㉕
『月蝕の知らせ・・・・・』
地球にも月にも・・・・・田舎に行けば行くほど粋な郵便屋さんがいる。どんな過疎地でも山奥でも雪に埋もれていようとも・・・・遠く離れた愛する人達からの便りを寂しげな世界の果てまで届けてくれる郵便屋さんがいる。真面目な郵便屋さんは、誰かの気持ちを誰かに届けるための責任を一身に背負い、命を掛ける。時に・・・・・切手の貼ってない手紙も届ける。粋な郵便屋さんは、都会に出稼ぎしても金を稼げずに、切手一枚買えない息子の気持ちを田舎の母親に届けてあげるためなら・・・・たまにタダ働きをすることもある・・・・・毒蛇がうろうろしているような山を通り抜けて・・・・生命を賭けて・・・・たった一通にしたためられた想いを届けるために・・・・。そして、ポストに入れる前に自分のお小遣いでその手紙に切手を貼ってあげる。そんな粋な郵便屋さんがいる・・・・・・。
地球からぽん太に手紙が届いた。切手は貼ってあった。ライオンキング七十歳の誕生日記念切手だった。トロからぽん太に宛てた手紙。
「たんぽぽが好きだった・・・・」と告白して気絶してからぽん太は寝込む日々が続く。心はポキポキに折れていた。心の関節という関節が曲がりえない方向に・・・・逆に曲がり、滅茶苦茶になっている。トロからの手紙は、枕元に置かれていたが・・・・・一日の半分以上を昏睡状態で現実からも夢からも幻想からも・・・・あらゆる方向から重圧を受け、疲労困憊のぽん太にとって、目を開けて意識を保つのも難しかった故に・・・手紙の存在を知りえなかった。お芋が、手紙を受け取り、気絶しているのか、眠っているのかわからないぽん太の死んだような顔の横にぶ厚い手紙を置いても、四日間封が切られることはなかった。熱が下がらないぽん太は、体の中で寒気と熱気が渦を巻いていて、その中心に飲み込まれている。その渦が目眩となってぽん太の視界を歪める。喉元に絶えずへばりつく吐き気を剥ぎ取れないでいる嗚咽は、眠りながら嗚咽を繰り返した。
ぽん太は、起き上がれないまま何度か枕元の手紙に手を伸ばしては、送り主の名を呼んだ。
「トロより。・・・・馬鹿で阿呆で腐った敗者ぽん太へ」と書かれていた。
読む気にはなれなかった。封を切った瞬間に溢れ出してきそうな罵声を受け入れる気力がなかった。冗談を冗談と思えない精神力じゃ・・・・たった一文字の文章の誤記でも落ち込んでしまう。敗者のぽん太へ・・・・・と、書かれるところを灰者のぽん太へと書かれてしまえば・・・・、その時点で自分は散りで果てて焼かれ果てた骨の残りかすのような印象を受け・・・それで、1週間以上、悩んでしまうのは目に見えていた。それ以上に、文字に酔いそうな気がした。きっと文字を見たら吐き気を催す・・・・だから、いつまで経ってもぽん太は、うだうだして枕元の手紙の封を切ることはできなかった。
「ぽん太さん。お味噌汁をお持ちしました。少し召し上がってください。ちゃんと体力つけないと。私が好きな言葉の一つは・・・・・体は資本っていう言葉ですよ。頭良くても、才能あっても、体あってのものですから。体を粗末にする奴等にゃ一生成功なんて訪れやしません。体あっての精神であり、心ですから。そして、心を元気にする味噌汁!!!!!じゃーーーん。薩摩地鶏のお味噌汁です!!!!」
お芋は、寝込むぽん太をなんとか励まそうと必死である。そんなお芋の仕草を見て、ぽん太は薄い布団に隠れられるだけ体を被せ、寒さを振り切るようにして薄い口の端に笑いを浮かべる。小さな長屋の部屋に充満する寒さには笑顔が引きつるが、それでもそんなお芋の優しさに感謝できるくらいには成長しているぽん太・・・・・でも、意識は朦朧としていた。目に映る景色は、色彩を失い始め、白と黒が混ざりあい、濃い灰色になっている。一分、一秒時が過ぎれば、白も黒もその色合いを強くし、それが混ざり合った灰色は、どんどん機械的な・・・・強度の強い鉄が持ちうる灰色、いや、銀色に表面の色彩を変えていく・・・・・目にうつる景色が、頑丈なチタンで出来ている。そんな世界に殴られて生きるしかない。頭痛が激しくなる・・・・食欲なんてない。それでも、お芋が作ってくれたスタミナ汁がダシとしてたっぷり入った味噌の香りが、寒気を感じるぽん太の心を温めた。じんましんなのかにきびなのかよくわからないブツブツが体中に出来て、衰弱し切っている寝込むぽん太の上半身を、お芋はお越し、木を彫って作られた手作りのスプーンに薩摩地鶏の味噌汁をすくい、ぽん太の口元に運んだ。。
「少しでいいから召し上がってください。食べないと体は弱るばかりですから。体が弱れば、心はもっと弱っていきます」
唇を湿らせながら味噌汁が体内に滲みこんで来る。お芋は、鳥をふーふーして、冷ましぽん太の口に入れ、顎を押してあげ噛ませてあげた。体の中に少しだけエネルギーが湧き上がる。それは、確かに温かい食べ物が胃に入ったというのが大きな要因だろうが・・・・それ以上に、自分を元気づけるために一生懸命に看病をしてくれるお芋の心の温かさがぽん太の体の中に力を生みだした。力が少しずつ膨れ上がり、そして腹が減ってきた。空腹感を覚えると人は生きていくための闘争本能をその体に思い出す。
「元気になるでしょー。顔色が若干よくなった気がしますもん。この薩摩地鶏は、地球から送ってもらって、裏の山で飼っていたんです。ぽん太さんに元気になってもらうために、今日の朝、私が絞めました」
ぽん太は自分の手で、味噌汁のお椀を持ち、箸を使って口元まで運んだ。唇を震わせながら口を大きく開け、味噌汁を飲んだ。お芋は、ぽん太がゆっくりと具を噛み締める顔を見て、無邪気に笑った。ぽん太は、何から何まで感謝せずにはいられなかった。床に伏せた時に気づく・・・・支えてくれる人の存在の大きさ。精神的に追いつめられ、肉体的に限界の境界線を彷徨っている時に、温かい味噌汁を作ってくれる人がいるのなら・・・・生きていくための闘争心が空腹感とともに腹の奥に湧き上がってくる。ぽん太は、味噌汁をたいらげた。
「ご馳走さまでした」
ぽん太は、両手をしっかりとあわせて、お芋の顔を拝むようにしてその言葉を思いやりを司る天使に伝えた。
「お粗末さまでした」
お芋は、嬉しそうな顔でそう言う。これがお粗末なことがあろうか・・・・とぽん太は温まった心で思う。これが、地球における日本人という元侍達の闘争本能を最も刺激し、生への執着心とともに戦場に向かわせる神聖なる食事。お芋と薩摩地鶏と味噌に救われ、ぽん太は僅かだが闘う気力を回復する。そして、枕元のトロの手紙へと手を伸ばした。手紙を読むには一人がいいだろうとお芋は、気を利かせ、長屋から出て行った。
『ぽん太へ。元気か?って聞いたところで意味ないな・・・・・。きっと生と死の狭間の一番キツイところで悩み苦しんでいるんだと思う。ただ、あまり時間がないことを頭に置いておけ。月のド田舎にいるお前にはわからないかもしれないが、月は少しずつ弱っていっている。それは、あまりに多くの敗者を受け入れたため・・・・財政は破綻をきたしており、数え切れない敗者達はその腐った心からエボラ出血熱のような疫病を健康な心にも伝染させ・・・増え続ける敗北感を月光は浄化しきれなくなっている。そして、敗者を抱え込み過ぎ衰弱していく月を・・・・太陽が潰しにかかるという情報が宇宙空間の中に広がっている。調べてみるとまんざらでもない情報ソースから濃く、辛く、若干甘い味が施された液状の証言が取れる。月の同盟国である水星の我輩の父は、既に月が攻め込まれた時の援軍を派遣するために猫科の猛者どもに臨戦態勢を命じている。父上は、月の滅亡とともにこの宇宙は滅びるとお考えだ。痴呆症に悩む我輩のお爺様、ライオンキングですら時おり太陽と月の関係を気にされ、宇宙滅亡をそのお心に感じ、塞ぎこまれる。水星の軍隊は、死力を尽くして月を守ろうとするが・・・・・渦巻き始めた歴史の流れゆく先は、神とて知りえないだろう。月がどこまで持ちこたえられるかわからない・・・・・。敗者救済に金を注ぎ込み過ぎた月は、財政・軍事防衛費等等がここ数十年赤字で来ている。月は滅びないという太古からの信用力を背景に債券を乱発して、宇宙から借金をし、ここまで持ちこたえてきたが、既に月に返済能力はなく・・・・宇宙全体から見れば、取り扱いの難しい粗大ゴミの敗者をまとめて捨てられる都合のいい星・・・・・そのゴミ処理場を潰させないための援助金のような形で・・・・各惑星は債券・・・貸した金を放棄しようという動きとて出てきている。破綻した財政は、月の民を苦しみはじめて・・・・もう何年になるだろう。十分な防衛が出来ていない部分は、我々水星が補っていたからよいのだが・・・・それとて、水星という一惑星だけで守りきれる規模じゃない。あくまで援軍の形・・・・月の防衛能力が弱まれば、宇宙最強の戦闘集団の我々とて守りきれるかどうかはわからない。今までは、太陽対月と水星の同盟軍の対立の図式は、5:5で抑止力を持っていたが・・・・今は、どう甘甘に見積もっても太陽7:月&水星3だ。抑止の構造は崩れてる。月が弱りゆく時に、太陽は、力を蓄えていた。それでは、なぜ太陽が今まで月に攻め込んでこなかったか・・・・心が宇宙空間より広い肥満の爺さん犬、太陽の主が歴史の怨恨にいつ暴発してもおかしくなかった太陽の民衆の心をなだめていたから。歴史の過ちで・・・・・愛すべき犬達を失い、この宇宙空間で多くのものを失ったことへの・・・反省から、太陽の主は、もう何も失うな!と糖尿病で苦しみながら訴え続けていた。太陽の民、太陽の軍隊は、主に心酔しきっているから・・・・・動こうにも動けなかったが、積年の屈辱を晴らす機会を求めることを忘れはしなかった。しかし、ここに来て太陽の主が危篤状態にあるという噂が流れている。今、情報収集の真っ只中だが、それが本当ならば膨れ上がり今にも爆発しそうな太陽を抑え込むカリスマは遅かれ早かれいなくなる。そうなれば、太陽は間違いなく暴発する・・・・・というのが一般的な考え方
この噂を宇宙で最も恐れている者・・・・それは、月の若き王だ。もう発狂寸前らしい。玉座で叫び続けるらしく、その過激な内容に歴代の月の王の臣下達は恐れおののくらしい。
「敗者を絶滅させろ。はやく、殺せ。あいつらがいるからこの星は、また・・・・太陽に狙われるのだ。あいつらが、この星を腐らせて、弱らせている。今すぐ、敗者を駆除しろ!!!あああ、おぞましい、敗者。あいつらに生きる価値などないのだから。何をためらっておる、お前達。早く、早く敗者を殺して、この星を蘇らせろ」
昔から月の王に仕えた由緒正しき月の英雄家の者達は、必死で浅はかな考えしかもたない若き王を止めようとするが・・・・王に取り入ろうとする若くて欲深いエリート達が若き王に取り入り、敗者撲滅の正当性を、壮大で緻密に虚飾を織り交ぜ、歴史を折り曲げ創り上げた論理で月の民に訴える。奴等は、月の民族の宇宙での優位性を大きく語り、愛と勇気をこの宇宙の暗い部分に投げかけていたその美しき倫理観を称える。そして、いくら慈悲をかけたところで蘇らない敗者を見限る時が来たとエリート達は主張する。大袈裟に語った後、奴等は危機感を煽り始める・・・月の民族という宇宙で最も優秀で愛を持つ尊き民族が、敗者とともに太陽に絶滅させられるかもしれない非常事態に陥っていると。敗者などは、ほっておいても死んで果てるが・・・・月の民族が絶滅すれば、この宇宙で最も尊い遺伝子は永遠に失われる・・・・それは、先祖が積み上げてきたこの星の歴史に背く行為であり・・・・・民族として絶対避けなければならぬ未来だと・・・・・。月の民族の間で、民族主義が膨張していく。さらに、若き王の取り巻き達は、がなる。この先の未来で、どんな困難が待ち受けようとしても・・・・それらは、全て敗者どもがこの星を腐敗させた結果であり、恨むべきは害虫のようにこの星に巣を作った敗者である・・・・・恨むなら、敗者を恨めと・・・・。月の民族の間で、膨張し始めた狂気、民族主義のヒステリーのはけ口を敗者に向かわせ、月の王が今後下す政治判断は神のように完璧であると演出を始めた。間違いがあれば・・・月の民族にとって望まない現実は・・・全て敗者のせいになる。
最後に奴等は、こう論ずる。
「敗者を使い捨ての機械に仕立て・・・・強制労働の末に処分する。そして、武器・防具を大量に作り、太陽の強襲に備える。月の裏側に、敗者絶滅収容所を建設する」
口笛が吹けるか、吹けないか。これが、月での敗者選別方法だ。敗者絶滅収容所に害虫をぶち込む・・・敗者狩りがそろそろ始ってもおかしくない。とにかく口笛を吹けるようになれ。そうすれば、生き延びられる。生き延びられれば、またチャンスはある。月面では敗者は口笛が吹けないような・・・・地球から見たら一種の怪奇現象が、常識として存在する。なんなら、今、口笛を吹いてみろ。吹けない筈だから・・・・・。とにかく、ギリギリのところでいい微かに口笛が吹けるレベルでいい・・・・敗者である自分を乗越え、地球に戻って来い。さもなくば、お前を待っているのは死・・・・だけだぞ。月蝕が始ろうとしている・・・・。我輩も、至急水星に戻らなければならない。水星の王子として月を守るための準備をしなければならない。お前の家族・・・・ホストファミリーの皆さんには、本当にお世話になった。別れるのはつらいが致し方ない。ぽん太が立派になって地球にもどってくること・・・・それを毎週日曜日トロを食べさせてくれたお父さんや、いつも可愛がってくれたお母さん、更には遊んでくれたお前の弟や妹への置き土産にしたいと思っている。だから、言う。もう、二度と負けるな。
p・s お前からも抱え切れない程の恩を受けたな・・・。あの日、平井大橋の下で大トロを食べさせてくれた心の根の優しい男に出会えたことは一生忘れない。ありがとう。
トロことセバスチャン・ダニエル・フレデリクソン八世』
手紙の最後には、朱肉で判が押してあった。見覚えのあるトロの肉球が判子代わりに押してあった。あの夜、眠りに逃げ込もうとしたぽん太を、殴り続けたあの可愛らしい肉球の判を・・・ぽん太は、涙を滲ませながら見つめ続けた。しかし、ぽん太にはトロが書いた手紙の意味がよく把握できなかった。太陽が月に攻め込む・・・・?敗者絶滅収容所・・・・?何か切迫している緊張感は痛い程にぽん太の心に伝わってくる。それでも、その痛みの原因がぽん太にはわからない。ぽん太は、ふと思い出す・・・・。なぜ、月が敗者を復活させる惑星なのか・・・・それすら今まで疑問に思ったことがなかった。月に行けと言われたから月に来た・・・・そして、アレンジされるがままにこの月の田舎で畑仕事をしたりしていた。訳がわからないことが多過ぎて頭の中が、ぼーっとする。薩摩地鶏の味噌汁のお陰で体がぽかぽか温かく、ぼーっとするが体力は少し回復していたので、ぽん太は、布団から抜け出して、長屋を出、お芋のところに足を運んだ。一体、過去に何が起きて、現在・・・何が起きていて、未来に何が起きようとしているのか・・・・・、お芋に聞かなければならないとぽん太は思った。
「ぽん太さん・・・・・・。今まで何も知らずにここまで来ちゃって、それで訳も分からずに言われた通りにこの屋敷にいたんですか?」
「いやぁー・・・・・面目ない」と、ぽん太は頭をぽりぽり掻く。最近、体を洗っていないので、フケがぽん太の指の間から落ちた。
「なにせ、トロに言われた通りに乃木坂トンネルに入ったら、大変なことになっちゃって。ぶっちゃけ、何も知らないまま目の前にある現実に悩んだり、苦しんだり、絶望したり、次々と押し寄せてくる手に負えないもの達にリンチされている間に、こんなところまで来ちゃったのです。なんとなく、自分の周りで起きたことはわかるのですが・・・・でも、真実は知りませんし、過去と現在の相関関係もわからないので・・・未来に何が起こりそうなのかもわかりません。トロが公衆電話で話していた内容から推測できないこともないのですが・・・・トロが地球の言葉を喋ったのもほんの少しの間だけだったので、詳しい事情を聞くまでにはいたりませんでした」
お芋は、てっきりぽん太が何もかもを知っていて、この邸内で苦しみ、敗者である自分から脱皮しようとしているのかと思った。何一つ知らずに・・・・・なぜ、この男は、ここまでして・・・・自分の意識の顔を心の水溜りに押しつけられ、殺意を持って窒息死させようとする自らの運命を無視しようとしないのだろうか・・・・・無視すれば、全てが終わるのに・・・・なぜこの男は、敗者である自分を無視しようとしない。一番、簡単な敗者復活戦・・・・それは、催眠術をかけ、過去を無視し、未来だけを生きるように仕向けること。この月面で復活する敗者の大半はマインドコントロールを受け、過去を忘れた状態で、自らの星へと帰り、新たな人生をスタートする。自分を敗者に仕立てあげた過去を乗越える者は、1%にも満たない。お芋は、常々・・・安易な敗者カウンセリングには疑問を持っていた。だからこそ、一蔵先生の行う原始的かもしれないが、最も苦しい敗者カウンセリングを信じていた。一蔵先生は、そんな感じだから敗者を復活させた報酬など受け取る機会はほとんどない・・・・・・ほぼ、月の政府からの援助金でカウンセリングをしていた。稼ぐカウンセラーは、安易な方法で敗者を復活させ、一時的な敗者脱却状態を作り出す。そんなんで復活した敗者は、すぐにまた敗者に逆戻りし、また月にやってきて・・・・安易なカウンセリングを受けたがる。それで、莫大な金を儲けているカウンセラーがどれ程いるだろうか・・・・。ちなみに、ぽん太を復活させた際の成功報酬は、水星の王子のポケットマネーから出ることになっている。でも、一蔵先生もお芋も、金銭感覚は優れているが、儲けという感覚に乏しかった。
お芋は、呆れた顔でぽん太の間の抜けた表情を見つめた。年下の自分が思うことではないかもしれないが・・・・・この敗者がどうしようもなく愛らしい。お芋は、自分の顔をあくまでも背負いたがる敗者に一言・・・・ぽつりと言った。
「大切なんですね、たんぽぽさんとの思い出」
男は、たった一度でも人生の中で、女に手を挙げた過去があれば、それを死ぬまで後悔するという。それを、後悔しないような男は、男ではなく・・・・・・ウンコ。臭いウンコマン。体たらくでマナーのない飼い主に飼われた犬の道路の端の脱糞・・・・通行人から避けて歩かれ、太陽にチリチリにローストされ、干からびて、ミイラ状態になり・・・・・死すべき、ただ臭くて汚くて哀れで、完全に迷惑以外の何ものでもない無意味な存在。男が女に手を挙げた瞬間に、そいつは男でなくなる。そして、男でなくなった自分を生涯、後悔して生きていくことになる。
ぽん太は、たんぽぽの頬を殴ったことなどない。でも、心のなかでは何度も殴ってしまった・・・・。女性のきめが細かい美しい肌を殴り・・・・浮かび上がった醜い腫れを見て、喜ぶ鬼畜でない限り・・・・男は、その美しい肌を守ろうとする。心の肌も同じこと・・・・。ぽん太は、鬼畜であった頃の自分を思っては、後悔の連鎖に首を絞めつけられ、窒息しそうになる。
男が男であるために・・・・・・守らなければならない美学を失ったものは・・・・・鬼畜。
鬼畜。鬼畜。鬼畜。鬼畜。鬼畜。鬼畜。鬼畜。鬼畜。鬼畜。鬼畜。
耳元で永遠に囁かれるであろうこの言葉の連鎖を乗越えようとする気力と後悔から学んだ見返りを要求しない無償の愛と思いやり・・・・。
鬼畜。鬼畜。鬼畜。鬼畜。鬼畜。鬼畜。鬼畜。鬼畜。鬼畜。鬼畜。
ぽん太は、鬼畜と罵られリンチを受け、男である自分の倫理観を踏み外し、生きながらえることが罪である自分に・・・・・・それでも向き合おうとする。しかも、意識的にではない・・・・・。無意識的に・・・・・罵られる原因を忘れようとしない。それは、今でもぽん太が、たんぽぽを想っている証拠なのだろう。ぽん太の心の中で・・・・弱かった余りに伝えきれていない愛は、今でも消えきれてない・・・・・・。
何も知らなくても・・・・自分が置かれた状況がいかに理不尽で常識を超えていようと・・・・心に引っ掛かる思いはたた一つ。それに、変わりはないから、周りの状況には惑わされない。後悔すべきことはずーーっと変わらずに心の中心に居座っている。お芋は、呆れるほどに無邪気で無知な敗者に、全てを説明した。征水論の話、太陽の私設軍隊を絶滅させた月と水星連合軍の話、月が敗者を復活させるメカニズム、ギロチンから響いた口笛の音色の美しさ、そして現在の月の状況や宇宙空間の状況。まるでおとぎ話。
「おとぎ話ではありません。それが今までの歴史であり、真実です」
お芋は、きっぱりとそう言った。そして、なぜ大久保公が月にやってきたんのか・・・・・?ぽん太は、驚愕した・・・月の主という人の知識の深さと見識眼に・・・・歴史観と執念。
この果ての見えない宇宙の中、地球という星の小さな島国、墓に埋もれていたたった一人の政治家を見つけ出し・・・・敗者カウンセラーとして月に呼び寄せる執念。月が月であるために、最高の人材を宇宙中から集めようとした月の主は、青山霊園の墓石の下に眠っていた大久保公の魂を三顧の礼を持って迎えた。
大久保公は、頑なにその申し出を固辞していたが、自分という厳しさを失った日本という島国が時の流れの中であまりに多くの敗者を生み出していく様を見て・・・・その敗者を誰かが救わねばならぬと思い立ち、申し出を受けた。厳しさを以って敗者に接してやる魂が必要だと思った。
「先生は、毎晩・・・・月の夜空に浮ぶ地球を眺めては、悲しそうな表情をされます。その目は、小さな島国を愛しそうに見つめて・・・頭の中で壊れた夢の修復不可能な部品と部品をなんとかもう一度組み合わせようとして眠れない夜を過ごしてらっしゃる」
お芋は、その幼い顔に悟りきったような表情を浮かべて話を続けた。
「そして、私は大久保公そのものであった明治政府に全てを奪われて敗者となった士族であり、大名だった時代の波の中で飲み込まれた敗者の息子です。そして転落した私の父は、気を狂わせ、侍の象徴であった刀で、私と母を切り殺しました。自分も切腹して果てるつもりだったらしいのですが・・・・自分に刃を向けた時に、怖気づいてしまったそうです。その後は、明治政府を恨みながら狂った乞食に成り果てたらしいのですが・・・・・」
お芋は、そう言って笑えない自分の人生を、くすくすと笑った。よく見れば、お芋の首の付け根に深い刀傷があった。
ぽん太は、何も言えなかった。自分の小ささが恥ずかしい。ぽん太は、日本という島国が、時の流れの中で殴打され、内出血をお越し、血液が凝固し、埋葬もされずに臭いを放ちながら腐っていく死体のようになっていった歴史を思い起こした。
大久保利通というたった一人の男を失ったことで、日本という国は権力と金に溺れた政治家が疫病のウィルスのように増殖し、自らを律することを忘れ・・・・・最後には負けた。そんなこと歴史の教科書には書いてなかったぞ・・・・とぽん太は思った。でも、お芋にそう言われれば、そうかもしれないという気がした。月の主は、永遠ほどに巨大な宇宙空間に存在する小さな島国が敗戦国となった最もたる原因を突き止め、青山霊園にまで足を運び、月が敗戦惑星にならぬよう、また次から次へと生まれてくる敗者達に救いの手を差し伸べてくれるように、墓石の下で眠っていた大久保公の魂に頭を何度も何度も下げたらしい。
「お芋さん。僕は一体どうしたら・・・・敗者から復活できるの?」
あまりに色々なものがこんがらがった目の前の風景が、ぽん太にそう口走らせる。そして切羽が詰った状況であることは、たてた鳥肌が気づいていた。
「とにかく口笛を吹くことです・・・・・」
お芋は、ぽん太の目を見てそう言う。ぽん太は、困り果てる。なぜ、皆、口笛、口笛、口笛と取り憑かれたように言うのだろう。口笛に一体、何の意味があるんだ?ぽん太は、困ってしまう。ぽん太は、口笛を吹いてみる。メロディーなき吐息がすぼめた唇から抜けていくだけ・・・・。冬の窓辺から抜けてくる隙間風見たいな吐息が秋の終わりにぽん太の肺から吐き出された。ぽん太は、遠い目で野球少年だった頃の自分を思い出す。そこにいる過去の自分は、楽しそうに口笛を吹きながら、無邪気に白球を追いかけている。
戸惑うぽん太の青白い表情を見て、お芋は、補足を説明する。
「口笛、口笛って・・・・私も時々、疑問に感じるんですよ。なぜ、口笛なのかって?もっと他にあるんじゃないかって・・・・敗者が復活したことを証明する術が。でも、この星は一度、太陽に負けたんです。そして、幻想の入り込む余地のないほど月面は、何もかもを焼きつくしてしまいそうな熱い現実に支配された。奇跡という奇跡は、熱風の中で溶けてしまったかのようで・・・・・・そこには、絶望しかなかったんです。しかし、その灼熱の絶望の中で、月の主は口笛を吹き、現実の蜃気楼の向こうから奇跡を引きずり出し、負け果てた月面の敗者達の前に希望を投げかけた。その瞬間、再生の女神がこの月面に存在する全ての敗者に微笑んだと言います。その美しき女神の笑顔の余韻の向こうから絶滅寸前まで陥った負け猫達が・・・水星の軍隊が・・・・宇宙最強戦闘集団へと復活して悠々と勇ましくやってきて、灼熱の絶望色の現実を噛みちぎって、奇跡を起こしたんだと言います。だから、この月面において最も尊いものは、奇跡を起こす口笛の音色なのです」
ぽん太は、深いため息をついた。あまりに、滅茶苦茶な話だ・・・・・。でも、これが真実なのだろうと思わざる負えなかった。それ以外に、目の前に差し出された真実はなく、選択肢はない。自分が置かれた状況をそのまま受け入れるしかないのだから、自分に出来る事は。
「ぽん太さん、急ぎましょう」
お芋は、真っ直ぐな眼差しで、ぽん太にそう言った。そして、そのまま続ける、「全てが終ってしまう前に・・・」と。お芋の言葉に、ぽん太は、時間は永遠にあるものではないと言うことを・・・・そんな当たり前のことを改めて悟った。敗者である自分が立ち直るために用意された時間は僅かしかない。それを逃せば・・・・永遠なる敗者どころか、敗者はあっけなくこの世から消し去られる。それが、敗者の辿る運命。




