2-1・衝突
キリルは不思議な気分だった。
船は鯨の上に乗ったまま夜闇を進む。三十分交代で鯨は船を海へと手放し、次の鯨が奪うように船を持ち上げ、背に乗せるのだ。
どうやらこの鯨の群れは五匹で構成されているようだった。
星の明かりが照らす海は波も穏やか。鯨の上にいることを除けば、陸上と変わらないのではないかと言うほどに揺れが少ない。
頬を撫でる向かい風がなければとても船の上とは思えないほどに落ち着いた中、下ではランプの明かりを頼りに船の修理が進んでいる。
波の音を聞きながら、船員は仮眠を取っている者が多数だ。
最初こそ鯨に乗っている異常事態を僥倖だの何だのと騒いでいた者も次第に慣れて落ち着きを取り戻した。
おかげで今、キリルは船尾側の縁にもたれて寝ている彼女の側に立っているだけで済んでいる。
彼にはニアの言っていることのほとんどが納得できないのだが、献金打ち切りを阻止したかった旨だけは理解した。偽の託宣をした報いとして彼女も懲罰を受ける身の上らしいが、のんびりとした寝顔を見ればとてもそうは見えない。
今のニアはどう見ても自由気ままだった。他人様の船で、ある意味では鯨に操舵を任せ、自分は昏々と眠っているのだ。
ニアが起きないのを良いことに、船員の多くが、彼女の髪を引っこ抜こうとしているのをたまたま目撃したキリルは虫除けとしてこうして立っている。キリルが気付かなければ、今頃ニアは禿頭になっていたことだろう。
どう見ても人間にしか見えないが、船員たちはすっかり海の妖精として脳内処理している。
「……どう見ても、ただの無遠慮な人間の女だ」
口では文句を言い続けたキリルだが、正直な所、鯨のお陰で助かっているのも確かだ。
(あとで、神殿宛に手紙の一つくらいは書いてやるか……)
先ほどの報告で、あと三十分もあれば穴が塞がるとのことだったから、気持ちにもゆとりが生まれていた。
「キリル様っ、船ですっ。前方に船があります!」
想念を断ち切ったのはメインマストの見張り台にいるデニスの叫び声だった。
慌てて、縁に手をかけ、前を見る。簡単に視認できるほどに近づいた船の横っ面がある。そして船は益々近づいてくる。
意識していなかったが、キリルのいる船は今、鯨の背にいるのだ。鯨は風に逆らい、素晴らしいスピードで陸を目指している最中だ。
鯨は一向にスピードを落とさず、真っ直ぐに船に向かっている。
「おいっ、起きろっ!」
慌てて、ニアに声を掛けるが反応がない。船員たちもキリルとデニスの声に起きて慌て始めた。
「冗談じゃないっ、この速さでぶつかったら、……賠償金どころではすまんぞっ」
できることと言えば衝撃に備えることと鯨を止めるために銛を打ち込むことくらいだ。鯨が暴れては、こちらが無事では済まないので、道は前者しかない。
「おいっ! 船をっ、いや鯨を止め……っ!」
「ぶ、ぶつかりますっっ!」
大きな揺れに、ニアの身体が弾む。床に倒れ込むのを慌てて抱き込んで、頭を保護してやる。彼女はそれでもなお、起きなかった。
「……っ、……どんだけ寝汚いっっ!」
思わず毒突く。
鯨は停止した。
同時に向こうの船も停止している。相手の船にしてみれば何が起こったのか全く分からない状態だろう。
鯨の頭が船体の横腹にめり込んでいるのが見える。幸い、衝突した割には損傷が少ないようだ。
その時、ヴォーッと言う不気味な鳴き声が響き渡った。
少し遅れて、声の合唱。
鯨たちの鳴き声だと気付くと同時に、船が揺れる。
「ま、まさか……っ」
鯨は邪魔な障害物を体当たりで吹き飛ばすことにしたらしく、二度、三度と船に頭からつっこむ。同時にこちらも同じだけの揺れを被り、キリルは人が転がる様をまともに見ることになった。
鯨たちは手伝うように二匹、三匹とぶつかっていく。
キリル自身はニアを抱いて寝転がっていたお陰で、無様な事にはならなかったが、正面の船が篝火を焚き始めたのを見て、慌ててニアの頬を叩いた。
「起きろっ! 起きてくれっ!」
キリルが慌てた理由は鯨の無法行動ではなく、篝火の下に晒された旗にある。
旗は、赤地に黄金の盾と二本の槍が描かれており、彼はすぐに相手が何者であるかを理解したのだ。
ガレー船に掲げられた旗はミナス王国最大都市であるテルマのもの。帆と多数の櫂を併用し、漕ぎ手を二段に配置した大型軍用船だった。
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【次話公開 → 本日 22:00 予定】
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