虫の息のセナの左手の皮膚に拷問部隊は切り込みを入れた。そして、切り込みに指を突っ込み、肉のへばりつく皮膚をつまみあげて、皮と肉の間にナイフをいれて林檎を剥くようにしてセナの左手の皮を剥いでいった。セナは、瞳孔を見開き絶叫する。あまりに痛々しい光景に、広場に集められた数十人の敗者達は目をつぶった。苦しまずに死にたい・・・・・それが、広場に集められた敗者達の唯一の願いになる。つぶった目の向こうで、セナの叫びは消えない。
セナの拷問は、三日三晩続いた。左手と左足の皮はすべて剥ぎ取られ、肉に霜が張り露出する。ヘスが、たまにセナの様子を見に来る。そして、拷問部隊に告げる「まだまだ死なせるなよ。この世で感じうる全ての痛みをこいつに味あわせて殺せ。いいな、この現実に存在しえる最も残酷な処刑方法で始末しろ」
ヘスは、こめかみに青筋を立てて、吐き捨てるように命令をした。しかし、四日目の朝、セナの拷問は中止された。気絶していたセナは、十字架から降ろされ、医務室に通された。セナはベッドの上で、気絶したまま眠りに入ることを許された。来世の来世のそのまた来世まで過労死してしまうほどの疲労をその体に溜め込み、敗者収容所を抜け出してから眠ることが許されなかった心と体は、一週間以上の長い眠りを許された。点滴がセナの右手の静脈に突き刺ささる。
セナは、一週間後、目を覚ました。耳の短いウサギの医者から最低限の治療と最低限の食事が振舞われた。医務室の外から銃声が聞こえる。一発、二発じゃない・・・・・何万発単位でセナの鼓膜は、破裂音を聞いた。でも、セナは外から聞こえる音について特に何も感じなかった。人格を破壊された廃人のようにベッドの上で、ただうなだれていた。
医務室の外では・・・・・敗者完全駆除が行われていた。月の軍隊は、太陽に対抗しうる軍備を整えた。そして、用なしになった敗者を月から完全に消し去るための皆殺しを始めた。セナが眠っていた間に収容所内の敗者の4分の3は始末された。
ヘスがセナが目覚めたことを聞きつけ、医務室に入ってきた。ヘスは、ヘラヘラヘラヘラと悪魔の笑顔をその表情に浮かべていた。そして、セナに何気なく告げる「喜べ、お前は最高のエンターテイメントの生贄に選ばれた」と。
セナは、疲れた顔で、首を傾げた。ヘスが口にした文章の意味がわからない。でも、ヘスは、一人で興奮をしていた。体を震わせたりもする。売れず笑えない喜劇役者の会心の演技なのか・・・・・ヘスは、自己満足に浸っている。セナは、自分の目に映るピエロの一つ一つの動きを理解できない。興奮したヘスは、たった一匹の敗者に熱く語る。
「遂にぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ」
ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ・・・・・・・・の余韻がうるさくセナの耳に残った。自己満足に興奮した声色ほど醜いものもない。
「ぃぃぃぃぃぃぃぃぃに、我が月の王国は、あの太陽に攻め込むのだ」
ヘスは、鼻の穴を大きく広げ、鼻毛をはみ出しながらそう叫んだ。鍛え上げられた我が月の軍隊は、遂にその軍備を整えた。宇宙船は、銀河系最強艦隊ヤマトを筆頭に、最上級クラスが二十艦以上、我々敗者収容所が作り続けた戦場での消耗品の数は、遂に無限に到達。使用する銃は、一秒間に1000発ぶっ放すマシンガン。負けることのない軍備を我々は揃えた。後、待つのは王の出陣命令のみ。今や、月の民族は、太陽を潰すために志を一つにし、溢れ出す愛国心をその心に沸き立たせる。太陽への憎しみ、月を堕落させた敗者への恨みは、極限を超えてしまっている。今や月の民族を戦時へ、月の軍隊を太陽へと進ませ、国家を戦場へと赴かせるために必要なのは血の一滴。恐怖を超えた興奮を、生贄を月の女神に捧げることで呼び起こす。女神の美貌を生贄が流す血で化粧した時、我々は女神のご加護を得る」
ヘスは、そこまで言って大声で笑った。そして、言う。
「ははははははは、喜べ。お前が、その生贄だ」
セナは、特に何も感じなかった。ヘスという死神が大きな口を開けて笑っているが、セナの鼓膜に笑い声は聞こえない。ヘスの向こう側に響く銃声だけがセナの鼓膜に響く。太陽に攻め込むべき軍備を整えた今、敗者の労働力はもういらない。むしろ月の政府は、敗者収容所の存在を月の外に知られることを恐れる。敗者を片付け、収容所を燃やして、何もかもをなかったことにする。セナは、自分の左手と左足に巻かれている包帯に目を落とした。真っ白であったであろう包帯に膿が滲みている。
「月の軍隊が太陽へ攻め込む出陣式でお前は処刑される。この月面に残る最後の敗者として」
セナの耳に届くヘスの言葉は、セナの心までは届かなかった。セナの心は、既に死んでいた。もう何も思い起こすことはない・・・・死を待つだけの命。何が起きようとも死ねば全てが許されて、消えてなくなる・・・・消滅を待つ心にもう感情はない。
「後二日。予定ではそれで、ここにいる全てのシラミ達は駆除される。そして、この収容所は火を放たれ、炎を身に纏いこの月の歴史から葬り去られる。月はお前をこの月面に存在する最後の敗者として保存し、その敗者を出陣式で月の女神への生贄として殺すことで、我々は完全なる勝者になるのだ。そして、敗北を知らない月の軍隊は、太陽に勝つ」
ヘスは、血管を巡る残酷で狂った未来に既にほろ酔い気分なのか、顔を赤らめて興奮していた。セナは、ベッドの上からヘスが興奮して語る言葉の向こう側の音に耳を澄ます。地獄絵図から罪を罪で洗う音楽が聞こえてくる。セナが麻薬に溺れて描いた芸術が現実に広がり、音を立てている。誰がこれを最高の芸術と称え、ブラボーと叫んだのか。絵の描けない批評家なんて・・・・現実を認識できない観念論者ばかり。セナは、ヘスの顔を見た。喉の奥に痰が溜まる。セナの右手は、凍傷で指が一本も動かない状態。でも、右手は描いてきた狂った絵の感触を覚えていた。
「まぁ、せいぜい後二日、ゆっくり休むがいいさ。残り二日間は、お前を天然記念物を扱うように丁重に扱ってやる。なにせ、この世に残る絶滅前の最後の敗者になるんだからな。麻薬でも持ってきてやろうか?死ぬのが怖いだろう?死への恐怖を紛らわすために、マリファナでも吸って落ち着けばいいさ」
セナは、無表情でヘスに抑揚のない言葉を返した。
「お気持ちは有難いが、薬も葉っぱも辞めたんや」
「そうか、なら素面で苦しめ」
ヘスは、そう言って、部屋から出て行った。セナは、何も感じない心でただただ外の音を聞いていた。耳に届く叫びを子守唄にセナは、眠りに落ちる。眠りの中に夢はなかった。そこにあるのは闇だけだった。




