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5-3・ゼノの怒り


 キリルは船室で地鳴りのような音を聞いた。

 海の上にいながら地鳴りを聞くはずもないが、ここ一週間ほどで異常事態もお馴染(なじ)みになりつつある。キリルはもがきながらも納得していた。

 神や天使の存在は信じられないが、家族を思う気持ちは理解できる。


 数時間前、彼はミルティアデスにあの化け物と戦う無謀性について語った。船と乗組員を押さえられているキリルとて他人事では済まないのだ。

 しかしミルティアデスは聞く耳を持たなかった上、その護衛たる暗殺者は余計なことを言った。


「あの男の子を捕まえてこっち側に引き入れたらいいんじゃないですか? ニアさんを海で窒息(ちっそく)寸前まで追い込めば来るでしょう?」


 キリルはその時のネロの顔を思い出す。張り付いた笑顔の中で鋭く光る目を。

 思えばあの男はいつも笑顔を張り付けているが、その目が笑っていることは少ない。いまや、キリルは彼の笑顔を見ても薄気味悪さしか感じなくなっている。


 大きく船が揺れ、脳が浮遊する感覚は鯨を思い出させた。船ごと持ち上げられた時の感覚にとても近い。

 続いてまた、何とも言えない音が鳴り響く。

 船が大きく(きし)んだ。


「……っ」


 ミシミシと音を立てる船体。

 その中に時折、甲高い音があがる事に気付いたキリルは、体を(よじ)らせる。何かが怒っているのだ。

 扉が開き、デニスが飛び込んできた。


「デニスっ?」


 なぜデニスがいるのか不思議に思う。彼は操舵のためにまたキリルの船に戻されていたはずである。

 彼は酷く狼狽(ろうばい)していて、それでもキリルの縄を解いていく。


「あぁ、キリル様っ。早く逃げましょうっ」

「待て、ニアはっ? 大体、お前なぜ?」

「あ、あの子は……無事です……でも、でも早くしないとっ」

「落ち着けっっ、いったいどうしたっ」

「わ、私は、船を操舵不能にするためにこちらに移されたところだったんですっ。その時、あ、あぁ……恐ろしい……っ」


 デニスはおろおろするばかりで要領(ようりょう)を得ない。

 キリルはデニスを振り切って、甲板まで走った。途中逃げ惑う人々に何度ぶつかったか知れない。甲板に出たキリルは全てを理解した。


 そこは青の世界だった。


 ニアの見ている海というのはこういった物かもしれない。大きな宝石に閉じこめられたような気さえする。

 上も横も下も水の壁ができていた。それらは渦巻きながら、二艘の船を綺麗に取り囲んでいる。ちょうど泡沫の体内に抱かれている感覚だった。

 その舳先にニアを抱いた男が立っている。ぐったりとしたニアを抱いた男はニアと瓜二つと言ってもいい。違うのはその顔に浮かんでいる冷笑と、ニアより短い髪くらいなものだ。

 相対(あいたい)するミルティアデスは動じた風もなく、彼の目の前に立っている。


「僕を呼び出すのに、こういう手段取るなんて野蛮(やばん)だね。僕は妹を虐めるのが大好きだし、泣かせるのも大好きさ。だけど、それは僕の特権だよ。このまま海の底に沈めちゃおうかな」


 声もどことなくニアに似ている男は、それでも彼女とは似ても似つかない冷たさを宿していた。

 キリルは安堵(あんど)する。

 男の物言いから、ニアが気を失っているだけだと気付いたからだ。すぐに視線を自船へと移せば、 鎖で繋がれた船は同じくこの不思議な空間にたゆたっている。


「僕は釘を刺したはずだけどね、キリル君」


 急に声を掛けられて、キリルは首を傾げる。


「何をだ?」

「うちの妹にふざけた真似したら殺すよって」


 キリルは顔を(しか)めた。そんなに具体的な言葉は貰っていないが、厄介(やっかい)な第三者が多い現場である以上、肩書(かたが)きが妻なニアを取り戻す必要があった。


「僕たち兄妹はさ、互いにとても執着(しゅうちゃく)してるんだ。だって同じものでできているからね。寸分違(すんぶんたが)わず、同じなんだ」


 男はニアを甲板に降ろすと、その頬にスルリと触れた。


「だから、僕は妹が大事なんだ」


 そして胸に手をあて、ぐっと押す。ニアはゴポリッと少量の水を吐き、目を開けた。長いまつげをパチパチさせる。


「ぜ、ゼノ……。え、何で……?」



読んでくださってありがとうございます。

【次話公開 → 本日 15:30 予定】

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