①
この大地に奇跡なんて存在しない
しかし、それはほんの気まぐれ的な確立で
月明かりがプレゼントしてくれることがある
敗者復活戦を望むあなたの寝言より
『おとぎ話・・・・・』
幼いたぬきは、かちかち山の絵本を読みながら口笛を吹いていました。時々、たぬきをこらしめるウサギのやり方があまりに非道徳的なので、心苦しくて泣いてしまいました。
「罠にかけられてたぬき汁にされちゃうのなら・・・・やっぱりおいらもお婆さんを騙して殺っちまうよな」と紅葉のはえる秋の野山でぽつりと呟きました。
幼いたぬきは、田んぼの合間を流れる透明に澄んだ小川の水で顔を洗いました。冷たい水は、頬に伝う涙の跡を流しました。そして、幼いたぬきはぽっちゃりしたお腹を揺らしながら、口笛を吹きながら田舎町の野原を歩いて家に帰って行きました。
ちょうどたんぽぽを育てるお花屋さんのビニールハウスの横を通りがかった時に夜がやってきました。たぬきは、夜空を見上げました。そこには白く妖しげに光る月がありました。
月ではウサギが餅をついていて、餅に絡ませるであろうおいしそうなきな粉の匂いが地球にいるたぬきのくいしんぼうな食欲まで届いてきました。たぬきは、月を見てお腹が空いてしまいました。幼いたぬきは、100万本のたんぽぽが咲くビニールハウスに目をやりました。黄色く美しく咲くたんぽぽはとても美味しそうでした。
「ああ、お腹空いたな・・・・・」
幼いたぬきは、まだまだ世間知らずでビニールハウスにはたぬき避けの罠が仕掛けられていることを知りません。空腹に絶えかねてビニールハウスを噛んで破り、たんぽぽが満開に咲く温かい、作られた春の中に侵入し、あたりかまわずおいしいたんぽぽを食べてしまいました。そして、ちょうどお腹一杯になった時でした。たんぽぽ畑に埋められていた罠に掛かりました。右の前足の関節部分を鋭い鉄の歯で挟まれました。幼いたぬきは傷口から血を流し続けました。罠が食い込んでいるため傷口が塞がることはありません。
「痛いよぉー、痛いよぉー」とたぬきは泣き続けました。でも、誰もたぬきの下にやって来ません。ビニールハウスを持つ農家の人も来ません。
かちかち山を読んで影響を受けたたぬきは、たぬき汁やたぬき蕎麦にされてしまうことを恐れました。たんぽぽ畑を荒らした罰として殺されてしまうと思いました。でも、誰もたぬきの下にはやって来ません。ただ、鋭い鉄の罠の歯がたぬきの前足に噛み続けるだけでした。自分で破いたビニールハウスの穴から冷たい空気が流れ込んできました。どれくらいの身動きが取れないでいるのか、たぬきにはその時間を思い出すことができませんでした。それは長い時間の筈でした。なぜなら秋は終り、冬がやって来ていたのですから。幼いたぬきは痩せ続けました。
「痛いよぉー、痛いよぉー」と泣き続けました。
「ごめんなさい。美しいたんぽぽを食べたりして。ごめんなさい」と、たぬきは食べ散らかしたたんぽぽの残骸に謝り続けました。でも、もうどうにもなりません。今更、赦しを求めたところで美しく咲いたたんぽぽは無残に噛みちぎられ、枯れてしまったのだから。外には雪が降り始めました。
幼いたぬきは、夜空を見上げました。そこには月が光っていました。月は、たぬきをこらしめるウサギの星です。でも、たぬきにはウサギ以外に自分を救ってくれる者はいないような気がしました。
「ウサギさん、助けて・・・・・」と罠にかかった幼いたぬきは月に向かって救いを求めました・・・・とさ。
『敗者の右手』
「負けないで・・・・」
その言葉が心に響き続ける。もう幾つの冬がぽん太の周りにやってきては、過ぎていっただろう。でも、季節の移り変わりを感じることもなくなった。終わりのない冬だけがぽん太に寄り添う。ぽん太は凍えながら、心に響く声が冷えて死んでしまわないように抱きしめる。たんぽぽが最後に残していった言葉・・・・それだけは失うわけにはいかなかった。
たんぽぽが涙を流しながらぽん太に語りかけた透明な言葉が雨粒となってぽん太の心の水溜りに零れ落ちる。そして、その言葉はぽん太の心に波紋を広げる。
「負けないで・・・・」
その言葉を思い出すたびに広がる心の水溜りの波紋を後悔とともに感じる。そして、苦しみのあまりぽん太は、終わりのない冬に心の水溜りを凍らせる。霜の張った心のまま、何も感じない努力を生きていく励みにしようとするぽん太の姿は、死して尚も成仏できない霊魂のようだった。自分の気持から目をそらし、現実を見てみないフリをすれば、何もかもがうまくいく気がするのに・・・・それじゃ何もうまくいかないことでぽん太は苦しむ。二度と戻れない過去の青い空を灰色の雨雲が覆い、今という時に寂しくて冷たい雨を降らせる。
氷の膜が張るぽん太の心の水溜りに雨が降る。心を切り裂くほど冷たい空気の中で降り続けるその雨は雪に変わろうとはしない。雪に変わりきれない何かが雨粒の中に含まれている。雪にならない雨は温かさと冷たさをその雫の中に持ち、ぽん太の凍らせた心に降り続ける。雨粒の持つ微妙な温度が霜の張ったぽん太の心を溶かしていく。雨に濡れながらぽん太は溶けていく自分の心の水溜りを見つめる。その水面にうつしだされるのは、敗北感。ぽん太は、冬の雨に震えながら、自分の心を直視できずに、溶けるたびに再び心を凍らせる努力をした。でも、雨は降り止まない。溶けては、凍らせ、また溶けていく・・・・・そんな繰り返しだった。
✍
メンソールの味が凍える心の霜焼けに沁みる。煙草を吸うぽん太の指は震え続ける。気づけば、カチカチ山のたぬきのように太ってしまった体が何もかもを物語る。そう、自分はもう終わった・・・敗者なのだと。このまま増え続けるであろう脂肪に飲み込まれ、窒息死する夢をぽん太はよく見た。煙草の煙を肺から吐き出すついでに口笛を吹いてみようとぽん太は思った。でも、丸めた口先からは煙草の煙が排気ガスのように冬の寒空に溶けていくだけで、そこにぽん太の口笛の音色は広がらない。かすれる吐息が馬鹿げた現実を再認識するかのように荒れた唇をこすりつける。
ぽん太は、自分を鼻で笑う。
ああああ、俺は終わってる・・・・・口笛が吹けなくなってからどれくらいの時が経っただろうと。ぽん太は、過去に置き忘れてしまった何かを遠い目で今という時の中で探す。今という瞬間には何もかもが欠落しているように思える。そして、ぽん太の醜く成り果てた体は、今という時の中で体温を失っていく。
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西暦二千年三月三日の午前二時五十八分。二十世紀が少しずつこの世から消えていく過程の中で、時間と言う観念に苦しめられ続けるぽん太は、喉の奥の気管支の根元で、「時間なんて糞だ」と呟いた。声にして呟くわけじゃない。なぜだか声には出せない。出してしまえば、また負ける気がした、過去に苦しみ続け、その過去が一秒一秒自分から遠ざかっていく現実に。そして、その一秒という単位をぽん太は憎む。
ぽん太は、ありきたりな毎日のくだらない数字の羅列の中、誰かが発明した一秒という単位に束縛されながら生きている自分を呪おうとすらする。そう・・・・昨日までぽん太は正確かつ曖昧なその一瞬に溶け込もうと自己嫌悪を抱えながら必死に努力してきた。しかし、何をやったところでそこに意味を見出せない。
「もうウンザリだ」
ぽん太は、声に出さず、心の中で絶叫しながら、左腕にはめたG-ショックを外し、墓石に投げつけた。あまりに無意味な日常に嫌気を越えた吐き気を催す。
ぽん太は狂う。
冷たい冬の空気を吸い込む。その時、鼻の奥から血が垂れてくる感触が鼻腔に広がった。ぽん太の思考回路がショートし、そこから液体が洩れているのだろう。もう何も考えられない・・・・・いや、考えたくない。凍った心は、自分の体の体温を見失い、ぽん太は自分のものである筈の自分の体を、自分のものだとは思えなくなっていた。ぽん太の血管の中で、疲労が気だるく水に浮く油のように血液に浮いて流れている。
混沌とした感情を背負い込み、不透明な幻想の世界に消え入る一歩手前。それが西暦二千年午前二時五十八分のぽん太の出来事。
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思い出が、時の流れの中へと残酷に飲み込まれていく光景がぽん太の目の前にちらつく。何もかもが消えていく。なのに、なぜ俺は消えない・・・・・・・とぽん太は苦しむ。
静けさの中で、誰にも知られずに消えてしまいたいのに・・・・・、皮膚を覆う細胞が、空気の波に飲み込まれて、流されてしまいたいのに・・・・・、誰の記憶にも残らずに自分の遺伝子すら自分のことをわすれてしまう、そんな理想を追い求めているのに・・・・・・なぜ、俺は消えてしまえない。
俺を消してくれ・・・・とぽん太は心の中でも何度も懇願するように自分に頼みこむ。それでも、そう簡単に消えてしまえない悲しさが人生には影のようにつきまとう。影が黒から白に変わる時に意味することは、人生の終焉であり、死なのだろうか。ただ、ぽん太の影は黒でも白でもなく、灰色で地面にうずくまっている。
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遥か遠くの世界から届く車のエンジン音。ギアが一速、二速、三速、四速と入れ替わり、そして最後にはブレーキ音が当たりに響き渡る。そして、ギアはニュートラルに入る。現実味のない別世界からの耳鳴りに似た曖昧な響きがぽん太の鼓膜を震わせる。ぽん太には、目の前にある全ての事柄にぼんやりと霧がかかっているように思える。ぽん太は、先の見えない人生を覗き見するかのように少し考えた。三百二十九回目のため息を吐き出しながら、脳裏をよぎる命題は、「哲学が語ろうとしていることは、一体何なのか?」。
汚く醜い欲にまみれた現実に汚染された想像力が膨らんでいく。ヘドロの塊がガスを内包し膨らみ続け、そして破裂するように・・・ぽん太の想像力も臭いながら破裂した。
哲学なんて、天国で出版されたゴシップ誌のコラムか何かだろう。事実は、マスコミが作る。哲学もまた然り。気違いな情報化社会の理性に何を信じることができるというのか。この世界に純粋な真実など一つも存在しない。自分すら信じられない人間が、一体何を信じられるというのだろうか・・・・。
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ぽん太は霊界に近い場所でビールを飲み続ける、そして、たぬきに化ける人間になる。腹はビールのカロリーで醜く膨れ上がり、炭酸のたまった内臓からはアルコールの臭いしかしないげっぷが吐き出される。それで、ぽん太は癒される。喉を潤す感覚に慰められながら、ぽん太は三百三十回目のため息を漏らした。何度においを嗅いでも、ため息は排気ガスのように、産業社会の機械達が吐き出す残り香のようなにおいがした。
ため息は空へと昇っていく。ため息に含まれる成分は、オゾン層を破壊しないのだろうか。そして、温暖化社会をより一層深刻なものにしないのだろうか。
そんなことはないのか・・・・この世はため息で覆われているから、そんなことになったらもう人類は滅亡しているだろう・・・・・、そんなことをぽん太は酔った思考の中で思いながら、持て余す想像力で遊ぶ。
汚れた空、無気力な大気圏、ぽん太はため息の行方を見つめながら、煙草の灰をビールの缶の中に落とした。空缶の小さな飲み口から一筋の白い煙が立ち昇る。線香の煙のように、落とした灰から立ち昇るその煙草の煙は、時の流れの中で消えゆく全ての失われゆくものを弔っているようだった。
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一回、二回、三回、四回・・・・・何度空を見たって東京の夜空に星達は輝かない。やはり現実は真っ暗なのだ・・・・わかっちゃいたけど。代わりに都会のネオンが薄っぺらな天国の神々しさを思わせるように輝く。ぽん太の瞳には偽物しかうつらない・・・・そう天国に見立てた地獄みたいな現実の欺き。濁った青色ネオンがぽん太を照らす。ぽん太は、薄っぺらく、汚らしく青ざめる。
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簡単には沈黙は手に入らない。内緒話のような都会の雑踏が、安価なオルゴールから聞こえてくる雑音でしかない音楽をあたりに響かせ、ぽん太は静かに苛立つ。自分に問いかける。鼓膜を破れば、この全ての雑音は消え去るのだろうか?
その自問をぽん太はもう一度、考え直す。いや、本当に、鼓膜があらゆる音を感じているのだろうか?
ぽん太は、鼓膜の存在意義を疑い始めた。常識的に考えれば鼓膜以外に音を聞く能力を持つ器官は人間にはない。でも、そんな常識すら信じられない。鼓膜を破ったところで、この騒々しさは消えてはくれないような気がぽん太にはした。体の中で何かが鳴っている。それがうるさいんだ。
体の中で鳴るうるさいもの・・・・それは一つしかない。心臓。
耳の問題じゃない。鼓膜の問題じゃない。握りつぶすのは、鼓膜じゃなくて心臓なんだ。ぽん太は酔ったままの虚ろな瞳で、できもしないことばかりを考える。でも、雑音を奏でるオルゴールはぽん太の周りで鳴り止まない。雑音が奏でる高音の部分に悲鳴に似た響きを感じ、その悲鳴がどんどんどんどん高音を上げていき、超音波の域に到達しそうになった瞬間、ぽん太は狂うように両耳を両手で塞いだ。
鼓膜は破らない。いや、破れない。鼓膜を破る勇気すら持たない自分が情けなくて、ぽん太は崩れ落ちた。そして、墓石に寄りかかる。
重たいため息を一つつく。
ぽん太は耳を塞いだまま、あたりに広がる暗闇を見つめた。空気に苔の湿っぽいにおいが混ざっているように感じたが・・・・どこにも苔なんて生えていない。そんな気がする自分の嗅覚を問い詰めてみたくなるが、ぽん太の意識は疲れきっていて、もう何も言い出せやしなかった。そんなぽん太を見つめながら、闇は無言を貫く。闇は何も喋らない。あれほどに酔いにまかせて独り言を言っていたぽん太も、そんな無口な闇につられて、黙った。
ぽん太の唇は動かない。あああ、何も主張しなくていい。闇も何も主張してはこない。お互い知らない素振りで黙っていればいい。本当の意味での自由とはこんな沈黙に身を委ねることを言うのだろうか・・・・。
ぽん太は、自由を抱きしめるように静かで無口な闇を抱きしめた。冷たい感触が引き寄せた闇から伝わる。そして、闇と抱き合うぽん太を、更に墓石が抱きしめる。抱きしめ、抱きしめられる。求めているのは愛なんてキレイなものじゃなくて・・・・・業を癒すための慰み・・・・。
✍
午前三時三分。真夜中の青山霊園。野良猫の喧嘩が外人墓地の方から聞こえてくる。浮浪者が当てもなく墓石脇で眠るいびきが聞こえる。そんな墓地の真ん中でぽん太は酒を飲んだくれては酔っぱらう。意識がふらつく。そして、その揺れる意識にあたりの無数の墓石が無数の人間・・・・いや、透明がかった人の形をした幻影に見える。左奥十メートル先では、軍服を着た老人の幻影が誇り高い疲れを顔に滲ませ、目の前の何もない空間に向かって敬礼している。
「なにがあなたをそうさせるのか?」と、ぽん太は、敬礼し続けるお爺さんを見つめ、小さく呟いた。その呟きは、同時にぽん太の胸にも響く。「なにがあなたをそうさせるのか?」と。
酔っ払う自分自身、負け続ける自分自身への問いかけが耳障り。ぽん太はそれを無視する。右斜め上、十五メートルを見上げれば、袴を履いた中年のオッサンが、立派に見せかけた髭を撫でつけ、ぽん太を見下している。ぽん太は呟く・・・・「なにがあなたをそうさせるのか?」と。
幻想なのか、はたまた目の霞なのか、酔った果てにみる黄泉の国への案内人達なのか・・・・青山霊園のあるほとんどの墓石に霊魂が、生前の人間の姿をしてぽん太の目に映る。そう・・・歴史に名を残さなかった霊魂達の見栄がそこにはあった。歴史上に名を残した、歴史の教科書で写真を見た人物達の姿は見えない。
ぽん太は、目を擦りあげ、墓場で幽霊みたいな透き通る幻を見ている自分は疲れきっているんだということを再認識する。
「気を確かに持とうよ」と左目が右目を慰める。右目の方が充血がひどい。慰めに聞く耳を持たない右目はオタクがツボにはまった価値のないコレクションを見つめるように、幻想を見続けている。
左目は右目を説得するのを諦めて、力なく現実を掴みきれないぽん太の掌を眺めた。左手の生命線に過去が見える。思い出が手相に残る・・・・。
思い出が手相に残る・・・・?とぽん太は自分のセンチメンタルな感情に絡む。ああああああああ、俺は、馬鹿だ、とぽん太は嘆く。そんなことがあるわけがない。たかが掌のしわだ。なにが生命線だ。そこに思い出が刻み込まれるわけもない。なぜ、そんな掌のしわに意味を求めようとするのか?左目すら幻想を見ているとぽん太は思った。酔いのせいだろう。ぽん太の視界はふらつき続ける。
揺れる揺れる意識の中で、ぽん太は、自分の体の中に体温を探した。でも、どこにも見つからない。俺は死人なのか・・・とぽん太は自分に問いかけた。わからない・・・。何もわからない・・・。死の温度が皮膚を覆っている。俺は、既に霊園の住人なのだろうか・・・・とぽん太は自分の居場所を確認した。わからない・・・・。自分がどこにいるのかさえわからない。
ぽん太は左真横に歩いてくる高価な着物に身を包んだ美女の足取りを見た。それは間違いなくぽん太に向かって歩いてきていた。その美女はぽん太を抱きしめる。そこに体温は感じない。悪夢だろうか・・・・彼女は、ぽん太のすぐ目の前で濁りのある半透明な笑顔を浮かべる。時に、そんな風にして作られた表情を人は偽善と呼ぶ。彼女は、ぽん太を抱きしめ続けた。
「ここで一緒に・・・・」と彼女は言った。
ぽん太は、その女が語ろうとしていたことに耳を傾けたが、あまりにあの世の訛りが強く語尾が聞き取れなかった。でも、想像するに、「ここで一緒に・・・・・死にましょう・・・・」か何かだろうと言うことは容易に想像がついた。それもいいかもしれない・・・、とぽん太は思った。その後で、いや、むしろ大歓迎だ・・・と再び考え直したほどだった。
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墓石に投げつけたG-ショックの頑丈なボディは壊れることなく、地面の上で何事もなかったかのように正確に時を刻み続ける。月明かりが、デジタルの文字盤を儚げに照らした。ぽん太は、うつむきながら睨むようにして、五メートル斜め前方に転がっている時間を見た。後、二十八分・・・・。
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メンソールの味が口の中にこびりつく。そして、その頬の裏側に残る妙に澄んだ感覚を持て余す。ドロドロとして粘り気のある痰が喉の奥に溜まり、融和しない二つの口内の感覚がぽん太の意識を分裂させていく。
ぽん太は、自分を鼻で笑った。
もう何もかも訳がわからない、自分が何を考えて、何を感じているのかさえ掴めない・・・・とぽん太は、鼻を抜けていった笑いに寂しい笑顔を投げかけた。そして、もう一度、そんな自分を鼻で笑う。今まで生きてきて何万回、自分を鼻で笑ったのだろう、とぽん太は思った。でも、鼻で自分を笑った後、妙に何もかもがしっくりくる感覚が心に広がっていくのは嫌いじゃない。
その時に、生きてることを実感する。そうさ、笑わなきゃやってられない・・・。
結局は、何もかもが台本通りなのだから。いくら哀れんでみても、それは確かに演技かもしれない。小さな島国の舞台に立ち、与えられた役を必死に演じようとしている。必死に台詞を覚え、緊張に体を細かく震わせながら生きている。失敗すれば観客に野次られ、他の俳優の失笑をかい、批評家に心を握りつぶされる。自己嫌悪と闘い、毎日同じ演技を繰り返す。そこにどんな意味があるのだろうか?照明の当たらない場所で、一体いつまで斧をなくした木こりの役を演じ続ければいいのだろうか・・・・。ぽん太は力なく肩を落とし、何度も何度も自分を鼻で笑い続ける。しっくりくる感覚を求める。でも、その度に、塩酸のような寂しさが心に広がる。心を溶かそうとする塩酸の刺激が、ぽん太の目から涙となって零れ落ちる。
「生きていくことが・・・・演じることと同意義ならば、今まで演じてきた悲しみは、本物だったと信じていいのだろうか・・・・?」
ぽん太は、自分を笑った後の濃度の濃い自己嫌悪の余韻が広がる沈黙の湖に、言葉を零すようにして静かに呟いた。
ぽん太は、ビールを少し口に含んだ。そしてうなだれる。
後ろ指を指されても、死の縁に追いつめられるほどに馬鹿にされても、二度と夢が見れなくなるほど叩かれても・・・・脚注に指示された涙は流せない。
演じながら生きている・・・・でも、悲しくないのに泣けるほどうまい演技はできやしない。そして、悲しいからいつも泣いている。笑うべきところでさえ、涙が零れてくる・・・・。
ぽん太は、口に含んでいた気の抜けたビールを喉の奥にねじりこむようにして、飲み込んだ。
✍
午前三時十分。
灰皿がわりのビールの空缶達。ぽん太が買ったシックスパックの500ミリリットルの缶ビールも残り一本。四つの空缶が死体のように無残に墓場に投げ捨てられ、手にしている五本目の缶も残り僅か。
ぽん太は脳みその芯に痛みを感じる。
膀胱が破裂しそうな程に、小便が股間の内側に溜まる。
酔いが一瞬一瞬強まっていくのがわかる。
何もかもを飲み込もうとする激しい脱力感がぽん太に染込み始める。その脱力感が体の芯に浸食する。ぽん太は、立ちションすらせずに、動こうとすらしない。ただうなだれてビールの缶を握り締めながら、投げ捨てた空缶を見つめ続けた。
力なく空っぽな存在達。
ぽん太は、その空缶の死骸に過去を見る。
今じゃ、過去なんて何もかもが月面で起こった不確かな歴史のようにしか思えない。
空っぽの情熱、何の存在価値も持たなかったでっちあげた夢達。
ぽん太は、人生と空缶があまりに似ていることに今更ながら気づく。今まで無責任に描き続けては、愛してくれた人を傷つけたでっちあげた夢を四つの空缶に重ねてみる。
リサイクルもされず、怒りとともに投げ捨てた空缶達。「もうゴミだよ、そんなもん・・・・」とぽん太は、過去に投げ捨ててきたものに吐き捨てるように言う。少し鼻息が荒くなっている自分に気づく・・・。
✍
勝者が眠る聖地、青山霊園。
東京のど真ん中にある天国への入国ゲート。
パスポート代わりの墓石には、生前の名誉が誇らしげに刻まれている。刻まれた肩書きや官位が、あたりの雑草にまみれながらも今も誇らしげに自らの身分を証明しようとしている。その身分証明書を手に持ち、官位や地位を持った選ばれたものだけが辿り着く天国への出国審査は、さぞかし自慢話に花が咲くことだろう。
明治維新、戦時中の英雄だけがこの霊園から旅立ち、天国の住人としての市民権を得る。ファーストクラスの乗り心地はいかがなものだろう?冷たい風が無数に並ぶ墓石の間を吹きぬけていく。そして、ぽん太の髪を揺らす。
所詮、勝てば官軍。負ければ全てを失い、何も持たない敗者になる。
わかりやすい。
そう、あまりにわかりやす過ぎて、そんな現実がわからなくなる。
現実は・・・・まだ人間が発明した最先端のテクノロジーに追いつけず、白黒テレビのブラウン管の中に映しだされる。白と黒、それ以外の色はない。
しかし、白とも黒とも言えない人物が、一人だけこの霊園で静かに暮らしている。ぽん太は、彼の眠る墓場を見つめる。ぽん太は、酔いつぶれたまま目の前の墓石に向かって語りかける。
「遠い。ここはあなたの故郷からあまりに遠く離れた場所。桜島はここからじゃ見えないですよね?苦しくないですか・・・・・?」
墓石に刻み込まれた称号は、右大臣正二位。死して時を経た今でも彼の持った圧倒量のカリスマは、時の熱い渇きの中で蒸発されきらずに港区南青山の一角に残っている。この人物が、この島国の歴史上から姿を消した時に、その後のこの国の迷走と敗北は予言できた。
自分を律するという武士道の根幹である厳しさという刃を自分の首元に突きつけることができた最後の侍。彼を失った後、この国の高官は賄賂を懐に入れ、私欲を肥やし、安きに流れ、信念を持たず、この国の重みを感じることを忘れた。薩摩藩士。明治政府初代内務卿。
親友西郷隆盛を西南戦争で殺し、そして自らは、紀尾井町で不平士族に暗殺される。全世界を植民地化しようとする帝国主義のの侵略とそれに伴う深い暗闇と血のにおいに満ちた混乱の果てに日本を夜明けへと導いた英雄、大久保利通公。
ぽん太は、大久保公の墓の前で、無礼にも酔っている。
二十歳の日本男児の醜態が歴史上に晒される。台座の上に設置された大久保公の墓の上、ぽん太が座り込むすぐ後には五段の階段があり、それを降りるとすぐに小さな鳥居がある。大久保公の墓石は、巨大な亀の彫刻が背負っている。墓の向こうには、青山のオフィスビルのネオンが光る。この墓場の周りを覆う冬の乾燥した空気を吸い込めば、今でもそこには大久保公の見た途方もない夢の名残りを感じることができるような気がする。でも、自らを敗者と定義づけるぽん太は、何かに気づいて気づかないフリをする。
墓は無言でぽん太を見つめる。沈黙がぽん太の右肘に響く。響いた沈黙は、痺れにかわり、ぽん太の古傷を感電したように麻痺させる。神経に痛みが走り、その痛みが体全体へと膨らむ。痛み止めがわりのビールを急いで、ぽん太は口に含む。
いくら酔っても痛みは消えない・・・・・。その痛みに喘ぎながら、ぽん太は苦しみから言葉を捻り出すようにして、死してなお故郷の鹿児島から恨まれ続けた大久保公の墓石に訊く。
「大久保公・・・・・・。あなたは勝者なのですか・・・・?それとも敗者なのですか・・・・・?」