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タラッサの歌姫―巫女ですが偽装結婚しました―  作者: ムツキ
第八章・嘆きの叫びと歓喜の響き
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8-8・魔物


「ミルティアデス様、お下がりください」


 ニアがスキアーと呼ぶ灰色の物体が三つ、ミルティアデスの前にある。

 旗艦の水夫は三分の一が海へと落ち、残り三分の一はスキアーにやられて死んでいる。残り三分の一では操舵を完全に行うことはできない。

 ミルティアデスは剣を構え、尋常ではない早さと重さで伸びてくる触手を叩き落とすのが精一杯だった。彼の片腕は触手の一撃で折れて動かず、肋骨(ろっこつ)も二本くらいヒビが入っている。

 息を吸うのも一苦労だった。


「ミルティアデス様、お下がりください」


 再度、ネロが言う。

 そういうネロはミルティアデスの三倍は怪我を負っている。それでも相変わらずの涼しい顔で汗一つかいていない。それどころか、ミルティアデスの前に出張ってきた。

 彼はなぜかミルティアデスに向かい合う。


「ミルティアデス様、失礼」


 言うが早いか、ネロのナイフの切っ先がミルティアデスの胸に突き刺さる。

 ミルティアデスは目を見開いた。目前にネロの穏やかな、くすんだ青い瞳がある。体の自由は急速に奪われ、意識が閉ざされていく。


「ネ……ロ……」

「おやすみなさい、ミルティアデス様」


 自由の利かなくなった体を彼はそっと押した。

 ナイフが刺さったまま、ミルティアデスは後ろに倒れ込む。

 そこには死体がある。

 ミルティアデスは死体の上で完全に意識を失った。倒れた主を見たネロは床に落ちている剣を拾い、負傷者の数名に近寄るや否や首に剣を突き立て血飛沫(ちしぶき)をあげさせた。そしてミルティアデスの上へとできたての死体を積んでいく。

 乗組員三名を殺した彼は、灰色の塊へと目を向けた。灰色の塊は、変わらず操舵を行う水夫に攻撃を加えている。


 ネロはちらりと血と死体に覆われたミルティアデスを見た。

 彼の側にいる理由は血を見ることができ、より楽しい殺人が行えると思ったからだった。だが、今は少しばかり事情が違う。


巨人(ギガース)(スキアー)ですか。この世に、魔物ファンタズマがいるなら、それはミルティアデス様だけで充分ですよ」


 ネロは(たの)しそうな笑みを浮かべたまま、血の付いた刀身を己の頬で(ぬぐ)う。


「ですから……あなた方には消えていただかないと、ねぇ?」



◆◇◆



「つまり、……アレもアンゲロスだと?」


 キリルの不審そうな声に、ニアは頷く。

 二人は波に()まれながら、なんとか会話をしていた。

 周囲では、蛇のような足で船体を割り、沈没寸前に追い込んでいるギガースや、そのギガースの両手を縛り付けようと必死に動く海の兵士たちの戦闘が行われている。

 また船上では灰色のスキアーたちと水夫による白兵戦。時折、人や木材や武器が降る中、ニアは確信に満ちていた。

 死の影は去っている、そうニアは感じていた。


(あの託宣はきっとドーラ婆がしたもの。つまり、最強の護符(ごふ)だよ)


 死の予見ではなく、死を避見(ひけん)するためのものだとニアは気付いたのだ。それはドーラの得意分野だった。当時、天才巫女と言われた所以(ゆえん)でもある。


「だから、ね。キリル」

「……分かった」


 彼はため息を付く。その顔には仕方ないとの気持ちがありありと見て取れる。

 最初こそニアはキリルの読みにくい鉄面皮(てつめんぴ)辟易(へきえき)としていたが、今では、彼の気持ちを読みとれるまでに成長していた。

 なにせ、この三週間近く、常に側にいたのだから。


「キリル、やるよ?」

「あぁ、やれっ」


 ニアは海中に潜り、音を発する。ほどなくイルカの一団が泳いでやってくる。

 イルカは側までくると、一声キュイッと鳴いた。

 ニアはその額を撫で、キリルは不慣れそうにその背に(またが)る。


「行って」


 ニアの声に答えるようにイルカは急発進する。キリルは滑る背中から振り落とされないように背鰭(せびれ)に掴まっている。

 彼を乗せたイルカの一団はまっすぐにゼノの方へと進み、去った彼らを見送ったニアは海中に潜ると目を閉じた。


 周りの喧騒が嘘のように静まっている。

 ニアは赤い空間へと泳ぎ出す。

 赤い海に入ると、そこは確かにキリルの言う通りニアでさえも泳ぎにくさを感じた。入るのは簡単だが、上にのぼることが至難の(わざ)だと分かる。


 それでもニアはそこに留まる。

 思った通り、そこには巨人の体はない。

 ギガースはそこから体を出して戦っているのに、そこに巨人の体は存在していないのだ。周辺の海に頭と手足が出ているのに、肝心の胴体部分が赤い海で代用されている。


 バシレイオスが地上での灰色の神の自由を許した場所は両手両足と一つ目のみなのだ。胴体も三つの心臓も、もう一つの目も世界に顕現はできない。

 そもそもアンゲロスとは『派遣された者』の意を持っている。天使というものは神の使者として派遣され、神意を人に伝えるものだ。

 その意味で、スキアーはにとっての天使だろう。なぜならスキアー自体が、神によって生み出され、神の意を遂行するために存在しているのだから――。


 そしてもう一つ、スキアーが神の使者である証がある。それは声だ。ニア以外、誰もスキアーの言葉が聞こえていないのだ。

 巫女としての能力か、はたまた薄くとも遠い神の血を宿しているからかニアには聞こえ、キリルたちには聞こえないスキアーの声。


(神様はもしかしたらただ、失った体を捜してるだけかもしれない……でもそのために、こんなにも犠牲を求めるなんて……信じたくない……。でも、向き合わなきゃいけない)


 新たな血で満たされた赤い海には水夫たちの死体も混じっている。

 その中にあの包帯のスキアーを見付けた。


読んでくださってありがとうございます。

【次話公開 → 本日 21:20 予定】

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