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『乃木坂トンネル』


 ぽん太は、青山霊園の中央交差点から乃木坂トンネルへと一歩、一歩、足を進ませた。なぜだか涙が出て来た。理解の範囲を越えた現実が目の前に広がっている。空洞が何もかもわかりかねるものの象徴として不気味に笑っている。深みのない浅はかな穴が挑発的にぽん太に中指を立てる。

 「フアック ユー、アスホール(死ね、肛門野郎)」

 心の中に響く現実からの罵声・・・・・。

 ぽん太は、罵られながら東京の夜空を意味もなく眺めた。六本木の夜に欲望が映し出され、赤坂の空には猥雑さが光り輝いていた。人口多きこの街の空気は、二酸化炭素ばかりが充満し、息苦しく窒息してしまいそうになる。闇を恐れる人間達が電灯を煌々と夜に照らし、夜に内在する夢と幻想を支配しようとする。月明かりが、ネオンに溶かされ、安っぽい輝きが都会を輝かせる。闇を支配できると信じる人間の驕りが東京中にきらめく。木の葉が、風に吹かれ空を舞った。


 「国道413・外堀通り・赤坂」と乃木坂トンネル手前の青色の交通標識には書かれている。ぽん太は、行き先を確認した。トンネルを抜けて辿り着くべきは、赤坂。ぽん太は、唾を一度ごくりと飲み込んだ。赤坂・・・・月ではない。ぽん太は、トンネルへと一歩一歩歩み度に現実的であろうとする。

 「敗者復活戦・・・・・。そんなものが、この世に存在する筈がない。そんな夢を見るだけ無駄なのさ。無意味だ。先には絶望しかない希望を持つことは、破滅を意味するんだ。月への道を歩くわけじゃない。赤坂へと通じる現実的な道を俺は歩くんだ・・・・」

ぽん太は、トンネルの先にある光景を想像した。ぽん太の独り言は、都会の喧騒に掻き消される。

 「トロ・・・」とぽん太は、猫の名を呼ぶ。

 「昨日の朝、お前が喋り、公衆電話で話したことを・・・・俺は、今でも本当に起こったことだとは思えないんだ・・・・。それも、時間が経てば経つほど、ありえない過去の出来事へと形を変えていく。確かに奇跡に触れたような気がしたよ。でも、一日経つと何もかもを信じられなくなるんだ・・・」

 昨日のことですら、本当に起きたことなのか、それともただの作られた嘘だったのかを把握できずに、時の流れに溺れゆく敗者の記憶力。そんな溺れるぽん太を、流れる時間は更に深く飲み込み、更に激しくかき混ぜる。思考は安定性を欠いている。ぽん太は現実的であろうと心掛ける。しかし、一体何が『現実的』という言葉の範疇に入るのかはわからない・・・・・。敗者達の腐った知識と感性では、何が現実的なのか知る由もない・・・・・それなのに、現実的であろうとする、そんな敗者が街に溢れている。そして、その一人であるぽん太もわかった素振りで現実的であろうとした。


 「後、一分」

 ぽん太は、正確に時間を刻むデジタル時計に目をやった。

乃木坂トンネル。銀色の人工屋根に覆われた空洞。穴の中は、オレンジ色のライトで照らされている。穴は緩やかな左カーブを描き、青山と赤坂を繋いでいる。あまりに人工的で深みのないこの穴をぽん太は憎む。山に開いた穴じゃない。山と呼べるほどの山なんて二十三区内には存在していない。道なき場所をどこかに繋ぐために作られたトンネルじゃない。六本木を迂回せずに、青山と赤坂を繋ぐためだけにできた外苑東通りの下に作られた人工トンネル。その穴の形状が、あまりに自分の心に開いた穴と似ている。乃木坂トンネルを見つめるぽん太は苦笑いすらできない。ただ震えるのみ・・・・。


 なぜ、このトンネルが月へと繋がっているのか?それは人類には理解し得ない話。まだまだ人類の周りには意味不明な事象が散乱している。ぽん太の目の前に広がる空間は、大きく、そして空っぽ。

 ぽん太は、乃木坂トンネルに入る一歩手前まで足を運んだ。もう足はふらつかない。いや、ふらつけない。泥酔を覚ます程の緊張感がぽん太を包み込む。目の前のトンネルは、左カーブを切っているため、穴の向こうは見えない。寒くて凍えそうなのに、掌に汗が滲む。ぽん太は、大きな深呼吸と深いため息をついた。三百二十二回目のため息と、たった一回の深呼吸。デジタル時計は、午前三時三十三分を無造作に意味もなく表示した。世の中は、意味の無い事と、意味不明な事で構成されている。意味のあることなんてほとんどない。

ぽん太は、三月三日の午前三時三十三分三十三秒、真っ二つに割り切れない数字の組み合わせを手土産に、乃木坂トンネル内へと右足を一歩踏み出した。その瞬間、自分の影の色が一瞬変わった気がした。でも、それが何色だったか・・・・・・ぽん太は見過ごした。


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