㉒
夢は見なかった。ただ深い眠りに優しく抱かれ、目覚めた時にはできちゃってるような気すらした。長屋の小さな窓から光が差し込む。ゆっくりと開いた瞼の間の水晶球のような目は、その光を吸い込み、そして反射した。丸一日寝ついていたことがわかった。昨日の早朝と全く変わらない風景が目の前にはあり、普通なら昨日と今日の境目を見失ってもおかしくないが・・・・・ぽん太の体内に体力が波を打っていた。その満ち引きを感じることで、昨日という時を眠りの中で乗越えたんだと悟る。ぽん太は、二度寝をしたいと思うが、その 意志と反して目はさえていて、もう一度寝付けなかった。体がウズウズする。疲れ果てていた体が、どれくらいぶりかはわからないが・・・・動きたがっていた。
眠っている間に掻いた汗が、ぽん太の体内の老廃物を搾り出すようにして皮膚に付着している。毛穴という毛穴が、溜まりに溜まった毒素を吐き出そうとしていた。ぽん太は、そんな汗臭い自分を洗おうと、長屋から出て、井戸へと足を進ませた。外の風は少し冷たかった。秋の匂いが少しだけ鼻につく。ぽん太は、井戸の前で少し震えながら裸になり、水を引き上げ汗を流そうと水を被った。鳥肌が剥げ落ちてしまいそうな程、井戸水は冷たかった。しかし、その皮膚すら剥がれ落ちてしまいそうな感覚が、毛穴に詰った過去から溜まりに溜まった老廃物を搾り出し、流し落とそうとする。ここに来るまで、歩きすぎてひん曲がった猫背が、背筋を伸ばす。ぬるま湯に浸かっているだけの人生ならば、一度として知りえない冷たくかつ清潔な感触が衝撃とともに全身を洗い流す。ぽん太は、完全に眠りから覚めた。
「おはようございます、ぽん太さん」
早起きなお芋が水浴びをするぽん太に手ぬぐいを持ってきてくれた。長屋の中から、いびきが聞こえる。まだ、他の敗者は眠っているのだろう。お芋は、台所で食事の用意をしていたようだった。
ぽん太は、頭を下げて、「おはようございます。お芋さん」と丁寧語で喋った。いたずら好きっぽい少年でも、お芋からは素直な優しさと思いやりを感じることができる。そんな人には、たとえ年下であっても自然と敬語が出てしまう。ぽん太は、お芋から差し出された手ぬぐいで体を拭いた。お芋は、井戸の縁にかけてあったぽん太の浴衣を見る。
「凄い汗びしょびしょですね・・・・・・大丈夫ですか、こんなに汗をかいて・・・・」
お芋は、滝にでも打たれたような量の水分を吸い込むぽん太の浴衣を見て言った。ぽん太は、頭を掻きながら、「大丈夫です。健全な新陳代謝が行われているということですんで・・・・」と返す。
「こりゃ、洗わなきゃ駄目ですね。洗っときます。布団もきっと汗を吸ってますよね。長屋の裏側に布団を干せる場所があるので、気持ち悪かったらそこに干しておいてください。それにしても・・・・もう浴衣ないな。洗濯物は、昨日の夜したから・・・・まだ半渇きだし・・・・。紋付袴が一着あったから、それでいいかな・・・・」
お芋は、始めはぽん太に語りかけていたが、次第にそれは自分への問いかけの独り言となり、全裸でいるぽん太に何を着せるか考え込んだ。
「あ・・・・そういえば、昨日、全部洗濯したんですけど、下着が一枚も見当たらなくて・・・・わたしが失くしてしまったのでしょうか?」
お芋は、思い出した奇妙な現象を口にした。服は全部揃っているのに、下着が一枚もない洗濯物の山。ぽん太は、井戸の脇でフルチンを風に揺らしながら、普通に答えた。
「いや、ノーパンだったんで」
お芋は、そのぽん太の返しに動揺する。やはり子供なのだ・・・・えぐいませた話には、顔を赤らめる。
「・・・・・・な、な、な、・・・・・なんで、またそんなことを・・・・」と、お芋はうろたえるので、ぽん太は、昨日からかわれた分を返してやろうと、ちょっぴり皮をかぶっているあそこをむいて、「大人の事情ってやつですよ」と、にやりと笑った。完全に露出狂の快感に浸ってしまっている。そんな、ぽん太の耳の奥で、子供の頃よく女の子達に歌ってきかせて嫌がられた歌が聞こえてくる。
たんたんタヌキの金玉は、風もないのにぶらぶら♪
ぽん太の陰毛が、そよ風に揺れる。なぜか自信ありげなぽん太をお芋は理解できずに、物置に走り、紋付袴を持って戻ってきた。
「とにかく早く、服を着てください。そういう猥雑な振る舞いは、この邸内では・・・・先生に叱られてしまいます」
お芋は、顔を真っ赤にしてぽん太に紋付袴を渡した。そして、思い立ったようにお芋は、もう一度物置に走り、ふんどしをもってきて、ぽん太に渡した。ぽん太は、真っ赤になってしまった幼いお芋の表情を、「若いな・・・・初々しいぜ、ちくしょう」と爽やかな顔でちらちら見ながら・・・・ふんどしの締め方がわからないので苦労した。なんとか適当にふんどしを巻いて、その上に着方もわからない紋付袴を着た。その着崩れた滅茶苦茶なぽん太の姿は、七五三崩れの子供のようだった。
月についてから少しずつ敗者である自分の劣等感が軽くなってきている気がした。これは、月の大地がもたらすマイナスイオン的効果なのか。平和に見える月の田舎の風景の中で、ぽん太は落ち着きを取り戻し、少しだけ過去を振り返る心の余裕ができた。着慣れない紋付袴を身に纏いながら、長屋の薄い壁に寄り掛かる。煙草を吸いたいと思う。ニコチンを求めて、体が微かに震える。月に来るまでの道のりでは、煙草のことなんて思い出しもしなかったのに・・・・・。それだけ切羽詰っていたということなのだろう。渇いた口に溜まった唾の雫を飲み込む。そうやって煙草を諦めた。それは、今、手に入らないものだということをぽん太の脳は理解し、それに対して神経に忍耐力を働かせる。我慢できる自分に強さを感じる。
部屋には窓から流れ込んできた早朝のひんやりとした風が居座っている。薄い壁の向こうから、隣りの敗者が目を覚まし、まだ起きる時間には早いということを知り、二度寝めには入る布団の動きが聞こえてきた。ぽん太は、ひんやりとした空気を口から吸い込んで、鼻から吐き出した。でっちあげた夢に破れ、猫が喋り、トンネル内で苦しんでいた日々を想った。訳のわからない現実にもみくちゃにされて、ぽん太は少しだけ強くなった気がした。でも、その強さは薄いガラスのように脆いものでしかない。それは、ぽん太にもわかっている。この先どうしていいのか、わからない。先を見つめることができないのなら、また過去に縛られ、押し潰されてしまう。これから自分は何をすべきなのか・・・これがわからなければ、結局何も変わらない。ぽん太は、もう一度ひんやりとした空気を吸い込んだ。そして、少し苦しげなため息を吐き出した。
周りの長屋から敗者が起き出し、井戸で顔を洗っている気配が、自室で壁に寄り掛かりながらあれやこれやと考えを巡らせるぽん太に聞こえてきた。そして、お芋が、ぽん太の部屋の扉を開け、「朝ご飯ですよ。台所の奥の部屋まで来てください」と言った。
台所の奥には、お芋が暮らしている四畳半の畳の部屋があった。そこに丸テーブルが置かれ、ぽん太を含む敗者四人とお芋は、朝ご飯を食べた。献立は、白菜の塩漬けに、サツマイモのお味噌汁に、白米、それに小さな川魚が焼かれて食卓にのっていた。お腹一杯になるほど食べられるわけではなかったが、生きていくだけの最低限の栄養は保証されていた。
ぽん太を含む敗者四人は、黙って、もくもくと箸を動かしていた。静かな食卓だったが、沈黙は敗者に悪い影響を及ぼすと思ったお芋は、明るく敗者一人一人に声を掛け、団らんのある朝ご飯にしようとした。
「いや、ますおさんが育てて下さったこのサツマイモおいしいですね。お味噌汁で頂くのもよかったけど、今度は是非焼き芋にしましょうね!」
「エバートン・林さんは、もう風邪治られました?今年、一号目の風邪引きさんでしたもんね。でも、一回風邪引いちゃえば、後は免疫できるから、この後は安心ですよね」
「うさごろちゃんは、ちゃんと好き嫌いやめてご飯食べないと駄目ですよ。野菜好きなのは、いいことだけど、ちゃーんとお魚も食べないと。体力つけないと口笛とか吹けないですから」
等等、お芋は、一人で喋っている。敗者達は、首を縦にふったり、表情をちょっと変えたりしてお芋の言葉に反応した。ぽん太は、この三人は喋れないのじゃないかと思ったが、そういえば朝ご飯を食べる前に皆、擦れた声で「いただきます」と言っていたのを思い出して、そうではないんだということに気づいた。皆、一様に口数は少なかった。お芋は、彼等から一言でも多く言葉を引き出そうと頑張っていた・・・・・小さな少年なのに、彼が纏うオーラーは大人っぽさに溢れていた。
「あっ、そういえばぽん太さんに、敗者カウンセリングの仕組みを説明してなかったですね。こりゃ、わたくしの不手際。ま、あのカウンセラーの先生毎にやり方は千差万別なんです。この月には、色んな敗者学がありますし、色んな形で研究がなされている。科学的な方法を使う先生もいるし、絵やなんかを書かせて自分を表現し、自分と向き合う方法を使われる先生もいる。本当に色々なんです。ただ、うちの先生は、ややこしいことは一切しないんです。ただひたすら畑仕事をする。これだけです。そして、何か喋りたくなったり、話を聞いて欲しいと思えば、先生の助手である僕にお話していただいてもいいですし、先生にお会いしてもいい。ただ、先生は、厳しさを持って敗者と向き合われるから、中途半端な心持でいくと自己が粉々に崩壊します。自分と本当に向き合うということは、厳しさに向き合うということなんですね。だから、ここでは先生に一度もお会いされることなく他の先生のもとへと移っていってしまう敗者の方も多いです。あっ、一度もということはないか・・・・。皆さん、挨拶はされるので。ただ、一番初めに先生にご挨拶されて、もう二度と会いたくないと思われる敗者さんが多いということですね。厳しさに恐れをなして・・・・・。でも、その厳しさを乗越えたところに、希望があるんですが・・・・・。畑仕事は、色んなことをぽん太さんに教えてくれると思いますよ。それほど、意味が深いものです」
お芋が、ぽん太に敗者カウンセリングの説明をしている間に、他の三人の敗者は、「ご馳走さま」と小さな声で呟き、食器をキレイに台所で洗って、物置から畑仕事の道具を持ち出して、畑へ出て行ってしまった。
ぽん太は、お芋の話を聞いて、暗くなった。畑仕事はいい。でも、大久保公に会うのが怖かった。心臓が、鈍い音を早いテンポで刻む。そして、ぽん太はお芋の口から聞きたくない言葉を聞いた。
「さて、食事も終わったことですし、後片付けをして、先生にご挨拶に行きましょう」
ぽん太は、お芋の声の響きに目まいを感じてしまった。食べた物を戻しそうになる。胃が痛み始めた。
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ぽん太は、着崩れた七五三スタイルの紋付袴の裾を母屋の廊下の上で引きずりながら歩いては、大久保公の部屋へとお芋に案内された。母屋は、ぽん太とお芋の足音以外、何の音もしない幽霊屋敷のような冷たい静けさが広がっていた。しかし、光が建物のあちこちから差し込むので、不気味な感じはしない。ただ、ぽん太は鳥肌をたてた。身震いをした。あまりに厳かな雰囲気が建物の隅々までしみついている。
「失礼します」
お芋は、大久保公の部屋の襖の前で片膝をつき、戸を引いた。
「一蔵先生。お話していましたぽん太さんをお連れしました」
お芋は、そう言いぽん太を部屋の中に引き入れ、そして襖をしめて去っていってしまった。ぽん太は、畳の上に立ちほうける。もっとお芋が、入念に紹介してくれるのかと思って甘えていた。いきなり部屋の中に放り込まれてぽん太は、どうしていいのかわからない。何の準備もできていない。
「お座りください」と言われてから座るのがいいのか、それとも勝手に座ってしまうのがいいのか、考えるが・・・・・その前に、まず自分の名前を名乗っていないことに気づき慌ててぽん太は、名乗った。本名を名乗り、そしてあだ名を名乗った。
「・・・・で、あだ名がぽん太です。皆からはぽん太と呼ばれているので、なんだかあだ名で呼ばれる方がしっくりきます。よろしくお願いします。」
声が震えている。ぽん太は、自分の名を名乗るだけで息が切れた。そして、喉を締め付けられるような思いをしながら、ぽん太は、立ったまま背筋をただし、大久保公に向かって深々と頭を下げた。
しかし、うんともすんとも、何の反応も返ってこなかった。
ぽん太は、部屋に入ってから大久保公のいる辺りを直視できずに、慌てて自己紹介をし、礼をしたため、大久保公がどんな風に部屋の中にいるのかを確認していなかった。
ぽん太は、頭をあげ、恐る恐る前を見つめた。大久保公は、ぽん太に背を向けたまま軒下で、煙草を吸い、一人で床に置いた本を眺めながら、囲碁を打っていた。煙草の香りと碁石を打つ音が目の前にある沈黙をより一層冷たく、情けのないものにしているように思えた。
ぽん太は、どうしていいのかわからないまま・・・・立っているのも無礼だと思い、畳の上で正座をした。
大久保公は、黙ったまま、煙草を吸い、囲碁を打ち続ける。ぽん太は、大久保公の後ろ姿を一瞥したのみで、その後は、正座をしたままずっと畳の上に視線を落としていた。直視するだけの勇気が持てなかった。
大久保公が、こちらを向いてくれて話し掛けてくれるのをぽん太は、待った。ぽん太に、敗者になった経緯や、現状、この先どうすればいいのか、そんなことを話してくれるのを、ぽん太は待った。カウンセリングだし、カウンセラーがあれやこれや聞いてくれなければ、何も語れない。敗者を哀れなものとして扱ってくれて、優しさや同情で包みこんでくれて、勇気を与えてくれるのを待った。
でも、何もなかった。そこに弱き者を自称する青年に向けられる思いやりは、存在していなかった。沈黙だけが憮然と厳しい顔をして敗者を睨みつけている。
ぽん太は、大久保公が何かしら声を発してくれるのを、とにかく待った。どれ程、待ったかはわからない。窒息しそうな気持ちで、差し伸べられる手をぽん太は沈黙に溺れながら求めたが、与えられない。優しさや同情、無償の愛や何気ない言葉を掛けてもらうおうという敗者根性が沁みついた心に響く言葉はない。大久保公は、ただ押し黙ったままだった。ぽん太は、葛藤する。焦る。混乱する。何かを言わなきゃ・・・・・でも、何を言っていいのかわからない。何か、自分は無礼なことをしただろうか。なぜ、一言も声を掛けてもらえない・・・・・。
沈黙の中で焦るぽん太。一つとして言葉が見つからない。うつむき続けている首が痛い。重たい空気が、ぽん太の肩に乗る。見つめ続ける畳の縫い目が通りすがりの通行人のような視線でぽん太を見返す。袴の下、正座した足が痺れてくる。ぽん太は、どうしていいのかわからない。何かを語ろうと声を出そうとするが、言葉にならないまま口を半開きにしては、また閉じるという繰り返し。そして、沈黙の中で痺れ続けて感覚を失い始めている脛が何かを物語っている。痺れなのか、震えなのかわからないが、ぽん太の体が小刻みに揺れる。薄いガラスが心の中で粉々に砕けていく音がする。とてつもない長い時間、ぽん太は畳の上でうなだれていたような気がした。でも、それは、実際は五分も経っていなかった。一秒一秒・・・・・重たくて、苦しい。ぽん太は、負け犬根性が吠え出しそうになるのを必死に抑え込む。足の痺れは、激しくなる一方だった。
なぜ、声を掛けてくれない・・・・・。自己紹介はしたのに・・・・・。会話を切り出して・・・・・。
受身の姿勢は、何も与えられないことを悟ると自分を哀れみ、可哀想に思い始める。すぐに悲劇的になろうとする。そして、無償で何も与えてくれない者を憎みたくもなる。ぽん太は、混乱して、目眩を感じ、吐きそうになった。船酔いに似た感覚が神経中枢に絡みつく。
ぽん太は、痺れる自分に耐え切れずに、無言で部屋を出て長屋に戻ろうとした・・・・・。しかし、痺れた足が動かない。それでも、これ以上、この空間にいられないと諦めの早い負け犬は、尻尾を振って逃げることに必死になる。立てないまま、ぽん太は、自分の体を引きずるようにして、襖を開け、逃げ出した。ぽん太は、急いで襖を閉め、母屋の廊下で足を伸ばした。痺れた足の毛細血管に血液が再び流れ始める。足の痺れが消えていけば消えていくほどに、ぽん太は敗者である自分に痺れ始めた。
一体、何なんだ・・・・・・。どうすりゃいいんだ・・・・・。そんな言葉ばかりが、頭の中で暴れては、脳細胞を破壊していく。頭の中で暴動が起きている。
ぽん太は、長屋に戻り、部屋を仕切る薄い壁に寄り掛かった。何も考えられない。一体、何をどうすればいいのか・・・・・沈黙と面と向かった時の自分の焦りようが、まだ掌に冷たい汗となってしみついている。煙草が吸いたい・・・・・。慰めが欲しいと思った。癒されたかった。でも、長屋の小さな部屋にぽん太を慰めるものなんて何一つない。ぽん太は、苦し紛れに薄い布団を見た。寝てしまえば・・・・全てをやり過ごせる。そんなことを心の中で繰り返し考え続けた。でも、目覚めた時に待っている変わらない現実に向き合える自信がなかった。それでも、ぽん太は布団を敷き始める。そして、全てから逃げるために、まだ昼前の空の下、布団の中に逃げ込んだ。
「目覚めたら、この現実から逃げ出そう。モンキーに乗って、どこかに行ってしまおう」
ぽん太は、天井を見上げながら、自分の心を楽な方に流して、慰めてやる。そうすると、よく眠れる・・・・・今まで、やっていた日課を思い出した。
ぽん太は、夜中に目を覚ました。そして、脱走しようとする。
「どう考えても・・・・これ以上は、無理だ。あの大久保公の前では、俺なんて何もできやしない。逃げるしかないんだ」
ぽん太は、負け犬の遠吠えを心の中で繰り返し、長屋を出て、門まで歩いていこうとした。辺りは、真っ暗で何も見えない。地球であれば月明かりを頼りに闇を歩くのだが、月の夜には何を頼りに外を歩いていいのかわからない。星が見えるような気がしたが、それでもその密度の濃い闇に星の光は飲み込まれていた。
ぽん太は、狭い邸内を彷徨った。手さぐりで色々なものを闇の中で触ると目で見えないだけに不気味で気持ち悪かった。ぽん太は、時に這いつくばり、時にへっぴり腰で、とにかく門を目指した。
闇の中、柔らかいものを触った。その柔らかいものは、温かかった。
「ぽん太さん」
その柔らかいものが、喋った。ぽん太は、へぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ・・・・・と絶叫した。腰を抜かし、悪霊退散と掌を合わせ、念仏を唱えようとした。
「ぽん太さん・・・・。逃げ出しちゃうんですか?」
恐怖のあまり理性を失っていたぽん太は、その声に聞き覚えがあることに気づき、冷静さを取り戻す。
「お芋さん・・・・?」
ぽん太が、聞くと、「いや、お化けです」とお芋は返した。
「ぽん太さんに逃げ出されると、わたくし困ってしまうのですよ・・・・」
お芋は、闇の中でぽん太に向かって語りかけた。それは、本当にほとほと困り果てた声だった。
「カウンセリングが、云々とか言うよりも・・・・もう秋でして、お芋なんかの秋の食物の収穫に人手が欲しいんです。そりゃ、厳しい先生から逃げ出したくなる気持ちもよくわかりますが、とりあえず挨拶はすませたことだし、あとは先生にお会いするかどうかは自由ですし・・・・・とりあえず収穫だけ手伝って頂くことはできないでしょうか?敗者の方とわたしの四人では、いくら頑張っても収穫しきれませんので」
お芋は、申し訳なさそうにぽん太に言った。闇の中で、お芋を触った時のぬくもりがぽん太の掌に残っている。「いやです」とは、言えない。お芋の心の温かさが伝わってくる。言葉では表現できない温度が腰を抜かしたぽん太の体に広がっていく。
ぽん太は、闇の中で小さな男の子に深々と頭を下げた。
「どうぞ、よろしくお願いします」
安易に逃げ出そうとする自分を思いとどまらせてくれたことへの感謝とこれからへの思いを込めて、ぽん太はそう言った。いつも気づいてはいる・・・・逃げ出せば、より苦しむことを。でも、今の目の前にある苦しみから逃げる癖がついている。そしてもっと苦しむ。そこまで踏まえてその癖を指摘してくれる人の大切さに、はっとする。しかも、間接的に・・・・自分で気づくように仕向けてくれる。自分で気づかなきゃ何事も意味がないのもわかっちゃいるけど・・・・・気づかないフリをする癖がついてるから。
ぽん太は、しずしずと長屋に戻って行った。なぜか、逃げ出そうとしていた時よりも周りの景色が見えて、部屋まで一直線に戻ることができた。ぽん太は、布団にもう一度潜った。眠れないまま朝を迎えた。




