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 雪は降り続ける。永遠に春がやってこないような冬景色。一度目の脱走試みで大量の汗をかいたぽん太とセナの体・・・・汗は冷たく、皮膚の上で氷っていた。何度か、銃の引き金を引く練習をする。指先がかじかんで、思うように動かない。二人は寒さと恐怖に微かに震えていた。工場地区の影から見るメインストリートは、冬の寂しい海に渦巻く潮の流れのよう・・・・・暗い空の下、静かに何もかもを飲み込んでいく景色が広がる。飲み込まれていく。そんな光景を、二人は見つめる。そして、渦に向かう自分達を思う。大きく息を吸う。そして、飛び込む覚悟を揺るぎないものにする。


 冷たい空気を吸い込み、体内の温度に包まれた肺から吐き出された息は少しだけ温かかった。そして、その息が冷え切った瞬間に、ぽん太はセナに何の合図もせずにメインストリートに飛び出した。

 二丁のマシンガンの銃口を前に突き刺し、引き金を引き続ける。

 その激しい銃声の連発に軍人ウサギの軍団はすぐに気がついた。ぽん太を見つけ、叫ぶ。

 「いたぞ。この混乱と混沌の元凶がーーー、ぶごぅおおっぷ・・」

 叫んだウサギの口にぽん太は銃弾を打ち込んだ。銃弾は、扁桃腺を打ち落とし、器官を突き抜けた。ぽん太が狙ったウサギの口からおびただしい量の血が吹き出た。一瞬取り残されたセナは、ぽん太の背中を放心状態で見つめた。走り出すことができない。怖いからじゃない・・・・ぽん太の行動の意味がわからなかったから。視点のぼやけたセナの焦点が、少しずつ鮮明になっていく。ぽん太は、一人、何百人の軍人ウサギに囲まれて闘っていた。銃を撃ち放ち、防具には無数の銃弾を受け、それでも倒れずに前へと進む道を切り開こうとする。セナは、そんなぽん太の姿を見て、悟った。そして、激しく怒りだし、工場地区の影から飛び出し、メインストリートをぽん太が闘っている場所に向かって走っていった。走りながら、喉奥の声帯が潰れそうな声で叫んだ。

 「ふざけんなー。一緒に、生きてここを出るって誓ったじゃねーかよ」

 セナは、涙を瞳に浮かべながら走った。

 「この冬を乗越えて、春を迎えるって約束したやんけ・・・・・。ぽん太ぁぁぁぁぁぁぁぁ、死ぬなぁぁぁぁぁ。お前をこの血で覆われた冷たい真っ赤な雪の上で死なせる訳あるか、ボケ。何を血迷ってんねん、俺はお前の屍を超えてまでして『涙』に戻りたないわーーーーぁ」

 ぽん太は、狂ったように前に進む。冷たい冬の暗闇に中に光る線香花火のよう・・・・・。長持ちしない熱をその痩せ細った体から放射する。セナは、マシンガンを打ちまくっては、自分に迫り来る敵を蹴散らし、ぽん太に追いつこうとする。でも、ぽん太に追いつけない。死を覚悟した男の気迫が、もの凄い勢いでメインストリートに道を切り開いていく。ぽん太は、最後の最後で輝きを取り戻す。中学時代、まだ名門で肘を壊す前の肉体の張りと若い体力が体が思い出す。死んでいた筈の走りこんでいた頃の筋肉細胞が太ももの裏で棺おけから蘇る。死を意識したことによって限界のリミッターを切ったぽん太の体は、その潜在能力を全てひねり出すようにして放出する。死ねば、全て失われるのなら、体に残る全ての力を使い切ってしまおうと潜在意識は、体中の丸秘体力才能根性貯蔵庫に命令を下す。ぽん太の息は上がる。でも、全身から搾り出す体力はまだ底をつく気配はない。ぽん太は、銃弾の嵐を浴びボロボロになりながら、道を切り開いていった。



 死を覚悟した敗者の捨て身の気迫の凄まじさ。瞬きすらしないぽん太とセナの見開いた目が、軍人ウサギ達を威圧する。ぽん太が前を突き進み、セナはその後に必死に着いていく。ぽん太に追いつかない。ぽん太は、組織の壁に突っ込み続ける。

 太陽の軍隊を恐れるウサギ達・・・・・荒れ狂う二人の敗者が狂犬に見える。狂犬があたりかまわず噛みつく。その牙に隙間からとめどなく滴り落ちる血を見て・・・・軍人ウサギは、数ミリ程度ずつ腰が引けていく。たった二人の敗者を殺すために、軍人ウサギは命を賭けようとはしない。軍人ウサギ一人一人が、数の論理の盾に隠れて、遠巻きに二匹の狂犬を退治しようとする。

 たった二人の敗者がこじ開けてきた道がどんどん広がっていく。そして、ぽん太とセナは、闘いの中で、闘い慣れていった。遠くから安全な場所から命の危険を冒さずに銃を撃つしか能のない、命を賭けるという軍人としていろはのいを訓練されていない軍隊は、混乱の度合を高めていく。組織の中の個々から動揺の冷汗が滲み出る。


 広大な敗者収容所の果てがぽん太の目には見えた。まだ遠いが、入口が確かに視界にうつる。

ぽん太は、張り詰めて膨らんだ太ももの筋肉に更に力を加える。

 速度を上げる。ほんの一瞬、全ての時間が止まった。

 全てが静止し、前に向かって進むぽん太とセナの足音だけが雪降る空の下に響いた。

 ぽん太は、一瞬、身震いした。

 時の流れの中で溺れていた自分・・・・・その自分が、時を・・・現実を・・・、たった一瞬だけど支配している。ぽん太は、一気に入口に向かって駆け抜けた。遠くにあった入口が、目と鼻の先に見える。入口の前で隊列を組む軍隊の銃口が一斉にぽん太に向けられる。ぽん太は、ひるまずに突っ込む。弾丸の雨が横殴りで降ってくる。鎖帷子にめり込む。度重なる衝撃で、縫い合わせた針金が緩んでくる。

 ぽん太は、残り少なくなった銃弾を惜しげもなくマシンガンの引き金を引いて、入口前の軍隊目掛けて撃ち放す。セナも、ぽん太の後方から援護射撃をする。闘い慣れし始めた二人は、軍人ウサギの装備しきれていない急所に狙いを定めた。ぽん太の放った銃弾がサングラスを吹き飛ばし、眉間に突き刺さる。

 軍隊は、隊列を何重にもして組む。この収容所内で唯一バリケードがない場所・・・・それが入口。常に、敗者をこの施設に送り込むため、門を作るという発想がなかったのか・・・・それとも常に軍隊が警備しているから必要ないと思ったのか。壁となる隊列を突っ切れば、そこはもう外の世界。入口の付近は、汚れた雪が積もっているだろうが、それを超えれば白い処女雪が美しく輝く世界に出る。

 ぽん太は、入口前の隊列の壁に突っ込んだ。肉と肉の間、鉄と鉄の間、防具と防具の間で、揉まれる。力で抑え込まれれば、叫びながら引き金を引いた。近距離で銃を乱射されることに恐れるウサギ達。それでも、数に勝るウサギ達は、暴れるぽん太を押さえつけ急所に向けて銃弾を撃とうとした。銃弾の嵐の中を抜けて後ろから走ってくるセナが、ぽん太に狙いを定めた者達に向かって銃を撃ち放ち、そして揉み合う混乱の中に身を投じた。セナは、ぽん太の体を押し付ける軍人に向けて発砲する。そして、倒れこんでいたぽん太を抱きかかえ、立ち上がらせる。そのセナの一連の動作に一瞬、軍人ウサギ達は見入った。ぽん太とセナの背中から吹き上がるオーラーが軍人ウサギを萎縮させる。一瞬が過ぎ去り、また揉みくちゃが始る。力を全て失い気力だけで動く二人は、押し潰される。

 ぽん太は、顔面を潰されながらも前を見た。収容所の入口を超えるまで、後五メートルもなかった。体力は底をつき、気力もほとんど失いかけていた心身に、結末のボーダーラインが見える。この入口を越えれば・・・・全てが終る。

 「終ろう・・・・」

 ぽん太は、喉に絡みつくウサギの手をはねのけてそう呟いた。既に意識は朦朧としている。前を見据えながら、ぽん太は残り数十発の銃弾を入口を阻む邪魔者どもに向けて一気に撃った。血飛沫があがり、道ができる。ぽん太は、後ろで囲まれてもがくセナに向かって叫んだ。

 「セナ、開いた。入口が出口になった」

 セナは、前を向いた。掴みあって、もがいた後のセナの額は割れていた。確かに一本の道が目の前にできていた。

 「走れぇぇぇぇぇぇぇぇ」

 ぽん太は叫んだ。気迫があたりに響く。ぽん太は、走る。セナも走った。

 走り出した二人を止めようとする軍隊だが、どうしても腰が引ける。

 死にたくない・・・・。その生存本能が、一人一人の心で作用する。

 ぽん太は、入口を抜けた。そして、その後を追ってセナも抜けた。

 二人は、敗者収容所の外にいる。

 何も考えられない。外に出たということがどういうことなのか・・・・それが理解できそうで理解できない。それでも、二人は走っていく。揉みくちゃにされてきたぽん太の鎖帷子・・・・ほころびが解けて、右肘のあたりに大きな穴が開いた。二人は、汚されていない処女雪の上を走った。

 後ろから軍人達が追いかけてくる。無数の銃弾が背後から二人を追い越す。二人は、少しでも早く走れるようにと腕を激しく振った。その動作の中で、ぽん太はセナの手から光が落ちるのを見た。セナは、気づいていなかった・・・・自分の痩せ細った指から指輪が落ちたのを。ぽん太は、立ち止まった。そして、セナが指輪を落としたあたりに四つん這いになり、その行方を捜し始めた。セナは、必死に走るあまり、ぽん太が立ち止まったのには気づいていない。二人の距離は、離れていく。

 雪の中に埋もれた指輪を探すぽん太目掛けて、銃弾があられのように降った。静止した目標物に一斉に降り注ぐ。そして、強度が弱まった鎖帷子・・・・穴の開いた右肘を一発の銃弾が貫通した、鈍い音がした。セナは、その音を聞いて横を振り向いた時、隣にぽん太がいないことに気づいた。とっさに後ろを振り返るとそこには右腕から血を流してうずくまるぽん太がいた。ぽん太は、右手に指輪を握り締めている。撃たれる直前に見つけていた。ぽん太は、もう動けなかった。そのぽん太に向かって軍人ウサギが向かってくる。セナは、ぽん太を助けに戻ろうとした。ぽん太は、そんなセナを睨みつけた。

 「来るなぁぁぁぁ」

 目が、そう語っていた。痛みに表情を歪め、大粒の汗を流しながら上目遣いでぽん太はセナを見る。右肘から大量の血が、処女雪の上に零れる。セナは、どうしていいかわからずに立ちすくむ。ぽん太は、なんとか指輪をセナに届けようと右肩に力を入れ、右腕を高く持ち上げた。そして、痛みに叫びながらセナに向かって指輪を投げた。痛みに目を細めながら、ぽん太は降り止まない雪の中、弱弱しい放物線を描く光を見つめる。投げた指輪の行く先・・・・・ファーストまで届いてくれ・・・・と、元野球少年は、祈った。あの頃みたいに、口笛が吹けるのなら・・・・その指輪は間違いなくセナの下へ届くと信じることができた。でも、余力のない体に口笛を吹くだけの力はなかった。

 ぽん太は、指輪の行方を最後まで見届けることができずに、十人程の軍人ウサギに押し潰された。体の上に圧し掛かられて、顔面を強く殴られた。その衝撃で張り詰めていた視覚神経は切れた。もう何も見えなかった。

 指輪がセナの元に届いたかどうかもわからない・・・・・。

 セナが、軍隊から逃げ切り涙に向かって走っていったのかもわからない・・・・。

永遠に続くような冬空の向こうには、春が待っているのかどうかもわからない・・・・。


 もう何も見えない。

 でも、もう何も見る必要がないのかと思うとぽん太の心は、少し楽になった。

ぽん太は、両手、両足に何発も銃弾を打ち込まれ、抵抗できない体にされた。そして、軍人ウサギに担がれ、再び敗者収容所へと運ばれていった。

 ぽん太は、四肢から血を垂れ流しながら微かに笑った。

 あああ、これで、やっと、終れる・・・・・と。



『踏み絵』


 汚い雪の上に残された二人の逃走劇の足跡が、降り止まない細雪に消されてゆく。

 しんしん・・・・しんしん・・・・と雪が、敗者収容所に降り積もる。

 血を滲み込んだ雪が白い世界にまだらに斑点のような点在する。白い肌に浮き上がるニキビのように、不自然なほど赤い。


 ぽん太は、収容所内の居住区の大広場の真ん中に放置されていた。その周りを二百人以上の軍人ウサギが囲む。そして、ぽん太の真横には敗者絶滅収容所所長のヘスが憎しみをその表情に浮かべながら立っていた。

 ヘスは、収容所職員達にできる限りの敗者を広場に集めるように命令していた。その命令によって、権力の暴力を背景とした強制に従うべく収容所の隅々から敗者が血の気のない死体のような顔をして集まってきた。

 ぽん太は、手足を折られたて身動きが取れない・・・・。ぽん太の口から漏れる虫の息だけが、断続的に冷たい空気の中に白く浮かび上がる。仰向けに倒れているぽん太に雪が積もる。そして、その雪を払いのけることすらできない。

ヘスは、集まった敗者達を前にして、拡声器を握った。そして、叫んだ。

 「いいか、害虫ども。お前らを捕らえているこの虫籠から逃げだせるなんて思うんじゃねーぞ。今から、血迷った夢を見た虫けらの処刑を見せてやる。盲目のお前らにも、わからせてやるように、その触覚で触れさせてやる。一列に並べ」

 ヘスが、そう叫ぶと収容所の職員がボスの前で敗者整理を手際よくやり、敗者を列に並ばせた。ヘスの短い耳が、外気の冷たさに少し赤くなっていた。いや、寒さではなく、自分を陥れた敗者への怒りに血を耳の先まで上らせていたのか・・・・。

 「脱走なんて変な気を起こした奴の運命をその足の裏・・・・てめぇーらのチンケな触覚でよく味わえ。踏み絵だ。いや、踏み敗者とでも言うべきか。ここにいる虫を踏み殺せ。躊躇すれば、この場でお前らを殺す。お前らの足の裏に教えてやる。勝者に逆らった敗者の肉の感触を」

列に並ばされた敗者は、前へ進み始める。

 「おら、早く行け。ちんたら踏んでたら、殺すぞ。時間がねーんだ、踏んでとっとと仕事に戻れ」

 敗者の列を整備する軍人達が敗者に向かって大声で叫ぶ。

 敗者達は、恐怖に体を震わせながら、ぽん太の体を踏んでいった。仰向けに寝かされたぽん太の体内で次々と内臓が破裂していく音がする。骨の砕ける音がする。口と鼻からは血を噴出し続け、ぽん太は窒息していく。ぽん太を踏む敗者達の顔に戸惑いが浮ぶ。その表情を睨みつける収容所所長ヘスの顔は、悪魔以外の何ものでもない。

 ぽん太は、既に息絶えていた。心蔵は、破裂している。それでも、敗者全員に逃亡を企てた愚か者の死体を踏ませ、恐怖をその心に植え付ける。

 ぽん太と火力発電所でパートナーを組んでいたオッサンの番が来た。潰れたぽん太を見て、一瞬うろたえたオッサンの表情をヘスが睨みつけた。悪魔の冷たい視線に、オッサンの背骨は氷りつく。そして、心の中で何度も何度も同じ言葉を繰り返しながら、オッサンはぽん太を踏んだ。

 「許してくれ、許してくれ、坊主。許してくれ、許してくれ、坊主」

 オッサンは、ぽん太を踏み、そして仕事に戻る途中に工場の影で号泣した。零れ落ちた涙が、冷たさに凍った。


 収容所の入口を警備していた軍人ウサギのリーダーは、セナが逃げたことを所長のヘスに伝えられずにいた。ヘスは、逃亡を企てたのはぽん太一人だけだという報告を受けていた。しかし、ヘスは敗者が次々とぽん太を踏みつけていく光景を直立不動で見つめながら、その失態を直属の諜報部隊から耳打ちされた。静かで深い怒りをその顔に浮かべる。骨も筋肉も踏み潰されたぽん太の死体を見ながら、ヘスは失態を報告した諜報員に小さく指示を出した。諜報員は、その指示に静かに肯き、広場を離れた。そして、十分後に再び広場に戻ってきた。十人の諜報員が入口警備の責任者を縛り上げて引きずって来る。入口警備の責任者は、ぽん太の横に並べられた。そして、ヘスは、集められるだけの収容所職員と軍人を集め、その責任者をぽん太と同じ踏み絵にした。ヘスは、何も言わなかった。ただ、ウサギ達がウサギを怯えながら、震えながら踏みつけていく光景を見つめている。ヘスの静かな怒りに満ちた目には、失態を犯したものは全て敗者に見えているようだった。

 収容所にいる全ての者達が押し黙っていた。静けさが収容所全体を包む。誰もが震えていた。その震えは、ただ単に冬の寒さから来るだけのものではなかった。皆、凍えていた。


 骨は砕け、筋肉は裂け、紫色に滲んだ皮膚をその体に残してぽん太は死んだ。

 踏まれて汚れた醜い雪と口から流し続けた赤黒い血が、ぽん太の体に死に化粧をする。

ぽん太の死体は、火葬されることもなく永遠の見せしめのために敗者収容所の居住地区広場に放置されたまま。


 時が過ぎる。


 降り続ける雪が晒された死体の上に積もる。冬を乗り切れなかった男を、白く冷たい雪が埋葬する。そして、雪に埋もれたぽん太の存在は、少しずつ忘れられていく、たった一人・・・・・ぽん太を忘れられない男を除いて。


『届かない手紙』


 切手も貼れずに出すこの手紙・・・・・。あなたのもとに届くことのない手紙です。

 それでも・・・・それでも・・・・届いて欲しいと願う手紙です。

 この月面にいまでもいて欲しい・・・・粋な郵便屋さん。昔、ガキの頃・・・・遠くに引っ越してしまった友達に送った何枚かの絵を便箋につめて、切手も貼らずにポストに投函したあの頃を思い出します。それでも、あの切手のない手紙を子供の足では辿り着けない場所まで届けてくれた郵便屋さんがいて、今でも友達から返事が来た奇跡を思い出すことができます。ハルも覚えてると思います。俺が絵を描き、あなたが手紙を描き、二人で出した手紙だったから・・・・・。もういないのかな・・・・切手を貼れない想いを届けてくれる粋な郵便屋さんは・・・・この滅茶苦茶になってしまった世界には。でも、俺は、あなたに届くはずのない手紙に、あなたに届くはずのない想いを書き綴ります。


 敬語で書くと照れます。でも、あなたへ敬意を表さずにはいられません。あなたが側にいてくれた時間が今でも忘れられずにいます。そして、あなたとともにいた時間を思い出す時、幸せの意味を知ることができます。その幸せだけで・・・・俺は、今の今まで生きてくることができました。幸せだった過去を儚んで自殺をしようとしたことは何度もあったけれど・・・・・生きて生きて生き延びて幸せだった過去を思い出し、あなたがくれた思い出を大切だと思える今の僕は少し成長したのかもしれません、天才などと呼ばれて有頂天になっていた頃に比べれば。生きていくことの意味を知りました。思い出を捨てずに抱きしめていくこと・・・・・そして、その思い出をくれた人の幸せを願うこと。それが、生きていくことの幸せだと感じることができます。

涙のことを、敗者収容所で毎日のように思い出しました。孤独に犯されて、自分の無力さに震えながら塞ぎこむ時、思い出すのはあの澄んだ小川のせせらぎと絵の具の匂い、そしてあの美しい田舎の景色を一緒に見ていたあなたのことです。口笛を吹きながら、真っ白なキャンバスに無邪気に落書きをして、いろんな色でそれを塗っていくと心と大空が抱きしめあっているような気持ちになったもんです。大人になっていく中で、失われていくその感覚を必死に取りかえそうとして、ムキになって、無駄あがきもしたもんです。もう純粋じゃいられない・・・・・それを認めたくなかったから、あらゆるものに抵抗して、反抗して、噛みついて、俺はボロボロになりました。でも、今は、反抗期だった頃の自分さえも愛しい。今になって気づくことがたくさんあります。そして、俺の人生は、たくさんの人に支えられて本当に幸せだった・・・・・・今、心に残るのは感謝の気持ちだけです。ずっと、ずっと、一人で闘って、もがいてると思っていたけど・・・・・一人だったら闘うことすらできなかった・・・・・闘っていると思えただけでも、そんな一人よがりの闘いの裏でどれだけ多くの人達に救われてきたのか・・・・。


 俺には戻る場所があります。それは、傷つけても愛してくれたあなたのもとでも、育った故郷である涙でもありません。たった一人で闘っていると思い込んでいた俺と一緒に闘ってくれた友のもとです。敗者収容所に閉じ込められた俺をあなたのもとへと送り届けるために、命を賭けて行き止まりしかなかった俺の未来に道をこじあけてくれた友のもとへ・・・・・俺は、戻りたいと思います。捕縛された友は、敗者収容所内で極刑を受け、その命の灯火を消したに違いありません。そして、あの腐った現実の論理を知る俺にはわかります。愛しい友は、いつまでも見せしめにあい、その体を冷たい冬空の下で晒しているであろうことを・・・・・。それを思うだけで俺は、もう駄目です。あの収容所に戻り、親友の亡骸を抱きしめたい。そして、俺の涙の全てを彼のために捧げたい。もう・・・あなたは、愛する人を見つけて、永遠を誓い合い、幸せを感じている頃だと願っています。もう田舎に戻って、あなたを困らせたりはできません。友が、あなたに一通の手紙を書く時間をくれました。俺には、それだけで十分です。届くはずのないこの気持ちでも、敗者収容所の外であなたを想う時間が、今、こうしてあることの幸せを俺は、友に感謝せずにはいられません。そして、今、この流れゆく時の中で、失ってきた全てのものに・・・・取り戻そうとしたあらゆるものに・・・・・別れを告げられる。別れを伝えられずに、逝くのもつらいものだから・・・・・。愛しい全てに別れを告げるために今、こうして俺は手紙を書いています。


 あなたに謝りたいことばかりです。あなたを裏切り続け、傷つけ続けた。あなたの存在があまりに重く感じたこともあった。何度も別れを告げた。でも、あなたはいつでも俺の帰る場所を用意して待ってくれていた。あなたの愛にこたえるべきものを何一つ持ちえなかった自分を深く恥じています。もし許されるのなら、あなたに贈りたい言葉があります。


 愛してくれて・・・・ありがとう。


 この言葉の中に、俺の全ての想いが詰っています。受け取ってください。

 もうこれ以上何を書いていいのかわかりません。

 この手紙をポストに入れて、俺は行きます。


 これで本当のお別れです。どうか、幸せになって下さい。素敵な男性と愛を育み、涙に降り注ぐ穏やかな光を全身に浴びて、どうか幸せになってください。あなたの幸せを願う時、俺は幸せを感じることができます。そこにはもう嫉妬も何もありません。ただ、あなたの笑顔が一輪の花のようにこの世界のどこかで咲いていると思えるだけで、俺は本当に幸せです。手紙に絵を添えられればいいんですが、今の俺には・・・・もう・・・絵は描けない。そして、俺は、今、絵にも別れを告げます。


 さようなら。


 ハルへ


                                                                                 セナ



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