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 「男が、女に優しくされると砕け散るものって何かわかるか?」

 セナは、ぽん太にそう訊いた。話の続きだった。

 「プライド。プライドが砕けていく音を何度も聞いて・・・今でも、たまに耳鳴りで聞こえる」

 ぽん太は、迷わずそう答えた。思いっきり心当たりがあった。たんぽぽに優しくされるたびに心の中で砕けていったもの・・・・今でも、その崩れ落ちる音を思い出すことができる。セナは、ぽん太の言葉を大きなあくびをして、飲み込んだ。そして、砕けていったプライドの音を噛みしめて飲み込んだ。閉じた口の中、、セナはゆっくりとぽん太の言葉を消化して、再び口を開けた。

 「ああ・・・・プライドだ。俺は、お前みたいに音じゃわからなかったが、砕けて粉々になっていくプライドの形を頭に思い描くことはできた。そのイメージが脳裏にこびりついて・・・・どれだけイマジネーションを洗剤で洗っても落ちない。もう、俺は、劣等感しか想像できなくなっていたんだ。薬漬け・・・幻覚を見る意識・・・・自分が築き上げていたものが崩れていって、その下敷きになって圧迫される。そんな俺を見て、ハルは言うんだ・・・・焦らないで、もう怖がらなくてもいいんだから・・・・大丈夫だから、セナを馬鹿にする人達は首都にいて、涙までその声は届かない・・・・もう、忘れよ・・・・都会で生きた頃は・・・・大丈夫、怖くないから・・・私が、セナを守ってあげるから・・・・ってな。あいつは、そう言い続けた。薬漬けでただでさえ体の震えが止まらないのに・・・・・俺に語りかけるハルの瞳に、鏡のようにうつる自分の姿に俺は、痙攣を起こし、失神した。あまりに変わり果てた醜い自分の姿に絶望した。そう、その姿をもっとも見られたくないと思っていた・・・・人の瞳に映っていたんだから、尚更・・・・だよな」

 セナの言葉は、一瞬、力を失った。しぼみかけた風船のように・・・弱弱しく牢屋の床に落ちた。

 「絵なんて描かなきゃよかったと薬が切れていて狂う俺は、そう叫び続けた。そんな俺を泣きながら、ハルは抱きしめ続けた。薬が欲しくて・・・・・現実から逃げたくて・・・俺を抱きしめるハルを何度殴ったかわからない。それでも、あいつは腐り果てた俺を愛してくれて、優しさを持って抱きしめ続けてくれた。もう大丈夫・・・怖がらなくていいから・・・私が、誰もセナを傷つけさせたりしないから・・・って、あいつは言い続けた」

ぽん太は、なぜかセナの語るハルという女性の顔に、たんぽぽを浮かべてしまう。胸が締め付けられる。

 「どうしようもなかった・・・・俺は。絵しかなかったのに・・・絵を失ったんだかから。絵描きが、絵という冠詞を失ったら、何を描けばいいというんだ。描くものがない。そんな苦しみの果てに、俺は・・・もう絵描きであった自分を忘れようとして・・・過去を消し去ろうとした。俺が、幼少の頃描いた絵は、すべてハルにやっていたから・・・俺は、あいつがガキだった頃の俺の絵を保管していた場所に押し入り、全て火で焼いて燃やしたのさ。何千枚かあった・・・・・俺が描いた全てのものを俺は、この世から消したのさ。どでかい焚き火ができたよ・・・・ハルは、俺を必死に止めた。でも、俺は、絵を焼き続けた。あいつは、俺の絵を灰にしたくなくて、泣き叫びながら火に飛び込もうとした。俺は、ハルを止めた。あいつは、右腕と太ももから膝にかけてただれるほどの火傷をした。女の肌に・・・一生消えない火傷が残った」

セナは、後悔を込めて・・・・火傷・・・・という言葉を呟いた。

 「俺は、あいつにつけた火傷を・・・・自分の目に焼きつけてから・・・・自殺を繰り返すようになった」

 セナは、そこまで語ってから・・・・言葉を見失った。沈黙が続き、二人はそのまま疲労に溺れるようにして眠りについた。



 セナは、自殺しようとする過去の自分の姿を思い出した。死のうとする度に止めに入るハルの叫び声と慌てた動作・・・・握り締めた右手のナイフを力いっぱい奪い取ろうとするハルの握力の強さ。

 「絵を燃やし尽くした・・・・もう絵を描けない・・・・そして、俺は・・・・愛してくれている女の肌に火傷という二度と消えない傷をつけた」

暗闇の中、セナの震える音が聞こえた。そして、セナは、悔やみながら言葉を続けた。

 「何もないんだ・・・・わかるか?何もないんだ・・・・・愛する人を傷つけた後悔以外に」

ぽん太は、そのセナの言葉に何度も肯いた。そして、セナに返す。

 「わかるよ・・・・わかる。何もない・・・・・愛してくれた人を傷つけた手の感触以外、何も・・・・」

 ぽん太は、たんぽぽにつけた傷の数を心の中で数えた。セナは、そんなぽん太に静かに語った。

 「でもな、ハルはこう言ったんだ・・・・。セナ、あなたの絵は全て燃え果ててしまったかもしれない。あなたの過去を証明するものは何もないとあなたは思うかもしれない。でもね、あなたが描いた絵の一つ一つは、灰になってしまったけど・・・・私の心の中で生きている。私は、その一枚一枚を忘れられないでいる。そして、あなたと過ごした思い出は、私の心にしっかりと刻まれているの・・・・。私を見て・・・私は、あなたの全てを証明できる。あなたの才能も、あなたの過去も、あなたの優しさも、あなたの苦しみも・・・・・あなたの全てが私の中にあるの。全てを失っただなんて思わないで。あなたの全てを、私は今でも忘れることすらできずに覚えているのだから・・・・ってな」

 セナの心の震えが、ぽん太には聞こえた。セナは、ハルさんのもとに戻りたいと思っているのがわかる。そこには・・・・・ハルさんの心の中には、この世の誰も知らないたった二人しかしらない物語があるから・・・・・。その物語を思い出したがるセナの心の衝動が聞こえてきた。

愛しい人・・・・・。それは、金や名声、才能や美貌でもない。一緒に過ごした時間・・・・二人で積み重ねた思い出の中で見つめる大切な存在。生命あるもの未来を生きる使命を背負うとも、過去を共有できる人の少なさに気づく。闘いに果て、疲れ果て、傷つき果て、苦しみながら未来へ向かう生命が一瞬の休息を得る瞬間・・・・それは美しい過去を思い出す時・・・・・その過去を一緒に過ごした人と一緒にいる時。思い出を共有できる人・・・・それは、この世で最も愛しい存在。金や才能、美貌や名声をいくら積み上げても・・・・・思い出のない人を愛せない。そこには共有すべき感情がないから。ぽん太は、セナの心の衝動が、痛いほどわかった。愛は、思い出の積み重ねであり、人生の幸せとは・・・きっと金や名声ではなく、自分が生きてきた道のりを共に歩んだ人との思い出の記憶。

 「ハルは、最後にこう言った。どんな偽物にも惑わされない。だって、あなたが本当の芸術を教えてくれたじゃない。永遠に忘れることのできない優しい筆遣いが・・・・・私の心に残した絵が、私に愛を教えてくれて、私に優しさを教えてくれて、私に思いやりを教えてくれて、私に生きる意味を教えてくれたんだもの。だから・・・・・あなたが絵を描けない現実に絶望するのなら、私はあなたの側に居続ける。だって、私の心には、あなたが描いてくれた絵がいつまでもあるから。あなたが残してくれた絵があるの・・・・・あなたの過去を証明するために、私はあなたの側を離れない・・・・・ってな」

 セナは、深い溜息をついた。重たい溜息だった。

 「・・・・・ふっ・・・・。馬鹿だよな。俺は、あの頃、あいつが言っていた意味がわからなかったんだ。あいつは、俺の過去の証明になろうとしていた。ガキの頃、天才と呼ばれ、ちやほやされてた俺のな。俺が、一番自由だった頃の生き証人になろうとした。俺が、この月面で生きてきた証拠になろうとしていた。でも、俺には過去に意味があるとは思えなかった。未来にしか生存価値はなく、そして未来に生きる価値を失くした絵の描けない絵描きに待っているのは死のみだと思っていた。あいつの言っていることは・・・・訳がわからなかったよ。でも、今は、敗者になってから痛い程わかりすぎる。自分が生きてきた証を覚えていてくれる人の存在を。思い出を分かち合えた人だけが、この世に俺が存在した証明になるからさ。それに・・・・そこには、愛し合った思い出ある・・・・大切で、忘れたくない過去が」

 ぽん太は、あまりにセナの語る言葉に心当たりがありすぎて・・・・・何も返せないでいた。

 「でもな、俺は、自殺を止めようとはしなかった。なぜか、わかるか?俺が、キレイだった思い出を汚したから・・・・・・俺が、真っ白な雪のような思い出を踏みつけて汚したんだ」

セナの言葉が、ぽん太の心に酸味も痛みも渋みも苦しみも伴ってしみてきた。ぽん太は、自問自答する。誰が、真っ白な思い出を汚く真っ黒に踏みにじった?俺だ・・・とぽん太は心の中で呟いた。

 「思い出を失った時・・・・・人は、敗者になる」とセナは、震える声で小さくぽん太に言った。

 ぽん太は、その言葉を聞きながら、静かに涙を流した。どれだけ涙を流しても、その後悔は消えないだろう・・・・・・敗者収容所で流す涙の意味は、有刺鉄線と高いバリケードに囲まれて、伝えたい人のもとまで届かないから・・・・・。


 「俺は、思い出を汚した自分に、愛した人につけた火傷に、絵を描けなくなった自分に、未来を失った自分に耐えられなくなって、田舎を出て・・・・また都会に戻った。そして、また絵を描き始めた・・・・・失い続ける全ての中、何か一つでも取り戻そうと。でも、結果は同じ。何も描けやしない。そして、またドラッグに溺れ、ドラッグを手にするために盗みを繰り返し、死を求め自殺を繰り返す俺は月の警察に逮捕・保護されて・・・・・一蔵先生のところに連れて行かれて薬物依存症のリハビリを受けるようになった。一蔵先生は、厳しいが優しい人だった。お芋ちゃんは思いやりに溢れてた。一蔵先生もお芋ちゃんもハルも・・・・みんな優し過ぎたんだ。火傷させた女の優しさの余韻が俺を狂わせる。何もかもが、俺には重荷になって・・・・。復活のない敗者の俺には与えられる優しさなんて重圧以外の何でもない。だから、俺はハルの元を離れ、一蔵先生のところから抜け出し、また死ねない中途半端な自殺を繰り返した。ボロボロに成り果てやっと覚悟を決めて・・・・いつもより深く右の手首を切れたと思ったら・・・街の片隅の町医者に助けられ、死ねなかった。でも偶然から死亡届を出し、死んだことになっている。死んでるのに今でも生きている・・・・って感じだな。矛盾の塊が俺という存在だよ。そして、辿り着いた先は、敗者収容所だ」

 セナは、長い耳を少し右手で掻きながらそう言った。闇の中でもセナが耳を掻いている姿を、ぽん太の瞳は見た。その姿は、苦しみと自己嫌悪に浸されて味がしみこんだ漬物のようなだった。酸味が効いている。

 「もう『涙』に戻ることもない・・・・」

 セナは、後悔を含んだニュアンスを臭わせた言葉を最後に小さく吐いた。ぽん太は、血液を絵の具にして狂うように長屋の壁に絵を描いていたセナの姿を思った。あの絵の持つ意味が、ぽん太の心の中に広がっていく。ぽん太は、なんとなく何を感じていいのかわからずに、ただ豆電球のコードを力強く握っていた。少し電気が流れた。ぽん太の指先は、軽く感電する。闇が一瞬、姿を消し、セナの姿がフラッシュをたいたレンズ越しの風景のようにしてありありとぽん太の目に焼きついた。豆電球の光は、一瞬で消え、また闇がぽん太の目の前に広がる。でも、ぽん太の網膜にはセナの姿が、光の残像として残った。残像として目に焼きついたセナの姿をぽん太は、観察した。天才画家と呼ばれた男の体中に無数に血の滲んだの斑点が浮き上がっている・・・・注射針の跡。そして、右手首を執拗に何度も切り刻んだ傷の跡。筆を握っていた腕を左手で何度も切り落とそうとしたのだろう・・・・でも、利き腕でない左手は、迷いと恐怖に震え、右手に致命的な深い傷を負わせることはなかった。ぽん太は、右手の残像を儚い思いで見つめ続ける。自分の右肘に少し痛みが走った。ぽん太は、ふと残像の中に光り輝くものを見つけた。指輪だった。セナの痩せ細った右手の薬指に指輪がはめられていた。肉がそぎ落とされた指先に、その指輪は少し大きくなっていた。

 「指輪・・・・」と、ぽん太は呟いた。そのぽん太の言葉に、セナの長い耳がぴくりと動いた。

 「ああ、これか。いつもは、看守や作業監視員、軍人に没収されないように、肛門の奥に突っ込んで隠してるもんだけどな。この牢屋に戻ってきて、眠る前に指にはめるんだ」

 「ハルさんにもらったもの?」と、ぽん太は勘を働かせて訊いた。

 「ああ」とだけセナは言った。深く、重たい肯きだった。



 残像の中の指輪の輝きが、ぽん太の網膜にいつまで残った。背骨を凍らすように寒い外の気温にぽん太は負けて、眠ってしまいそうになる。寝不足が続く。瞼は感受性を失いはじめ、鈍く重たく視界を閉じようとする。ぽん太は、F工場に行く途中に意識を失って倒れこんだ。踏みつけられ汚れて醜い雪の上で、ぽん太は眠った。このまま眠り続ければ凍死する。ぽん太の周りには、凍死した死体が二十体程転がっていた。火力発電所の燃料収集隊がやってくるのをぴくりとも動かずに待っている死体達。ぽん太は、同じ運命を辿ろうとする。ぽん太は、深い眠りの中で、目に焼きついた指輪の輝きの中に吸い込まれた。走馬灯を見る。たんぽぽと初めて会った日・・・・そして、別れた日、あらゆる一瞬が鮮明にぽん太は眠りの中で見た。彼女が最後に残した言葉が、光る。目が潰れてしまうほど、眩しく光った。

 「もう二度と負けないでね・・・・・ぽん太」

 ぽん太は、眠りの闇の中、その言葉の輝きがあまりに眩しくて、目を覚ました。ぽん太は、凍りかけていた鼻水をすすった。鼻の奥まで凍傷にかかっていた。痛い・・・・生きることの痛みを鼻の奥で感じる。なぜ、いつもこんなにも負けてしまいそうになる・・・・・。ぽん太は、黒ずんだ雪の上から起き上がった。F工場に向かって走っていった。遅刻・・・・・。何十発も殴られて、ノルマを上げられないのはわかっていても行かない訳にはいかない。ここで死ねば、全てに負けてしまう。

 「もう負けたくない・・・・これ以上は・・・」

 全速力の吐息に言葉が混じる。ぽん太は、つるつる滑る氷の上を何度も何度も転びながら走った。



 ざわつく労働の汗・・・・太陽の影に隠れた月に漂うただならぬ予感。

 「お前ら、死ね。兵器を作って死ね。ノルマを達成できないものは、この場で殺すぞ」

 工場内に響き渡る切迫した叫び・・・・太陽の重圧が月の裏側まで響き渡る。死にたくない月の人間は、とにかく全ての苦しみや作業を敗者に転嫁し、ただただ叫びまくる。敗者が働かなければ壊れ果ててしまうような月の社会・・・・敗者は無価値のようで、有用。

ぽん太は、今までの20%増しの鎖帷子製造ノルマに喘ぐ。そして、ノルマをつりあげた月の政府の命令の元、過労死する敗者の数は後を絶たない。ぽん太は、今まで以上に働き、今まで以上の残業・・・敗者の死体を回収する火葬の仕事をこなす。削がれていく体力、無理矢理胃に押し込む残飯、限界を超えたレベルでぽん太は闘い続け・・・・・よりタフになる。今まで、自分を支えてくれていた人達の笑顔が・・・苦しい時に、脳裏に浮ぶ・・・・鮮明に。


 黒く醜い塊が膨張し続け、今にも破裂してしまいそうなほど月の民族は焦り始めていた。研ぎ澄まされた緊張感の鋭さに、飛び散る汗が切れていく。

 「もっと死ね、もっと死ね。火力発電所のエネルギーが足りないんだ。死体を燃やせ」

火力発電所を監視・統括する軍人ウサギが吠える。ぽん太は、冥王星のオッサンと一緒に死体を持ち上げては、火に投げ込んだ。

 もう暴動が鎮圧されてからどれ程に時間が流れたかわからないが、ぽん太は、死体を火に投げ込む度に大久保公とお芋の亡骸が無事に焼かれて、煙となってこの収容所から解放されていることを願った。

 「・・・死体の数が多すぎるよ・・・」

 ぽん太は、冥王星のオッサンに小さくて疲れた声で呟いた。

 「・・・異常だな。山と積み上げられた死体は、地獄絵図なんだろうが・・・見慣れた俺の感覚も異常だ」

 オッサンは、疲れた筋肉になんとか力を入れて、死体を担ぎ上げながら、ぽん太に言葉を返した。

 「よく生きてるよね、俺達」と、ぽん太が感慨深げに言うと、オッサンは、少し笑って言った。

 「たいしたもんだよ、お前も俺も。叩かれても叩かれても死なねーゴキブリ並みの生命力さ」

二人は、会話をして心を和ませあう。和ませあわなければ、一瞬で収容所に広がる緊張感に切り刻まれて、死体の山に混ざることになる。

 「最近、寝てる?」とぽん太はオッサンに訊いた。強制労働が今まで以上に厳しくて、睡眠時間はどんどん削られていった。オッサンは、首を横に振った。その頬のこけたオッサンの顔は、疲れきっている。

 ぽん太もオッサンも、小さくため息をついた。二つのため息の音色がシンクロし、重たいメロディーを奏でた。

 「坊主、後百体燃やせば、今日の俺らのノルマは終わりだ。とっとと燃やして、寝ようぜ」

オッサンは、自分を奮い立たせるようにして、ぽん太にそう言った。ぽん太は、肯いた。



 火力発電所の熱気の中で働いた後、外に出るとその温度の差に大抵の敗者は、頭痛と目眩をおこし、身を破壊するような寒気を感じる。ぽん太も、毎日それを感じていた。汚い雪の上を足早に、ふらつきながら収容棟へと戻るぽん太は、ただただ眠りを欲していた。厳しい冬の中、ぽん太の耐える日々は続いていた。


 ぽん太もセナもあらかた自分達のことについて語りきっていた。セナは、一度だけぽん太の話しに大笑いをしたことがあった。ぽん太という名前の由来がたぬきから来ていること。自分に負けゆく日々の中で、太って本当にたぬきみたいになってしまったこと。そして、地球の日本という島に伝わるおとぎ話では、たぬきは、ウサギに懲らしめられて退治される。

 「お前は、本当に面白い奴だなぁー、ぽん太。敗者の癖になぜかお前を微笑ましく思えるのは、そういう何でもないことが大ごとになっちゃうところ・・・・。本当に月までやってきて、本当にウサギに懲らしめられている。ははははっ・・・・・」

 腹を抱えて、ひくひくと震えながらセナの口から漏れる大笑いは、涙と苦しみが滲みついた収容所では耳にしたことのない響きだった。ぽん太は、馬鹿にされながらも、久々に笑い声を聞けて嬉しかった。へへへへへへっ・・・・・・とぽん太は、頭を掻きながら照れながら笑った。


 でも、そんな笑い声ももう聞こえない。


 心臓を握りつぶされるような過酷な労働を強いられ、なんとかタフに生き抜く二人は、牢屋に戻るとすぐに短い睡眠を取る。眠っている時だけ、全てから解放される。眠りほど愛しいものもない・・・・敗者にとって。ぽん太は、激しいいびきをかきながら、死人のような寝顔で深い眠りに身を浸していた。時間は、一瞬で過ぎ、明け方間近。深い眠りの波の後に来る浅い眠りがぽん太の体に波打った時、セナの呟く声が聞こえた。

 「奇跡だ・・・・」

 その言葉を聞いた瞬間、ぽん太のいびきは止まった。奇跡なんて言葉をこの敗者絶滅収容所で聞くとは思わなかった。ぽん太の死体のような寝顔に表情が戻った。ぽん太は、目を覚ました。そして、豆電球の光らない真っ暗闇の中を目を凝らしてセナの呟きの余韻が聞こえるほうを見つめた。暗闇の中、セナの気配を感じた。セナは、壁に目を当て、何かを見ていた。そして、その何かに身を震わせ、セナは泣いていた。涙が、冷たい牢屋の床に零れ落ちて、溜まっていく音が聞こえる。ぽん太は、セナの震える肩を撫でた。なぜか、そうすることで自分もセナも救われるような気がした。セナは、壁から目を離し、ぽん太の気配の方を見つめた。セナが目をつけていた壁の位置から微かな光が小さな牢屋内に差し込んできていた。ぽん太の目ヤニが溢れそうに溜まる視界にもその光は確認できた。

 「なぜ、光が・・・・ここに差し込んでくるの?ここは、巨大な壁に併設された収容棟じゃ・・」

 ぽん太は、その光の意味がわからずにうろたえた。

 「こんなにぶ厚い壁に小さな穴が開いている。この四十二棟の向こう側は、収容所の外の世界。昔、ここが月の罪人を収容していた刑務所だったってのは聞いたことがあるだろう。きっと、ここに閉じ込められた罪人が、外の世界に憧れて、毎夜毎夜、使える道具を全て使って・・・・何十年もかけて外まで続く穴を掘ったんだろう。こんな小さな穴じゃ、脱獄なんてできやしない・・・・・。でも、きっと、そいつは、死ぬ前にもう一度だけ、外の世界が見てみたかったんだと思う・・・・背負いきれない後悔の慰みとして」

 セナは、外から差し込む光を右の掌に当てた。セナの右手が闇に浮かび上がる。

 「でも、このぶ厚い壁の向こうがいくら外の世界だとしても、そこは月の裏側。光は差し込まない世界・・・・」

 ぽん太は、奇跡というものを理解できずにいる。セナは、ぽん太の肩にそっと手を当て、何も言わずに、その光の差し込む方向へ誘導した。ぽん太は、壁の穴に目をつける前に、目をできるだけ擦って目ヤニを落とした。そして、高鳴る心臓の鼓動が小さな牢屋に反響する。

 ぽん太は、壁の小さな小さな穴に目をつけた。壁の向こう、遠く遠くに見える景色・・・・・ぽん太は、一度鼻水をすすって、声をあげて泣いた。そこには、外の世界があった。そして、そこは光輝いている。なぜ・・・・・?外の世界は、一面、真っ白な雪で覆われていた。収容所内で見慣れた踏みつけられた汚く醜い雪じゃない。外の世界に降り注ぎ、積もった真っ白な雪が月の裏側に届くことのない遠く遠く肉眼では観察しえないレベルの小さな星の輝きを吸収し、反射し、小さな穴の向こう側で輝いていた。このぽん太とセナが閉じ込められる小さな牢屋に差し込む光は、この宇宙のどこかで輝く光を白い雪が鏡のように反射したものだった。この暗闇が支配する収容所内で光が存在することすら忘れかけていたぽん太とセナ・・・・。ぽん太は、涙の向こうの景色を見つめ続けた。雪は、降り止まない。真っ白な雪は、更に積もっていく。月に降る雪・・・・・・汚されることなく透明な白さを身に纏う処女雪。真っ暗な世界に雪の結晶のスコールが降る。空から舞い落ちる結晶のスコールは、宇宙のどこかで輝く光を反射し、美しく輝いていた。

 「冷たい世界に広がる美しさ・・・・・」

 ぽん太は、そう呟いた。そして・・・・・結末まで物語りを書ききれないエセ小説家だった敗者は、言葉を続けた。

 「身も心も凍らせてしまうほど厳しい冬が見せる・・・・その冷たさの本質。今まで、冬の寒さに怯えてばかりだった・・・・そして、冬の醜く苦しくつらいところにばかりに意識が傾いていた。この冬の世界が美しいだなんて思ったこともなかった・・・・この世界は、たった一枚の壁の向こうには、こんなにも違う世界が広がっているのか・・・・ただ、それを知らなかったためだけに、俺は・・・今まで、冷たさの本質に気が付かなかったなんて・・・・輝く結晶のスコール、穢れなきバージンスノー・・・・。俺は、今奇跡の光景を目にしてるのか・・・・・」

セナは、ぽん太の震える肩を撫でて言う。

 「この冬の向こうに、春がある」

 ぽん太は、初めて大久保公が残してくれた言葉の真の意味を知ることができた。暗い現実は、降り続ける雪の白さに埋もれていく。地平線まで雪は積もる。遠近感のなかった暗闇を埋めていく雪は、現実の中に奥行きをもたらし、距離感を敗者の中に思い出させた。真っ暗で何も見えなかった。でも、遠近感を取り戻した黒と白のコントラストの果ての果てには、確かに春が待っているような気がした。奇跡が汚されずに空から降り続ける。ぽん太は、収容所に来てから一度も洗っていない歯垢だらけの歯をぐっと食いしばった・・・・・・この冬を越えていく。今まで、自分の生命を支えてきてくれた人達の顔が浮ぶ。報いなければいけない・・・・・死ぬ訳にはいかない・・・・・。強い意志が凍えていた心を燃やし始める。そんな、ぽん太を見てセナは、鼻で笑った。敗者の決意という滑稽さに心が震えた。そして、セナは、静かに自分の右手を見つめて、ぽん太に言った。

 「なぁー、ぽん太。お前の心に絵を描かせて欲しい。俺は、もう一度絵を描くよ」

 絵が描けなくなった天才画家が、ぽん太に向かって柔らかな語調ながらも本気の言葉を心から吐いた。若干、磨いていない歯から臭いにおいが漂ったが、それが逆に生々しかった。ぽん太は、その本気の言葉に静かに肯いた。セナは、暗闇の中でぽん太が肯く気配を感じ、そして、ぽん太の胸に右手の人差し指を当てた。ぽん太の上半身を、セナはキャンバスに見立てる。セナは、恐る恐る震えながら、ぽん太の体を人差し指でなぞり始めた。絵の具もない。筆もない。形にも残らない絵をぽん太の体に描いていく。ぽん太の心臓の鼓動が、セナの人差し指に伝わる。形に残らない筈の絵なのに・・・・ぽん太は、その絵をイメージすることができた。セナは、確かにぽん太の心の中に絵を描いていた。ぽん太の体に残る筆代わりの指がなぞった曲線、セナが絵に込める色使いのイメージ、奥行き、情景描写、そして味わい。ぽん太は、その全てを心で感じていた。


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