㊳
十二時間が過ぎた。計画実行まで、後四時間・・・・。ぽん太は少し頭痛を感じた。呼吸のリズムが不安定で、酸素がうまく体に取り込めない。ぽん太は、息苦しさに耐えられずに大きく口を開けて空気を吸い込もうとした。その時、背後からぽん太を呼ぶ声がした。
「F33258」
自分の番号が呼ばれる。酸欠気味だったぽん太は、注意力が少し落ちていて、その声の主が背後に迫り来る気配を見逃していた。息を大きく吸い込むどころか咳き込んだぽん太。なぜ自分が作業監視員に呼ばれるのか心当たりがない。ぽん太は、嫌な予感に冷たい汗をかく。
敗者を見下した声が投げつけられるようにしてぽん太の背中に当たる。
「工場長が呼んでいる。今すぐF工場内のエグゼクティブルームに行け」
そこまで言うと作業監視員は、ぽん太の背後を立ち去った。もう自分の後ろに作業監視員はいないのに、嫌な気配がそこにまだ佇んでいる。胸騒ぎが理性を失ってしまいそうにぽん太の薄い胸板の奥で騒ぎ出す。ぽん太は、どうしていいのかわからなくなる。行けと言われれば行かなければいけないのが敗者の運命。しかし、計画の実行は、一秒一秒カウントダウンを刻んでいる。今までだって一度として工場長に呼ばれるようなことはなかった。なぜ、今・・・・・?もしや、脱走計画がバレたのか・・・・?ぽん太の思考は、想定外の事態に対処しきれない。思わず誰にも聞き取れないほどの小さな声で独り言が出る。
「強制労働の第二フェーズは、ただ織機の前で、仕事をサボりながら体力を温存し、周囲を観察するのみの想定。どんなに今まで頭の中で脱走のシナリオを描いても、工場長に呼ばれるという自体は想定していなかった・・・・セナ・・・・。セナに、今、自分の状況を伝えたい・・・」
虚しく独り言が自分の顔面の前に響き、吐き出した臭い息が鼻の周りにくすぶった。
「行くしかない・・・・」
ぽん太は、工場長の用件が何であれ、刃向かえば殺される現実に向かって小さく呟いた。死ぬ訳にはいかない。それは、F工場内で何が起きているのかを知らないセナが・・・・・四時間後にG工場を飛び出し、一人で脱走計画を実行に移すことになる。ここで命令に背けば、それはセナを見殺しにすることと同じ。ぽん太は、覚悟を決めて織機から立ち上がり、力なくエグゼクティブルームへと向かった。
工場の作業場奥にあるエグゼクティブルーム。ガラス張りの部屋で、中から敗者達の仕事ぶりが観察できるようになっている。いつもそこにはデブで真っ赤な作業着を着た耳の短い元デザイナーのF工場長が、大きな革張りの椅子に越しをかけ、老眼鏡片手にニタニタにやけながら書類に目を通していた。ぽん太は、F工場で働き始めてからかなり経つが意識的にエグゼクティブルームの方に視線を投げないようにしていた。
ぽん太は、ガラス張りの部屋の扉をノックした。
「入れ」と中から命令口調の声がする。ぽん太は、「失礼いたします」と丁寧に答えて、中へと入った。そこには、いつもニタニタ汚く笑う工場長の真剣な顔があった。そして、机の上でレポートを入念に読んでいた。そして、工場長は、レポートから一瞬目を離し、ぽん太の存在を確認した後、命令口調で。「頭が高い」と言った。ぽん太は、その言葉を土下座をして話を聞けという意味だと解釈する。ぽん太は、その場で両手、両膝をついて頭を低く、床に擦りつけた。こいつの機嫌だけは、損ねちゃいけない。頭を地面につけるくらいで機嫌が取れるのなら、かなりお安い。ぽん太は、ひれ伏し工場長の次の言葉を黙って待った。
「お前は、このF工場での労働以外に火力発電所の炎の中に燃料をぶち込む仕事も割り当てられているな?」
一体、工場長は何を思い、そんなことを語るのか・・・ぽん太は一瞬不安になった。しかし、即座に返答をしなければならない。工場長が吐き出した疑問文がぽん太の前でうろつく。
「はい」
ぽん太は、答えた。そして、補足説明を付け加えた。
「私は、鎖帷子を日中作らせて頂き、そして残業として敗者の死体を焼かせて頂いております」
「お前は、もう鎖帷子を作らなくてもいい」
工場長は、ぽん太に向かってそう言った。ぽん太の地面に擦りつけた顔の表情が固まる。一体、このデブウサギがほざく言葉をどう受け取ればいい・・・・。ぽん太は、内心で激しく焦る。体は、凍りつくようにして固まったまま動けない。体内に閉じ込められた焦りは、セナを思い出す。鎖帷子をこの工場から持ち出して、身を守りながら収容所の入口まで突っ込むのが計画。しかし、F工場を追い出されれば鎖帷子は持ち出せない。
「太陽との戦争はもうすぐだ。鎖帷子の生産もほぼノルマを達成している。軍人一人に一枚は既に供給できる。後は、予備分を少し作るだけだ。ただ、それはこのF工場に課された使命であって、月の政府がこの収容所全体に課している使命にそろそろ取り掛からなくてはならない。宇宙サミットは我々誇り高き月の民族が、月の裏で敗者というゴミを大量に処理をしていることに薄々気づいている。情報開示を求められるが、月の政府はそれを公表はしていない。宇宙サミットの圧力が強くなってきている。宇宙サミットは月の裏側に査察隊を送ろうとしている。我々は、敗者絶滅収容所の存在を宇宙サミットに知られる訳にはいかない。宇宙でかなり立場が悪くなるからな。そこで、我々は今、この収容所に転がるゴミを綺麗に灰にし、証拠を隠滅しなければならない。まあ、最終的には敗者を全て灰にするのだが、まずは死体からだ。お前は、強制労働時間の全てをゴミ処理に費やし、一刻も早く敗者を虐殺した証拠を隠滅せよ」
耳の短いデブウサギが一方的にぽん太に告げた敗者絶滅へのシナリオ。いずれその日が来るのはわかっていたが、この星を支配する権力の口からそれを聞いた時、ぽん太は今まで生まれてから一度も感じたことのない冷たく残虐な暴力に対する絶望的な恐怖を感じた。一瞬、自らの脱走計画もセナのことも忘れた。この敗者収容所から一人の敗者もいなくなる日・・・・・。
「いいか?返事をしろ、ゴミ」
工場長は声を荒げてぽん太に叫んだ。ぽん太は、何を答えていいのかわからない。ぽん太は、絶望的な恐怖の中に、セナとの作り上げた計画を・・・・約束を守れないかもしれない苦しみに打ちひしがれる。このままでは、鎖帷子をセナに届けられない・・・・・ぽん太は、セナを見殺しにすることになる。何もかもが狂い始める。この月もぽん太とセナの計画も何もかも・・・・。
「はい・・・・・お役目、ありがたき幸せでございます」
ぽん太は、力なくそう答えた。それ以外に答えようがなかった。頭の中が真っ白どころか、真っ黒になる。
工場長は、ぽん太のその返事を聞いて、ニタニタと笑い出した。そして、手に持っていたペンをダーツを投げるようにしてぽん太のひれ伏した頭に投げた。ぽん太の頭皮にペンの先が突き刺さり、そして地面に落ちた。ペンが頭に当たったのを喜ぶ工場長は、無邪気に言った。
「明日から徹底的に死体を燃やせ。一週間以内に掃除しろ。いいな?」
ぽん太の固まった表情は、ぴくりと動いた。工場長が吐いた言葉に一筋の光が見えた。
明日から・・・・・。
ぽん太は、下げた頭、唇の端に笑いを浮かべた。体が喜びに震える。
今日からでは・・・・今からではない・・・・。
「今日は、今作りかけている鎖帷子を編みきり、ノルマを達成しろ。いいな?」
工場長はそう言う。ギリギリセーフ。ぽん太は、自分の危うかった状況に微かに笑った。計画はまだ死んでいない。首の皮一枚で生きている。ぽん太は、心からの感謝を込めて工場長に言葉を返した。
「お役目ありがとうございます。明日から腐りゆく醜い敗者の死体を焼くことで・・・・一日でも多くこの世で生きながらえたいと思います。例え、いずれ果てる生命であっても、誇り高き月の民族のために私の全ての存在を持ってしてご奉公させて頂きます。どうぞ宜しくお願い致します」
ぽん太は従順さを全面に出した。工場長は、そのぽん太の従順で素直な態度に満足する。従順さの裏にある計算を読めない上司。このひれ伏す敗者が脱走計画を持っていようとは考えもつかない。
ぽん太は、部屋を辞し、織機の前に再び座った。計画実行まで後・・・・三時間半だった。
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三時間を切った。ぽん太は、目をつぶりながら何度も何度もこの腐った現実から逃げ出す自分をイメージする。セナは、G工場内で銃弾を一つでも多く作る。手先で火薬を触り、頭で計画の細部を入念にチェックする。一秒という単位が重たく肩に圧し掛かる。この重みに耐えられなければ全ては潰されてしまう。
心臓が縮み上がり、そして膨らむ。時間も縮み上がり、そして膨らむ。二人の心臓が収縮すれば、この月面裏側の時も収縮した。ドクン・ドクン・ドクン・ドクン。高鳴る鼓動と時計の秒針は同じリズムを刻む。
ぽん太は少しだけ、心の中で泣きそうになった。自分が背負った運命の重たさに負けてしまいそうで・・・・でも、もう負けられないんだと何度も自分に言い聞かせる。次、負けたら・・・・本当に全てが終ってしまうから。ぽん太は鼻をすすって、涙を堪えた。もう泣く訳にはいかない。泣いてすむなら・・・もうとっくに救われている・・・・こんな収容所から脱走しようなんて思わなくても、都合のいい奇跡がこの苦しみを消してくれている筈。
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二時間前。ぽん太は、鎖帷子を編むフリをする。体力温存に専念する。心を落ち着かせようとする。でも、不安は意識の中で暴れ続けている。思わず、不安の塊をゲロにして口から吐き出しそうになる。でも、これを吐き出しちゃいけないとぽん太は自分に言い聞かせ続ける。吐き出せば楽になれるわけでもない。むしろこの不安を消化して体内の栄養素に変えるくらいの気合がないのならば、何一つ乗越えられないだろう。
死への恐怖がお坊さんの格好してぽん太の精神の中心でお経を読み始めた。ぶつぶつぶつぶつを延々とお経を三十分以上唱え続けた後、そのお坊さんはぽん太を見て説教を始めた。あれやこれや最もらしいことを述べ続ける。ぽん太は、一瞬心が萎えた。
「神への冒涜」
その坊主は、そんなことを言った。その前に何と言ったかはぽん太は覚えていなかった。でも、ぽん太のなすべきこと、心に思うこと、その何もかもを否定された後に、教義に沿ってぽん太の心に持っている感情は全て神の冒涜だというようなことを坊主は言ったんだと思う。ぽん太は、その言葉を聞いた瞬間に、その坊主に向かって心の中で痰を吐いた。かーーーーーっ、ぺっっっと。
「残念ながら、神様なんて見たことない。俺の前に姿を現してくれたこともない。つれねー存在。聞こえはいいが、何もしてくれやしない無の存在を裏切っても俺の心は痛まない。お坊さん、あんたがくどくどと説いた説教・・・・・あんた自身が何かに命を賭けたことがあるのなら聞いてやる。でも、勉強して得た道徳なんて糞くらえ。あんたは、脱走なんてくだらないことはやめろと言うが、それはあんたが籠の中の鳥で、ピーチクパーチク鳴いているだけで満足できるからだ。俺は・・・・・俺達は、違う。俺は俺の信じる・・・そして大切に思う友のために命を賭ける。奴が涙に帰れるのなら、あんたが言う神への冒涜もやろうじゃないか。俺は、神を裏切っても、友は裏切らない。そういう男になるとこの収容所内で自分に誓ったんだ。だって神様・・・・あんた、いてもいなくても同じなんだもん。結局、皆苦しんでる」
ぽん太は恐怖を掻き消した。ぽん太の心に、もう無駄な言葉はなくなった。悟るような心持ちで感情は澄み切る。
「神を裏切っても、友は裏切らない」
いい言葉だとぽん太は思った。地球に帰ったら小説のどこかで使おうと思った・・・・・でっちあげた夢・・・・。愛してくれた人に残した最後の言葉・・・・・。今でも忘れられない思い出に向かって走っていくまで、後一時間。
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ぽん太は、最終チェックに入った。軽く労働をこなしながら、手や足、腰、背中などの状態を確認する。運動神経の一本一本を丹念に調べ上げ、不具合がないかどうか確かめる。色んな場所に不安を抱えていた。織機の下に潜らせた二本の足、作業監視員の目から見えないところで、ぽん太は下半身のストレッチをする。アキレス腱を伸ばし、膝の裏の筋をぽん太は手で揉んだ。緊張しているのか、尿意が絶えず、膀胱の中に虫が這い回るような感覚が下腹部を襲う。腸がぐずつく。微かな透かしっ屁が肛門から漏れ、消化不良な栄養達の死臭がぽん太の存在の周りに強烈に臭った。
ぽん太は、収まらない微かな震えに心の中の自分の声を揺らしながら、運命に語りかける。
「どうよ?」
運命が答える。
「わからん」
頼りない運命。先のことはわからない。そんなもんだと、ぽん太は割り切る。誰に訊いたところでわからないのなら、自分の目で確認するしかない。ぽん太は、一瞬、腫れ上がった瞼を開き、視界不良な目で、先が見えない白黒の現実を見据えた。何もかもが真っ暗や闇だった。全てが不可能にしか思えない。
三十分前。圧倒される。痴女気味の緊張感に犯される。精子を体から全て吸い尽くされ、舐め尽されるような脱力感がぽん太の体を襲う。自分がどうしようもできないことばかりに襲われてばかりいるような気がする。不可能で塗りたくられた真っ暗な現実に、抜けていく白い脱力感が混ざり合い、灰色になる。ぽん太は、一ミリも動けない。硬直しているぽん太を見て、作業監視員は、ぽん太を棍棒で殴った。ぽん太は、床に倒れこむ。唇の端が切れ、血が口に流れ込む。ぽん太は、自分の血をすすって・・・・やっと冷静さを取り戻す。三十分後の運命の行方・・・・そんなもん考えたところでわかるわけない。何度も自分に言い聞かせた・・・死ぬかもしれないということ。そして、死んでも構わないということを・・・・。もうこれ以上考えることはない。考えたところで、どうしようもないレベルまで事態は深刻化している。後は、行動。今更何をしたところでもう無駄。ただ、落ち着きを取り戻し、高ぶる神経をアイシングするのみ。でも、熱は冷めやしないけど・・・・。
十五分前。そろそろ就業時間が終る作業監視員の何人かが人目もはばからずにあくびをするのをぽん太は見逃さなかった。
緩み始めている・・・・・。時が、だれはじめている。
ぽん太は、短い耳の裏側を掻きながら眠そうな目を擦るウサギ達を見て、微かに笑う。
今のところ計画通り・・・・・。ぽん太は、心の中で自分に言い聞かせる。
ぽん太は、辺りに広がる雰囲気を一つ一つ丹念に分析し始める。どんな微細な雰囲気の動きもぽん太は見逃さない。こんなに注意深く、体中の神経の感受性を最高レベルに上げて現実を見つめたのなんて初めて。時の流れ・・・・潮の満ち引き・・・・何もかもを感じることができる。
ぽん太は、セナのことを思った。
ぽん太は、今の今まで悩みに悩み・・・・くじけそうになった自分の心の有様を見ては、セナも同じ様な心模様なのだろうかと思う。ぽん太は、この十六時間を疑心暗鬼という金棒を持った鬼に脅されながら過ごした。冷汗を何リットルかいたかはわからない。セナも同じだろうか・・・・。お互いの想いや不安は完全に隔離されて、それを伝える術はない。ぽん太のいるF工場とセナのいるG工場は遠く離れている・・・・・気持ちを伝える携帯電話やポケベル、通信手段は何一つない。唯一つあるのは信頼。友情を裏切らない強い気持ちを信じるしかない。ぽん太は、織機の下に隠す二着の鎖帷子を何度も掌で撫でた。銃弾を貫かせないほどの強度を持つ針金を縫い合わせたその防具のざらつく表面の感触に、生命の皮膚に浮き上がる鳥肌の手ざわりをぽん太を感じた。
十分前。もう心臓の鼓動を抑えきれない。心臓が爆発しそうなほどに収縮し、体の中で暴れる。勢いよく流れる血液が血管を破ってしまいそう。ぽん太の顔は、紅潮する。緊張のあまり過呼吸寸前で、体に酸素が回らなくなる。頭がぼーっとして、リアリティを感性の中にうまく取り込めない。ぽん太は、手を震わせながら、右腿を強くつねった。肉がつまみとれるほどぽん太は太ももをつまみあげる。痛みの感覚を取り戻し、怯えてぼやけた神経を叱咤する。現実を肌で感じれば感じるほど、恐怖が膨らむ。
七分前。こめかみが砕け散ってしまいそうに痛い。頭蓋骨を万力にかけられてはさみこまれるような緊張の圧力を感じる。
六分前。目眩がする。ぽん太の視界に映る白と黒の世界がいがみ会うようにして殴り合い、傷つけあい、殺しあう。
五分前。追いつめられた吐き気と極限状態の尿意を催す。ぽん太は、少しちびった。
四分前。一度、諦める。
三分前。思い直す。
二分前。セナがぽん太の心に描いた優しい絵を思い出す。可能性0%の現実に命を捧げる覚悟を生贄に奇跡を願う。
そして一分前・・・・・。




