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 トロとの出会い。それは荒川の脇での偶然の巡り会い。

 荒川の土手は、まだ幼かったぽん太とたんぽぽが色んな話をし、下校帰りに寄り道したりして、淡く切なく、何にも変えがたい時間を過ごした場所。そんな荒川沿いをぽん太は、休日などすることがなくなると一人ぼーっと歩いた。その暇の潰し方は、ここ何年もずっと変わらない。

話は、約一年前にさかのぼる。その日も、することなくぽん太はぼーっと寒空の下、ダウンジャケットを羽織ながら土手沿いを歩いていた。


 ぽん太は、自販機で買ったホットコーンスープの缶をカイロがわりに両手で握り締め、思い出が洪水のように溢れる場所に飲み込まれないように土手の上を、何を思うでもなくのんびり歩いていた。吐く息は白く、見上げた空は高層ビルがない下町だけにどでかかった。荒川はいつ来ても引きこもりがちな心に解放感を与えてくれた。ぽん太は、ホットコーンスープの缶を開け、そして口に含んだ。ちゃんと振らずに開けたから、粒粒コーンは缶の底に沈んだまま、スープの薄い上ばみ液だけが温かさを持って胃の中に流れ込んだ。ぽん太は、目をつぶり、大きく手を広げてストレッチしながら、耳を澄ませた。東京湾から吹いてくる風の音がぽん太の聴覚に響いた。

 「にゃーお」

 風の音の中に、幼く弱弱しい声が混ざっていた。小さな小さな・・・生まれたての猫の泣き声のように聞こえた。ぽん太は、急いで目を開け、辺りを見回した。でも、どこにも子猫の姿など見当たらなかった。何かの思い違いだと思い、ぽん太はその鳴き声を探すのをやめた。

 「にゃーお」

 思い違いだと思った瞬間、また小さな子猫の鳴き声が聞こえた。辺りを見渡す。土手の上で、シベリアンハスキーを散歩させているイカツイおっさんも、歩いているような速度でダイエットランニングする太ったオバサンもその鳴き声には気づいていない。どうやら、その鳴き声に気づいているのは、ぽん太だけのようだった。空を見れば、太陽が沈みかけていた。その鳴き声は、ぽん太の耳の周りで鳴き続けた。どこにいるのかはわからない。でも、その子猫の鳴き声が聞こえてくる方角は検討がついた。平井大橋の下からだった。平井大橋の下は、ぽん太が近づかないようにしていた場所だった。そこは、ぽん太とたんぽぽが初めてキスをした思い出の場所・・・・・、その場に行けば思い出の川が溢れ出し、そこに溺れてしまうのは間違いがなかった。

 「にゃーお」

 その鳴き声は、どう考えても自分に向けられているものだということをぽん太は悟った。弱弱しく、お腹を空かせた子猫の鳴き声は、自分以外の誰にも聞こえていないとぽん太は土手の上を見回して感じ取った。ぽん太は、仕方なく近寄らないようにしていた平井大橋の下へと足を進ませた。上を走る車のエンジン音がよく橋の下まで響いてくる。夕陽の向こうに新小岩の駅周りのネオンが輝き始める。ぽん太は、恐る恐る思い出の場所へと足を進ませる。そして、確かに平井大橋の思い出の場所に、生まれたての小さなチャトラ子猫が捨てられているのを見つけた。

 「にゃーお」

 チャトラ子猫はあまりに無邪気すぎるほど無邪気に、辺りに生える雑草と戯れていた。自分の状況をよくわかっていないような鳴き声は、嬉しさを表現しているのか、悲しさを表現しているのか、ぽん太にはわからなかった。それでも、捨て猫といえば悲運がつきまとう。ぽん太は、悲しい目で子猫を見つめた。でも、子猫は遊ぶのをやめようとしない。ぽん太の同情の視線など気にせずに無邪気に遊びまくる子猫の姿は、まるで「けっ、悲運。そんなもん、どうってことないぜ」と主張しているかのようだった。何も知らない幼い命は怖いもの知らずなんだな・・・・と、ぽん太は更に子猫を哀れんだ。そして、ぽん太は、その子猫を見て、直感的に生まれついてプライドの高い猫であることを見抜いた。その遊び回る小さな体からは、下手に出るという行為が見受けられなかった。

 ぽん太は、こういう猫が一番・・・・・生き残れないと思った。媚を売ったり、ごろにゃーんと愛想を振りまいたり、飼われて生きていく術を知らない猫達は、過酷な野良猫競争社会と劣悪な人間文明社会の狭間で死んでいく。

 ぽん太は、同情の目を子猫に向けた、しかし、その黄金の毛皮に身を包んだチャトラ子猫は、自分を見つめるぽん太の視線の中に、同情心を見て取るやいやな、地面に向かって唾を吐いた。

 「同情?はっ?なめんな。同情なんざ、超不必要」と泥の上の唾には書かれていた。

 チャトラ子猫のこの一連の唾吐き行為は、この地球上に蔓延する浅はかな同情心の存在意義を完全に否定した。ぽん太は、今までの人生の中で同情心に唾を吐きかける子猫を見たことがなかった。そんな子猫がちょっとカッコイイと思った。吐き捨てた唾の中には少し痰が混じり、粘り気が強いことは一目見ただけでわかった。

 誰もが同情を求めて、哀れなふりをする現代社会。同じ感情を持ち得ないからこそ、悲しげに振舞う生命郡の中で、皆、同じ感情―同情を求め続ける。それを否定する思い出の場所でぽん太を見つめる子猫の強さが、胃にくる。自分に思い当たる節がたくさんあって、思わず激しい神経性の胃痛が腹の奥を襲い、ぽん太は嗚咽した。


 ぽん太は、衝撃を受け、唖然としながらも、そのチャトラ子猫を捕まえようとした。誇りが高いのはいいことだけれども、それじゃあ飯は食えないと、ぽん太は人間的な勘を働かせながら子猫が怖がらないようにそっとそっと近づいていった。

媚を売って、飯を貰う。

 それが生き物のあるべき姿。この子猫を保護してやらなければ・・・・野垂れ死んでしまう。ぽん太は、浅はかな同情心を捨てきれずに子猫に手を伸ばした。しかし、子猫はぽん太から一歩身を引いて、捕まらなかった。そして、素早く逃げた。ぽん太は、追いかけた。逃げ回るその小さな子猫の体は、「けっ、誰がお前ん家みたいな下町のボロアパートで、同情されながらホームステイするかよ。どうせお前ら一般庶民にゃ、我輩の生き様はわかる由もない」と言わんばかりのツンとした動きをした。

 ぽん太は、素早く逃げ回る子猫を捕まえるのを一時諦めた。

 家に帰り、懐中電灯を引っ張りだし、机の引き出しから一万円を取り出し、ポケットの中に突っ込んだ。そして、スーパーに向けて自転車を飛ばした。

 大学一年生のぽん太。芝浦のレストランでウェイターをして稼いだなけなしのバイト代を払って、冷凍のマグロの赤身を買った。それを持って、真っ暗な平井大橋の下へと戻り、子猫の前にスーパーのチラシの上にマグロをのっけて差し出した。しかし、子猫は、冷凍ものの赤身には見向きもしない。終いには、目の前に差し出された安いマグロに子猫は、砂をかけた。ぽん太は衝撃を受けた。

 この猫は、同情心から自分を下に見られるのがとにかく嫌なんだということが、あまりに鮮明に、強烈に、役に立たないぽん太の第六感に突き刺さった。

 ぽん太は、苦笑いをしながら、あやうく閉まりかけていた魚屋まで猛ダッシュで自転車を漕いで、中トロを買った。そして、急いで橋の下まで戻り、懐中電灯で辺りを照らしながら、子猫の居場所を探した。そして、見つけると今度は中トロを差し出した。子猫は、その中トロのにおいを小さな鼻で嗅ぎ、そして口に入れはしたが、二・三口噛んだ後、ぺっと吐き出した。ぽん太は絶句する・・・・・「中トロでも駄目なのか・・・・」と。

 ぽん太は平井大橋の下、思い出の場所に捨てられた誇り高き子猫に心の全てを奪われた。そして、また自転車を漕いで走り出した。ぽん太は訳もわからず、父親がたまに行く地元で一番旨い鮨屋の暖簾をくぐり、持ち帰りで大トロを四貫頼んだ。「さび抜きで」と最後に付け加えた。

「へい、お待ち」という掛け声に、ぽん太はお勘定を払い、また自転車に跨り、荒川の土手を目指した。平井大橋と商店街を何度か自転車で往復しただけで、ぽん太の息は切れる。野球を辞めて、運動を辞めて、あの頃の絞り込んだ体の面影はどこにも残らない・・・・ただのデブになってしまっている。月夜に下、大粒の汗が、ふっくらしたぽん太の頬の上を流れ落ちる。


 ぽん太は、思い出の場所で特上の大トロ握りのシャリの部分からネタを取って、子猫の前に差し出した。子猫は一瞬の間を置いて・・・・旨そうにお土産の包みの中の大トロを食べた。ぽん太は、その子猫が大トロを食べる姿を懐中電灯で照らしながら、自分は残ったシャリの部分を口に入れた。とろとろの大トロを食べ終えた後、子猫は恥ずかしそうにぽん太の方を見た。

「これぞ、王子様をもてなす最上級の誠意。ありがとう。お陰で空いてたお腹が一杯になったよ」と言いたげな顔だった。

 ぽん太は、心を許したかに見えた子猫を抱き上げようとした。が、子猫はぽん太に抱かれない。子猫の持つあまりに強い自尊心の前ではぽん太は成す術がなかった。

「とりあえず、食うもんは食わせた・・・・・逃げ回るのなら、これ以上、俺ができることはないよ」

 ぽん太は、そう子猫に語りかけた。そして、ぽん太は子猫救出を諦めて、家に帰ろうとした。すると、子猫は自転車のカゴにひょいっと飛びのった。

 「なんだ、一体・・・・」と、ぽん太はカゴの中の子猫の意図を汲み取れず、頭を掻いた。カゴから下ろそうとすると、子猫はぽん太の手を引っ掻こうとする。

 「もう、訳わかんないや・・・・」と、ぽん太は呟きながら、とりあえず子猫をのせたまま自転車を走らせた。満月が荒川の土手の上に出ていた。その月明かりが、チャトラ子猫が纏う黄金の毛皮を照らしていた。


 ぽん太は、アパートの自転車置き場に自分の自転車を突っ込んだ。それと同時に子猫は、カゴから飛び降りた。ぽん太は、頭を掻きながら自転車置き場を背にし歩き始めた。子猫は、ぽん太の脇を歩き、ついて来る

 「どうせ猫特有のただの気まぐれだろう・・・」とぽん太はたかをくくった。が、しかし子猫は一向にぽん太の側から離れる気配がない。そして、階段を上り、ぽん太が自分の家の玄関を開けた時、子猫は真っ先に家に入り、リビングに足を進ませ、一番ふかふかの座布団の上に座り、いきなり眠り始めた。ぽん太は、また頭を掻いた。「参ったな・・・・・」と呟き、トイレで用を足していた母親がリビングに戻ってきて子猫を見つけた時、ぽん太はしどろもどろになってありえないような事の経緯を説明した。


 そのようにして水星の王子のホームステイ先は決まった。拾われるのではなく、自分から住みたい場所を選んだ王子様。

 ただ、ぽん太の家に住み着いてからも、王子様はぽん太には懐かなかった。どんなに可愛がろうとしても、チャトラ子猫はぽん太を無視する。ぽん太以外の家族にはよく懐き、憎たらしいほどに可愛がられた。サラリーマン生活に疲れ果て、ストレスが中年太りした腹にドロドロと溜まる父親は、その子猫と遊んでいる時が人生で最もリラックスできる瞬間であるかのような顔で微笑んだ。父親は、子猫があまりに可愛くて仕方がないらしく、休みになると鮨屋に足を運び大トロを買ってくるようになった。子猫の分際で生意気にトロの味を知ったかのような顔をし、感じ入った表情で食べる生意気な仕草がたまらなく父親には可愛いらしい。

 「この生意気な顔見てると、スカーッとする」と父は酒を飲みながら、顔を真っ赤にして喜ぶ。トロが好きだから、子猫の名前も『トロ』になった。


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