⑮
声が枯れるほどに叫び、頭を抱えながら夢の中のトンネルでうずくまるぽん太。目を開けていても、閉じていても、起きていても、寝ていても・・・・・逃げられない。眠りだけは、最後のやすらぎの場所であり、避難所だと思っていた。その避難所すら食われた・・・・。ぽん太は、寝言でも夢の中でも叫ぶのをやめない。喉の奥が切れた。味のない血が、胃に流れ込む・・・・夢の中でも現実の上でも。そして、声が出なくなる・・・・叫べなくなる・・・・もうこの絶望を表現する術は残されてなかった。ぽん太は、しくしく泣いた。最後に発した奇声・・・絶叫の余韻が少しずつトンネル内から消えていく。そして、その後にやってきた夢の沈黙の中で、誰かがぽん太を呼んでいた。その声が、眠りの中の景色を歪めていく。叫び疲れて黙り込んだぽん太は、寝息を立てながら意識なくその歪みの中に自分の記憶を浸した。ぽん太を呼ぶ声が、ホルマリン漬けのぽん太の記憶に絡みつく。
「野球・・・・辞めちゃったんだね・・・」
沈んだたんぽぽの声が、放課後の廊下に小さく響き渡る。退部届けを出して、職員室から出て来たぽん太に、たんぽぽは言った。ぽん太は、苛立つような冷たい視線でたんぽぽを一度睨みつけ、たんぽぽを無視してカバンを肩にかけ、帰っていった。睨みつけられたたんぽぽは、ただ悲しみに暮れた。ぽん太の冷えた視線は、「てめぇーには、関係ないだろ。余計なことに首突っ込むな」と言っていた。たんぽぽは、ぽん太の寂しげな後姿を涙を溜めながら見つめていた。
ぽん太もたんぽぽも中学二年生になっていた。
退部届けを出した後、ぽん太は、使い慣れたグラブもグリップに汗が滲み込んだ金属バットも、土の匂いが落ちないスパイクも・・・・ありとあらゆる全ての野球道具を捨てた。わざわざ、自転車で江東区の夢の島・・・ゴミの島まで捨てに行った。野球には未練を残さないつもりだった。ぽん太は、一年半の中学野球・・・半年の輝かしい時と一年の球拾いを経て、野球に背を向けた。
ボールボーイ時代のぽん太は、その劣等感を教室や部活以外に持ち込むことはなく、いつも明るくてユーモラスで下ネタ大好きの健康な中学生だった。たんぽぽは、ぽん太と一緒にいるのが好きで好きでしょうがなかった。無邪気で優しくて・・・・それで、野球で傷ついているからなのか・・・その傷ついた分だけ人を思いやっていた。でも、退部届けを出した後のぽん太は豹変し、誰とも口を聞かなくなり、冷たい雰囲気をその体に纏い、人を近づけようとしなくなった。
「もうこれ以上、傷つきたくない・・・・・」
ぽん太の表情はそう語り、この世の全てから距離を置こうとしていた。
一日の授業が終わると、無言で席を立ち、誰よりも早く下校していく。そして、ぽん太は、部活の代わりに進学塾に通うようになった。たんぽぽは、一人で下校していくぽん太の後ろ姿をいつも悲しい想いで見送っていた。夕陽に染まるぽん太の無表情の背中は、苦しそうだった。
たんぽぽには、ぽん太にかける言葉が見つからなかった。何を言っていいのか、わからない。どんな言葉もぽん太の傷ついた心を癒すことはできないように思えた。たんぽぽは、思い出す・・・・校庭の端、陸上部の練習から見た野球少年の最後の姿を・・・・・。たんぽぽは、その光景を忘れられずにいる。ぽん太が辞めきれずにすがりついていた野球を辞める理由を見つけてしまった瞬間が瞳に焼きついている。そう、焦げ付いて離れない・・・・・。
ぽん太は、肘を壊してからも野球部に所属し続け、球を拾い続けた。幼い頃から野球しかしてこなかったぽん太は、放課後、グランド以外に足を運ぶ場所を見つけられなかった。ボールボーイに降格し、腐った心を持て余しながら、自分を貶めた野球を憎む。でも、野球のグランドに響き渡る音からぽん太は、離れられずにいた。金属バットが球をはじき返す時の抜けるような音、キャッチャーミットに速球が突き刺さる音、素早いベースランニングの音、そしてグランドに響き渡る掛け声・・・・・。全ての音とともに、ぽん太は育ってきた。ぽん太は、虚ろに首を傾げながらも、それらの音を耳に響かせ、野球が描き出す景色をその瞳に映し続けていた。
たんぽぽは、グランドの隅からぽん太を見つめながら、もう一度ぽん太が輝く日を祈っていた。
「怪我さえなければ・・・・・ぽん太は、超一流の選手になれるのに・・・・神様の馬鹿」
それが、たんぽぽの、校庭の片隅からぽん太を見つめる時に誰の耳にも聞こえない小声で呟く口癖だった。
三年生のレギュラー組が最後の大会をまさかの敗北で終え、予定よりも早く引退した夏休み直前の放課後のグランドでは二年生主体の新チームが練習をしていた。肘さえ壊さなければ新チームのサードのレギュラーは、ぽん太だっただろう。それは、誰の目にも明らかだった。でも、怪我を乗越えられずに、とことん腐ってやる気をなくしているぽん太は、外野で球拾いしながら、「ああ、早く、今日の練習終わらねーかなー」とそれだけをぶつぶつ小声で語る迷惑なチームのお荷物。
ぽん太のいない内野で守備練習が続いていた。しかし、誰一人として三塁手として満足な守備ができるものはいなかった。新チームになってから、サードは一向に固定されなかった。監督は、色んな人間を試したが、誰一人として内野の華である三遊間の一角を守らせるには力不足だった。
「どいつもこいつも下手糞だから、しょうがねーよなーぁ。あああ、早く練習、終わんねーかなー」と、ぽん太は、三遊間を見ては、自分は全く関係ないひとごとのようにレギュラーが固定できない現状を鼻で笑っていた。そして、若干の優越感を心の奥底で密に味わっていた。ぽん太は、脆い三遊間を抜けてくるゴロを拾っては、だるそうにボールを下投げで内野に返してやった。
そんな時だった。監督が、ぽん太を呼んだ。ぽん太は、呼ばれたことに唖然として心から焦った。
「やばい。俺のやる気のなさがチームの士気に関わるとか言って怒られる・・・・あああ、殴られる」
ぽん太は、とっさに緊張感を顔の端々まで広げ、眉毛も目も鼻も口も頬も全てひきつった。球拾いに降格してからぽん太は、監督と話をしていない。一年ぶりに呼ばれたところで・・・・・まともに目を合わせて話が聞けるかどうかも怪しい。
「ああああ、一方的に怒られるのを、目を合わせずにとにかく耐えてりゃいいかな。びんたは、右のほっぺでお願いしたい・・・・左だと力入んなくて痛そうだし・・・・右利きだから・・・・」
そんな程度にぽん太は、考えていた。
ぽん太は、監督の前まで走っていき、帽子を取って、手を後ろで組んで起立した。目は合わせられずに、監督の鼻の辺りを見つめていた。鼻毛が三本ほど出ていたが、笑いを噛み殺した。
「肘の具合はどうだ?」
監督は、ぽん太にそう訊いた。予想していた話と違う。
「・・・・・・・・・・」
ぽん太は、予期せぬ事態に呆然とし、その問いに答えられない。肘の具合・・・・そんなこと、そういえば、ここのところ考えたこともなかった。医者に変形しまくった右肘の骨のレントゲン写真を見せられた後、一生投げられないのかと思っていたから・・・・、また投げられるようになる自分について考えたことがなかった。一年間、投げていない。もしかしたら、治っているかもしれない。でも、投げていないのと同じ期間だけ、ぽん太は練習をしていない。今更何を聞かれたところで、どんな答えも口からは出てこない。しかし、そんな風にしてぽん太が監督に呼び出されていることがチーム内にざわついた空気を生んでいた。同級生は、一軍の練習に参加していた頃のぽん太を思い出す。そして、やる気のない・・・・なぜ存在しているのかも怪しいボール拾いの先輩が、監督から直々に呼ばれているのを見て、一年生達は何事かと思う。
「あのやる気ゼロの早く練習終わんないかなー兄さんが・・・・・何で、監督に呼び出されてんだ」
「怒られてんじゃねー」
一年生達は小声で囁く。その会話に二年生が割って入る。
「あいつは、新入生で入ってきて、肘壊すまでは一軍でやってたんだぜ」と二年生が、一年生に教えてやると・・・皆、唖然とした。
「ええええええ・・・・・あのやる気なし男ちゃんが。一軍・・・・・」
「ああ、都内NO1サードだった三上さんの控えだった」
「嘘・・・・」
「試合にも出てたぜ、たまに。経験積ませるためだっていって」
「げ・・・・・、そんな偉い先輩を俺たち、すげー馬鹿扱いしてきちゃった。やばい。いつ殺されてもおかしくないじゃないっすか」
監督はぽん太を見つめて言った。ぽん太には、三本の鼻毛を気にしている余裕は、もうなかった。
「お前の肘が少しでも良くなっていて、お前が肘を壊す前に見せてくれた守備を、今、サードで見せてくれるのなら、俺はお前をサードで使いたいと思っている」
監督の言葉に、ぽん太の心は震えた。もう一度、野球が出来るのか・・・・・・。また、白球を追えるのか・・・・。チームに必要とされるのか・・・・。もう少しだけ夢が見れるのか・・・・・。忘れてしまっていた感覚が、ぽん太の中に蘇った。ぽん太の心の震えは止まらなかった。野球が好きで好きでたまらなかった頃の気持ちが一瞬の陰りも曇りもなく体中に広がっていく。もう一度、野球を好きになれるのなら、もう一度、野球に夢中になれるのなら・・・・他には何もいらない。ぽん太は、自分の目の前に与えられたチャンスに全てを賭けてみたくなった。ぽん太は、震える心を必死に静める努力をしながら、冷静と情熱の間で、「大丈夫です」と答えた。「サードに入れ」と監督は言った。
ぽん太は一軍の内野守備練習、三塁の守備位置についた。ぽん太が、サードにつく姿を見て、校庭からは微かな歓喜と興奮の声が洩れた。
「おい、ぽん太がサードに入ったぞ」とサッカー部が静かに見つめる。
「ぽんちゃんが、一軍に戻ってるよ」とテニス部の女の子達が静かに騒ぐ。
「おい、見ろよ。腐りに腐ってたあいつが、あの頃の面構えであそこに立ってるぜ」と、バスケ部が開け放した体育館の扉に集まって外の校庭を見つめる。
運動部の連中は、ぽん太が一年前、肘を壊すまでチームの中で最も期待されていた選手の一人だったことを覚えている。教室では、自己嫌悪を隠すために、誰よりも優しく、ひょうきんに振舞っていたぽん太が、本気の面構えでダイヤモンドの中で輝きを取り戻そうとしていた。
たんぽぽは、サードの守備につくぽん太の姿を見て、涙を流しそうになった。手を鼻と口の上に当てる。球拾いを続けながら我慢し続けてきたぽん太の後姿をたんぽぽはずっと見てきた。たんぽぽの胸は高鳴った。どんな神様でもいい。仏様でも、キリスト様でも、アラー様でも・・・・・・神様と崇め奉られる全ての神様達に願いをかけたい。この願いを叶えてくれるのなら・・・・悪魔に処女を捧げてもいいとたんぽぽは思った。たんぽぽは、静かに両腕を組んだ。
「お願いです・・・・ぽん太をもう一度、あの場所に戻して・・・・。そして、あの口笛を響かせて・・・・」
たんぽぽは、胸が張り裂けそうになる。緊張でたんぽぽは動けない。
ぽん太は、サードの守備位置につき、軽くショートの同級生と肩慣らしに二・三球キャッチボールをした。一年の頃からレギュラーに定着していたショートの同級生は、「懐かしいな、お前と三遊間を組むのも。待ってたぜ」と小さくぽん太に声を掛けた。肘は痛まない。それを確認してから、ぽん太は「お願いします」とノックバットを持って待ち構える監督に叫んだ。
時が一瞬止まった気がした。学校中の視線が、伝統ある野球部の練習に注がれる。やる気のない手負いの負け犬になり下がった男の復活を見届けようとする。監督は、強いノックをサードへと打った。低い弾道で、グランドの土を這ってくる白球。ぽん太は、一年前と同じようにそのゴロを捕るべく前へと突っ込んでいく。ショートの同級生が、ぽん太の後ろに回り込みカバーに入る。内野手全員が、その一球のボールに対し、流れるように動き始める。忘れていた感覚がぽん太の体中に蘇る。興奮に体が少し震える。白球が迫り来る緊張感。ぴりぴりと張り詰めた空気。ぽん太は、このサードゴロを処理して、ファーストに投げる自分を頭の中でイメージする。口笛の音色が聞こえてきそうになったその瞬間・・・・・ぽん太は、一瞬違和感を感じた。サードゴロに突っ込む自分とイメージの中の自分の間にズレが生じている。それは、何ミリ・・・いや、何センチ単位のズレ。周りの人間はこのズレに気づいていない。自分に迫り来る白球を前にして、感覚のズレを修正しようとぽん太は必死になる。しかし、体が動かない。野球に無我夢中だった頃のぽん太は、そのサードゴロを処理するのに、もう一歩足が前に出た。でも、その足が出ない。なぜ・・・・・・?ぽん太は、その時、初めて気づいた。自分に迫り来るボールのスピード、そのボールの硬さ、そして、低く強い弾道。自分を目掛けて飛んでくる白球が、ぽん太との距離を縮めれば縮める程、大きくなっていく。そんなにボールが大きく見えたことなんてなかった・・・・。それは、圧倒されてしまう程の威圧感を持っていた。ぽん太は、かつて一度として感じたことのない恐怖心を白球対して抱いた。恐怖心から足がもう一歩前に出ない。感覚のズレの正体は、恐れ・・・・。
「果たして、俺は、この速く強く硬い白球を受け止めることができるのだろうか?」
ぽん太は、野球をやってきて一度として感じたことのない疑問にぶち当たる。それが、ぽん太の恐怖心を更に助長する。白球は、三塁手の守備範囲に鋭く転がってくる。もう手を出さなきゃ取れない。でも、自分への疑問が判断を一瞬遅らせた。でるべき一歩が出ない。感じたことのない恐怖心からか・・・・グラブが球を掴みにいくのがコンマ・数秒遅い。無意識の内に、ぽん太は自分の腰が引けているのを感じた。
「まずい。こんな姿勢じゃ、ゴロを処理できない・・・・腰が高い・・・・」
そう思った瞬間、既に遅かった。ぽん太の股の間を白球は通り抜けていった。それをカバーに入ったショートが逆シングルで裁き、踏ん張りながらファーストへ力を込めて投げた。
ぽん太は立ちすくむ・・・・。一年間、野球をやってこなかった無様な姿がそこにはあった。学校中からため息が洩れる。野球が下手糞だと心の中でさげずんでいた奴等が、ぽん太のトンネルを哀れみの目で見ている。そして、心の中で笑っている。たんぽぽは、ぽん太の股の間を抜けていくボールを見て、神様を心から憎んだ。そして、これからのぽん太を不安に思わずにはいられなかった。
ぽん太の顔には完全なる敗北感が滲み出ている。ぽん太は、呆然とグランドの上で立ちつくしたまま。監督は、元一軍の三塁手に対して残酷な仕打ちをしたことを悔やんだ・・・・。一年練習していなければ、結果は初めからわかっていたのに・・・苦し紛れの決断が、一人の野球少年を粉々に潰してしまったと・・・・唇を噛んだ。野球部の二年生は、あまりに変わり果てたぽん太の姿を胸が締め付けられるような思いで見つめ、ぽん太の過去の栄光を知りえない一年生は・・・・・その下手糞さに唖然とした。
ぽん太は、グランドの上の完全なる敗者だった。
ぽん太は、生きている限り、この敗北感から逃れられないであろうということが、たんぽぽには苦しすぎる程にわかった。
ぽん太は、野球から見放された。肘のせいじゃない・・・・。最後には、迫り来る白球を恐れた自分がグランドにいた。中学校の運動部全員が、哀れみと同情でぽん太の最後の姿を見つめた。ぽん太の震える心は、もう二度と震えなかった。震えることすらないぽん太は、翌日、退部届けを出した。
✍
ぽん太の目は覚めない。終りなきトンネルの中を歩きつかれて倒れこんだアスファルトのベットの上で、ぽん太は夢を見続けている。トンネルの中で、トンネルをした夢を見る。言葉にもできない感情が苦しみとともに思い出される。でも、その単なる自己嫌悪は、軽い擦り傷程度だということをいずれ知る。自分の心に作る傷より、誰かの心を傷つけたことの方が・・・・・いつまでもいつまでも痛い。夢の中のトンネルで、ぽん太を呼ぶ声は消えない。閉鎖された空間に響き渡るその声からぽん太は、離れたがらない。
「ぽん太・・・・・」
過去に囚われる男が聞き続ける幻聴をぽん太は、強くぎゅっと抱きしめる。夢の更に奥に見えるかこの景色がぽん太の背中に爪を立てる。
「ぽん太・・・・、痛いよ・・・・。もう少し優しくして・・・・・」
幼い体が絡み合う。愛を表現する術を知らない子供達が必死になっている。
「ぽん太、好きだよ。愛してるよ・・・・」
幼い少女が悲しみをその胸に響かせながら、傷ついた男の子を愛で癒そうとする。純粋な愛を信じ続けるたんぽぽの瞳に涙が溜まる。何もかもがあまりに悲しい・・・・・。瞼のダムから溢れ出したたんぽぽの苦しみがシーツの上に零れ落ちる。ぽん太は、その涙を拭えない・・・・・。
「ぽん太・・・・。もう怖がらなくていいんだよ。私が側にいるから・・・・。信じていいんだよ。私は、あなたのものだって。私は、あなたを傷つけたりしないから・・・・・」
ぽん太の荒い吐息までを抱きしめるように、たんぽぽはぽん太を抱きしめた。




