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 鼻血を無様に垂らし流すぽん太の腑抜けた顔を見下ろしながら、トロはぽん太に懐かない理由を語った。

 「お前は、あんまり甘やかすと駄目になる」

 トロが住み着いたあの日のように、ぽん太は馬鹿面でトロの説教を聞きながら、頭を掻いた。頭を掻きながら、風呂に入らずに眠ってしまった自分を思い出した。トロの説教は続いた。

 「お前は、あまりにも気づくのが遅すぎるからさ。何もかもを失ってから、その価値に気づく。その大切さに気づく。だから、お前は敗者なんだ、わかるだろ?野球を失い、愛を失い、あげくの果てにはでっちあげた夢すら失おうとしている。そして、失った後にお前はその大切さにいつも気づくんだ。違うな・・・・。失うという言葉を使うのは、違う。正しくない。本来であれば、野球から逃げ、愛から逃げ、そして今、でっちあげた夢からも逃げようとしている。この言葉の使い方を間違えている限り、お前には何も書けないよ。原稿用紙は、終りなき勘違いで埋め尽くされる。失ったという言葉をお前の心はよく使う。失ったと誰かに責任を転嫁するのは、もうやめた方がいい。誰かがお前から逃げたんじゃない。お前が、全ての大切なものから逃げ出したんだ。失ったように思えるあらゆる全ての事柄は、失ったんではなく、お前に根気がないあまりに、お前が自ら自暴自棄になり投げ捨てたんだ。お前が諦めたんだ。失ったんじゃない。それすら、お前は気づいていない。いや、実は気づいているのか・・・・。だが、その気づいているという事実からも逃げ出そうとしている。無意識は、後悔で汚く汚れているようだけれど、その後悔ですら勘違いだよ。もう二十歳。まだ気づかないのかい?」

 トロは真剣な顔つきでぽん太の腑抜けた顔を見つめた。ぽん太は何一つ言い返せなかった。猫の説教を受け入れなければならない自分が情けない。


 「口笛を吹いてみな?」とトロはぽん太に言った。

 いきなり口笛を吹けと言われて、その行為に何の意味があるのか全くわからないぽん太はしかめっ面をした。全ての事柄に意味を求めてしまうぽん太の顔を、トロは本物の馬鹿を見るような顔で見下ろし、「いいから早く口笛を吹きな」と怒鳴った。

 猫に怒鳴られて、怒られたぽん太は仕方なく口をすぼめ、肺から息を吹き出し、口笛を吹こうとした。しかし、そこには口笛の吹けない自分がいた。

 「あれっ?おかしいな・・・」とぽん太は、頭を掻きながらもう一度口笛を吹こうとしたが、やはり唇の先からメロディーは響かない。肺から吐き出した生ぬるい息は、唇を震わすことを怖がり、メロディーになれないまま、恐る恐る逃げるようにして空気の中に溶けていこうとした。しかし、その吐息は、空気にすら溶け込めず、宙に浮くことすらできずに重力を感じながら畳みの上に無様に力なく落ちた。トロは、その畳の上に死体のように倒れこむ吐息を見つめた。

 「ああ、やっぱりお前は敗者だ。逃げずに闘う気構えを持つものは、たとえどんなに困難な状況に追い込まれようとも希望を捨てることはない。希望の象徴が口笛の音色だということは覚えておいた方がいい。本物の希望を胸に秘める者達は、闘うことの意味を知っているし、闘うことを恐れない。お前は、闘うことすらせずに生きている形ばかりを繕うだけの何もない存在・・・・つまり希望なき敗者だ。生きることは闘うことだってことは覚えておいた方がいい。誰と闘うわけでもなく、死ぬまで終わることのない自分との闘いだってことを」

 トロの言葉がぽん太の心を刻み込む。ぽん太は一瞬反論しようとするが、よく鍛え上げられた日本刀のように切れ味の鋭いトロの言葉の余韻が、反論しようとしたぽん太の呼吸を真っ二つに切った。その日本刀は、ぽん太の心を切り刻むのをやめない。そして、その妖しく輝く刃の背に、ぽん太の心の血飛沫をよく吸い込んだ。切り刻まれた凍らせていた筈の心は、真っ赤な血で染まった。そして、トロの言葉に切り刻まれた後に何も反論できやしない自分の心をぽん太は自己嫌悪というアイスピックを握り締め、砕き始めた。赤く染まる傷ついた氷をどんどん削っては砕いていく。細かい氷の破片が赤い鮮血とともに辺りに飛び散る。ぽん太の張り出した腹には、うまく消化されずに溜まった感情が詰まっていき、より腹を膨らませた。

 トロは、大きなため息をついた。

 「起きな」と、布団の中から出られずにいるぽん太に向かってトロは言った。

 「一体いつまで寝てるつもりなんだ。寝てて何かが変わるのかい?歪んだ運命を捻じ曲げて、あるべき姿に戻す手段は眠りの中の空想の世界にはない。わかってんだろ?起きあがんな。立ち上がって、我輩について来い」

 トロは、部屋の隅に投げ捨てられていたぽん太のウィンドブレーカーを口にくわえ、ぽん太に渡した。ぽん太は、ボロ糞に言われ続け、起き上がらずにはいられなかった。既に、スウェットにジャージ姿。ウィンドブレーカーを羽織れば、近場ならすぐでも行ける。でも、一体トロは自分をどこに連れて行こうとしているのか、ぽん太には皆目検討もつかなかった。ぽん太は、机の中から財布を取り出した。

「テレホンカードは持っているよな?」とトロは訊く。

 ぽん太は、財布を開き、中を見た。確かに一枚テレホンカードは入っていた。携帯電話を持った今、全く不必要なものがよく財布の中に置き去りにされ、取り残され、今の今まで存在しえたものだとぽん太は驚いた。ぽん太は、夢と現実が曖昧に混ざり合う夜明け前の最も深い夜の闇の中で静かにトロに肯いた・・・・確かにテレホンカードは入っているよ、度数少ないけど、と。

月明かりが部屋の窓のカーテンの隙間からぽん太とトロを照らしていた。



 靴の洪水に飲み込まれた家の玄関、トロはぽん太に急いでボロボロのスニーカーを履かせ、玄関の扉を開けさせた。トロは、アパートの廊下を階段の踊り場へ向かって勢いよく走っていく。猫の走る足音が、寝静まったアパートの木霊する。軽やかなステップでとろは階段を勢いよく降りていく。ぽん太は、訳もわからないままぽっちゃりした体を揺らしながら、トロを追いかけて走った。


 一匹と一人は、アパートの外へと出た。夜空がでっかくそこにはあった。そして月明かりが妖しげに柔らかな光を地球に投げかけていた。なんだか、奇跡が起こりそうな夜だった。


 ぽん太は、誰もいない深夜の公道を色々なものを引きずりながら走り、トロの後を追いかけた。走るぽん太の足に、過去が重たく縛りつけられている。過去の過ちから脱走できないようにと鉄球が鎖で足首に巻かれ、囚人のように今までを引きずっているような格好になる。ぽん太は、それでも前を走る猫を追いかけなければならなかった。腕を振る度に、ウィンドブレーカーの擦れる音が夜の風によく響く。身を切る刃物のようなウィンドブレーカーの擦れる音がぽん太の周りの空気に纏わりつく。コンクリートの道路を踏み鳴らすぽん太のスニーカーの靴底が静かな大気に大きく響く。その音が常に、ぽん太の背後から影のようについてくる。誰かに追われているような気がしてならない。でも、それは自分の足音だってことはぽん太は、悔しいくらいわかっている。


 月明かりがぽん太の行く先を照らす・・・・・夜の闇に迷ってしまわないようにと。闇の中の道標である月の光の尊さに、ぽん太は神々しさを感じる。太陽は、あまりに何もかもをありありと照らしすぎる。太陽の下では、隠したいものを隠すことができずに・・・・苦しみが無様に曝け出されてしまう。それに比べると月明かりの下では空間が柔らかい・・・・・。


 トロは、走りに走り、荒川の土手沿いの小道を走った。ぽん太はその後を必死に追いかける。情けない・・・息が切れる。揺れる脂肪が悔しい・・・・。



 荒川の土手沿いの小道をうねうねと入っていった場所に、人類全てから忘れ去られたような小さな公園があった。ぽん太は、長年、この町で暮らしてきたが、この公園があることは知らなかった。ブランコがあるだけの小さな公園。それ以外の遊具は何もない・・・・。同じ場所で揺れることしかできない遊具がぽん太の目の前で、夜の闇を纏い強烈な存在感を示している。月明かりに照らされた意味なき遊具の影が地面には映っていた。その影は、底がない深い沼のように見えた。幻想を彩る月は、さりげなくこの世に真実を知らしめる。


 遊具は、ブランコしかない。だけど、この公園には公衆トイレもないのに、公衆電話だけは、なぜか誇らしげに設置されていた。かろうじて電話線を通じてこの世の誰かとコミュニケーションする術が確保されている・・・・そんな人類から忘れ去られた公園だった。携帯電話社会の中、公衆電話なんか今では誰も使わないのに・・・・・この公園には、意味のないもの、忘れ去られたものが一つずつ誇らしげに飾られていた。


 トロは、公衆電話の電話ボックスの側まで歩いていき、扉を開けるようにぽん太に命じた。ぽん太は、それに素直に従った。そして、トロは神妙な面持ちで、ぽん太が扉を抑える電話ボックスの中に入っていった。ぽん太も続いて入っていく。ぽん太が後手で扉から手を話すと、扉は勢いよく閉まった。そして、二人は月明かりが照らす透明な箱の中、ガラス一枚分ずつ四方を現実から隔離された場所で佇んだ。トロは、電話ボックスの中から夜空に輝く月を、長い髭を撫でつけながら見つめた。

 「あの月に電話線が繋がっているのは、忘れ去られた公園の片隅に設置された公衆電話だけなんだ」とトロは、事の経緯を説明しようとする。

 「何もかもが忘れ去られていく。しかし、その忘れ去られゆくものに、コミュニケーションの手段が残っているのなら・・・・忘れ去られた現実から、この宇宙のどこかに電話を掛けることは不可能じゃない。そうだろ?この世界では完全に孤立しえる事象など何ひとつない。全てが何らかの形で繋がり、絡まり、連鎖しながら、その存在意義を主張している。そう、この忘れ去られた公園の公衆電話が月と繋がる、ここら辺じゃ唯一の電話機だ。誰も、そんな存在意義など気づきもしないけどな。さ、急ごう。テレホンカードをこの電話機に入れてくれ」

 ぽん太は、携帯電話社会の中、存在意義を忘れ去られゆくテレホンカードという存在を財布から取り出し、黄緑色の電話機に入れた。そして、トロが受話器を渡してくれとジェスチャーするので、ぽん太はその通りにしようと受話器を取り、狭いボックスの中で不恰好なまま中腰の姿勢で、トロが持ちやすいように受話器を渡した。

 「我輩の言う番号をプッシュしてくれ」

 ぽん太は、トロに命じられるがままに動こうとする。そして、少し混乱していく。自分が何をやっているのか・・・・、そこにどんな意味があるのかがわからない。一体、何が起ころうとしているのか・・・。トロは、番号を口にし始めた。

 「3・・・・・1415926535 8979323846 26433383279・・・・・・」

 トロは、3と言った瞬間、少し考え込んだ。正確な番号を思い出そうと必死に脳みその置くから数字の羅列の順序を思い出しているようだった。ぽん太は、言われるがままに電話機の番号をプッシュし続けた。二十分以上、押し続けた。終りはなかった。しかし、永遠に続く数字の羅列のどこかはわからないが、途中で電話線がこの世のどこかと繋がる音が、受話器から微かに聞こえてきた。トロは、その音を確認し、一つ呼吸を置き、受話器に向かって話しかけ始めた。

 「もしもし?はいはい。そうそう。我輩は猫である。しかも、水星の王子である」

 受話器の向こう側は、雑音で溢れていた。しかし、確かに電話線がどこかに繋がり、その接触があまりよくないために混線しているような感じで空間が歪んだ雑音が受話器から洩れて、ぽん太の耳にも聞こえてきた。

 「本名と血筋、暗号をお聞かせ願えますか?」

 雑音の向こうから声が聞こえる。

 「セバスチャン・ダニエル・フレデリクソン八世だ。父は、ジェイ・エミム・スパイダーメーン・M・フレデリクソン七世。祖父はライオンキング。ライオンの家系は父方。母は絶世の美猫、小柄で気品溢れるCATSの一族だ。ということで、我輩は、ライオンと猫のハーフである。暗号????暗号は、何だっけかな。敗者復活戦の暗号。うーーーん、冬に埋もれたたんぽぽの綿毛の行方だっけ?」

 トロがそこまで語った後、波が引いていくように雑音が引いていった。

 「ビンゴ。プリンス・セバスチャン」

 受話器の向こうからクリアで聞き取りやすい返事が返ってくる。あの雑音は、暗号を盗聴されないためのセキュリティノイズだと言うことが、後になってぽん太にはわかった。

 トロは、受話器の向こうの誰かと話し始めた。トロのやり取りは、何もかも全てにおいてぽん太が関与できない偶然と必然の混合臭を現実の電話ボックス内に香わせていた。ぽん太は、その臭いが、ただの嘘臭さにしか思えない。嘘臭さが、電話ボックス内に充満し、トロの会話に耳を澄ませながら、鼻をぴくぴくと動かしては臭いをかぐぽん太の嗅覚には、腐った現実の強い臭気が感じられた。胡散臭いとは、こう言う事を言うのかもしれない。胡散の臭いにおいがぽん太の感性の中で、自分の把握する現実と実際に目の前で起こっている現実のズレから香ってくる。猫が受話器を持ち、月にいる誰かと喋ってる・・・・・なんてありえない嘘だ。それでも、トロは話続けた。

 「そういうことだ。うんうん。そうそう。敗者を一名、月に送りたい。地球から月の主の強力な推薦で敗者カウンセリング連盟の特別顧問になった男がいたろう?」

 「ええ、いますよ。ヘビースモーカーで無口な男ですが・・・・・」

 「月の敗者生活域第何区にいる?」

 「ちょっと待ってください、お調べします。えーーーっと、第8083-4649区ですね」

 「あんな静かなところにいるのか。郊外も郊外だな。周りは田んぼだけだろう?」

 「そうですね。ただ、山に囲まれているんですが、その山には敗者カウンセリングをどれほど受けても立ち直れない重度の敗者が、ただ死を待つようにしてひっそりといくつかの群れを形成して自給自足で暮らしていますが・・・・。のどかで平和な場所です」

 「月の首都から高速道路使って、六時間くらいか?」

 「そうですね、それくらいになると思います」

 「そうか・・・・。地球留学においてホームステイ先がなかなか決まらずに橋の下で路頭に迷っていた我輩に最高のもてなしを与えてくれ、温かい家庭に迎え入れてくれた恩人を月に滞在させたい。恩人は、重度の敗者である。特に自己嫌悪が強く、過去の檻に引きこもったままで今を生きようとしない傾向がある。我輩は、この敗者を心から復活させたいのだ。過去を受け止めながら、今を生き、そして未来を目指す男になって欲しい。こいつは、心根は本当に優しい男・・・・ただ、少し根性が足りない。だが、こいつが復活した時、、世界はきっと少し良くなる・・・・そんな風に思わせる男だ。さっき言ったそのカウンセラーに、我輩の恩人を当ててくれるか?明日、地球を出立させる」

 「ラジャーでございます、プリンス・セバスチャン。しかしです・・・・」

 「うん?」

 「最近の月の情勢を御存知ですか?」

 「いや、あまり詳しくはない。地球にいると、どうも宇宙情勢に疎くなる。文明が低いせいで」

 「わたくしは、この星を先祖から預かりました・・・・あの太陽の首都占拠の時に死にましたカワジの息子として、この星の官僚機構の一端を担う一人として、全くもって現在月に蔓延する風潮を好ましくないと思っているのですが・・・・・月の財政を圧迫する敗者達の保護をやめようとする動きが、先年の月の王位継承とともに起こっております。三代目若き月の王は、太陽の動向をとにかく気になさる。敗者を絶滅させ、国家予算を生き残った強き者だけに振り分け、月の軍隊を増強し、太陽からの攻撃に備えたいとのご意向らしいのです。しかし、そのような必要はないのですが・・・・・若き月の王は何もおわかりにならない世間知らずでございまして・・・・。我々は、自衛する最低限の防備だけでいいのです。なぜなら、プリンスのお父様が、宇宙最強の軍隊を統率しながら、太陽の動向を牽制して下さっている。月は、最低限自衛のための備えはできております。しかし、月の若き王は、いずれ水星など猫の気まぐれ惑星は月を裏切るに違いないと怯えてらっしゃいます。宇宙中から次か次へと終わりなく送り込まれてくる役にも立たない敗者の命を抹殺し、強く、優秀な月の民族だけが生き残こればいいという考えを月の若き王はお持ちです。同盟関係などに依存しなくても生き残れる星作り・・・・。優秀な月の民族の優位性を高めていく民族主義に月の情勢は傾きつつあります」

 「うーーーむ。ということは、敗者として送る我輩の恩人がいつ絶滅の危機の中で死んでも仕方のない情勢がそちらでは広がっているということだな?」

 「左様で。王子のお爺様である水星の大御所、ライオンキング様は月の輝きの変化をとても危惧されております。お爺様は、引退いたしました月の主に何度となく苦言をされているようです。月の主も孫に敗者保護の重要性を説くのですが・・・・若き月の王は、聞く耳を持たないのです。甘やかされて育ったせいか、人の話を聞くということ、人を思いやるということを知らない・・・・。そのせいでしょう、本来、月の民族はウサギとしての美しく長い耳を持つのですが、現若き月の王の耳は極端に短く小さいのです。ウサギと言えるかどうか・・・・・・耳が退化し始めております」

 「うーーーーむ。お爺様は、我輩には何もおっしゃられなかったが、そのような気苦労を。しかし、お爺様も最近じゃ、ボケが激しいから、物事の全体像がよーくおわかりにならんのだろう。月の主も最近軽い痴呆症が入り始めたと聞く。ボケ老人が二人、ぐちぐち言ったところで悲しいことにどうんもならんのかもしらんなー。しかし、月の若き王がそんなに世間知らずでは、月と水星の同盟関係もそう長くは続かないかもしれない。そして、この同盟が崩れれば、太陽は一気に敵対する我々を潰しにかかってくるだろう。月の敗者保護政策が、火星や土星や他の星星に理解されることによって、宇宙サミットは、今のところ太陽にも月にも水星にも中立な立場を取っている。この月の敗者保護政策がこの宇宙間におけるお互いがお互いに手を出し合えない抑止力そのもの。そして、バランスが成り立っているというのに・・・・・。他の惑星は、自分達の民族を月が復活させてくれて、元気な姿で故郷に戻ってくる、月の再生作用に恩があるからこそ、太陽を牽制してくれている。その抑止力の上で、我々水星が月を守ることによって全てのバランスが完璧に合致しているのだが・・・・それをわからないのか、三代目の馬鹿月の王は。宇宙王子パーティーで会った時も、あのどら息子ぶりには呆れたが・・・・、月の惑星の王族の一人っ子ではしょうがないのかもしらん・・・・。

ただ、カワジ・ジュニア。それでも我輩の恩人が生き残る術は月に行くことしかないのだ。プライドが高いばっかりにお腹を空かせていた我輩に、愛想をつかさずに大トロまで食べされてくれた地球でたった一人の男だ。心根は大きいこの男から・・・・なんとか敗者の呪縛を解いてやりたい。リスクは承知した。しかし、このままでは、この恩人は生きながらにして死んでいる。たとえ、月の情勢が不安定でも受け入れてはくれまいか?」

 「はっ。それが、我が月の同盟国の王子の願いとあれば」

 「何とか宜しく頼む」

 トロは、ガラスの向こうに見える夜空に輝く月に向かって、受話器を持ったまま深々とお辞儀をした。

 「では、明日、地球時間東経135度の子午線に基づく西暦二千年、三月三日、午前三時三十三分三十三秒。惑星地球の地域ジパング、唯一、歩いて月へと通じる道の扉をお開けしてお待ちしております」

 「頼む。青山霊園の中央交差点から赤坂方面へ通じる道に開いた穴、乃木坂トンネルが月への入口で間違えないな?」

 「間違えございません」

 「本当にありがとう。宜しく頼む」

 「はっ、全て整えて王子の恩人をお迎えいたします」


 長い会話は、終わった。受話器から聞こえる音は、もう電話線がどこにも繋がっていないことを示すツーツーツーツーという機械音だけだった。トロは、考え込んだ顔をしたままぽん太に受話器を渡した。ぽん太は、その受話器を受け取り、元あった場所に戻した。使い切ったテレホンカードが疲れた顔をして細いカード口から出て来た。

 「トロ・・・・水星の王子って?」とぽん太は、恐る恐る聞いてみた。そう言えば、猫パンチの嵐を食らっていた時も、寝ぼけながらに聞いていたが、何度か水星という単語が出てきていたのを思い出した。トロは、ぽん太の問いかけには答えなかった。東の方の空をトロは遠い目で見つめていた。東の方角に薄っすらと太陽の気配をトロは感じていた。まだ夜の闇は重たく辺りを包んでいたが、確かにブランコの影が浅くなっているのを見てとることができる。太陽が月明かりを飲み込めば、トロはもう喋れなくなる。トロは焦るような口調で、ぽん太に語った。

 「いいか?明日の午前三時三十三分三十三秒、お前は乃木坂トンネルを通り抜けて月へ行くんだ。そ・・・・・」

 会話の途中で、トロは人間の言葉を喋らなくなった。語りきれなかった言葉が、「にゃーお」と電話ボックスの中に響く。トロは疲れきった顔をして、ぽん太の前でこの鳴き声しか出せなくなった自分を諦め、口を閉じた。

 現実が東の空からこの地球上に迫り来る感覚が辺りを覆い始めた。ぽん太が、いつも眠りの中で悪夢を見ている時刻。ぽん太は、トロの目を見つめた。トロは何か言いたそうだったが、何も言えない自分の存在を十分理解していた。二人は無言で見つめ合った。ぽん太は少し身震いした。体が冷え切っている。それは、トロも同じようだった。ぽん太は、トロを抱き上げた。そして、ウィンドブレーカーのジッパーを下げ、その中にトロを入れる。そして、家路を目指した。

「とりあえず、帰ってからコタツの電源入れるから、それまで待ってな」とぽん太は、トロに言った。


 荒川の土手の上を、ぽん太は歩いた。もう陽ははっきりと昇り始めていた。ぽん太は、夜の闇の中で、月明かりに照らされた猫が自分に語りかけた言葉を忘れられずにいた。そして、一匹の猫が自分のために必死になって月に電話をしてくれた事実・・・・・。奇跡とは理解し得ないことを言う。しかし、その理解し得ないことが温もりを持った時、氷の張った心の水溜りは少し溶ける。

 「トロ、今日のお前の朝ご飯、甘エビつけとくから。後で、二十四時間スーパーに買いに行くよ」とぽん太がトロに言うと、トロは当然だというような顔をした。ぽん太は、その生意気な猫の頭を撫でた。トロは嫌そうな顔をした。ぽん太は、その嫌そうな顔を見て、少し笑った。


 朝の光を全身に浴びながら、ぽん太は何も生み出せない右手を見つめた。何も掴めない右手がそこにはある。幻想は消え、目の前には現実が待っていた。現実に溶け込めない右手の古傷が、寒さで少し疼いた。


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