8.猟奇拷問
1.
占い師――フォーチュンテラー。『オルテンシア』の名を持つ女性を惨殺して回る猟奇殺人鬼。
狂気にのまれた人間であることは予想していた。だが――
「オォルテェンシアァ……オォォルテェンシィアァァーーーーー!!!」
まるでそれが鳴き声である獣のように、それはオルテンシアの名を咆吼する。
「……ここまでストレートに狂っているとは思わなかったわ」
冷たい汗が背中を濡らす。凄まじい憎悪の波動が暴風のように叩きつけられてくる。
愛と憎しみは表裏一体などと誰が言ったのだろう?
そこにあるのは純粋な憎悪。愛などが入る余地など塵ほどもない、純粋な殺意と呪詛の塊が肉を得てそこにいた。
フォーチュンテラーは手にしていた長剣を捨てた。
がらぁん、と激しい音とともに汚い剣が床を転がる。オルテンシアの目が一瞬剣を追った。追ってしまった。その刹那、黒い殺意の影は、何の予備動作もなく獣のように跳躍した。
「しまっ――」
凄まじい力で組み伏せられる。手汗で滑った短剣がはじけ飛び、軽々しい音を立てて床の上を滑って行った。
「くっ!」
せめてもの抵抗を試みるが、相手はまるで鉛の像であるかのようにびくともしない。
「オルテンシアァァァ……」
マウントポジションを取られ、長いローブの袖越しにオルテンシアの細い首が締め上げられる。
「ぐ……」
ぽたり、とオルテンシアの頬に何かが落ちた。それは、深紅い雫だった。
「――ッ!?」
潰された喉から、悲鳴を出すことができない。
遠目にはフードの影に隠れていたフォーチュンテラーの素顔。それを見た時、オルテンシアは思った。
(化け物!)
その目には、まぶたが無かった。ぎょろりとむき出しになった眼球は真っ赤に充血し、どろりと濁った瞳は一切の光を映さない闇色をしていた。
深紅い雫は、言うまでも無くその両眼から滲み出る血液だった。
目元周辺の皮膚は焼け爛れて黒紫色に変色していた。ミミズの群れがのたうったように引きつった火傷痕の所々に黄色い膿が貯まっている。
「オルテンシア! オルテンシアァ!」
すでにオルテンシアの気管は潰されていた。涙で視界がにじみ、頭がぼーっとしている。
(嘘、私、死ぬの?)
この期に及んで、ようやくオルテンシアは自分が窮地に立たされていることを思い知った。むしろ今の今まで、彼女は自分の人生を楽観視していた。今の窮地も何とかなると根拠もなく信じ切っていた。
そんな一瞬前が遥か昔に感じられるほど、死は、あまりにもさりげなく、当たり前のように彼女の前に現れ、いつの間にか絶望的な存在感をもって彼女の意識を覆っていた。
(|嫌だ……恐い……助けて――!)
視点がオルテンシアの意識を無視してぐるりと上を向く。全身がビクビクと痙攣し、自分でも驚くほどの力で跳ね回る。身体が自分のものではなくなっていくのがわかる。
意識が遠のきかけたその時、首を締め上げる力が不意に緩んだ。
ほのかに甘い香りと共に、新鮮な空気がオルテンシアの肺腑に急激に流れ込む。
「げほッ!」
激しくむせながらも、生きている実感がオルテンシアの脳を満たしていった。
「死んじゃ、ダメだよ」
虚ろな声に、初めて理性が宿った。
「死は、救いだ。そう簡単には終わらせない」
臨死からの解放によってもたらされた快楽物質に犯されていたオルテンシアの脳が、その言葉の意味を解するのに数秒の時間を要した。
「い、嫌ッ! 嫌ァッ!」
青ざめたオルテンシアを、赤い眼球が下まぶただけで嘲笑う。
「失敬、挨拶がまだだったね。はじめまして、フォーチュンテラーです。本当はもっと素敵な名前があるんだけど、まあせっかく世間が名付けてくれたから、ね……」
先刻までの狂暴さは嘘のように静まり返っているものの、オルテンシアに馬乗りになるその細い身体は、万力のように抗い難い力強さに満ちている。
「そうだ。せっかくだから、占いをしようか。私の占いはよく当たる。本当によく当たるんだ」
やせ細った枯れ木のような手が、ローブの袂からカードの束を取り出し、慣れた手つきでシャッフルを始めた。
「貴女の、今日の運勢は……」
人差し指と中指で摘み取られたカード。そこには、燃え盛る髑髏という悪趣味な意匠が描かれていた。
「『炎』のカード。あはは、炎の意味するところは破壊、喪失、つまりは破滅! はは、あはははは! 貴女は今日、大切なものを失うでしょう! ははははははは! 私の占いは当たる! 当たるんだよオルテンシア! オォルテンシアァァァァ!」
フォーチュンテラーは突然激高した。カードの束をオルテンシアの顔に力任せに叩きつける。
散らばったカードには全て炎の図柄が描き込まれていた。
「オルテンシアァァァ……」
フォーチュンテラーは床に転がっていた長剣を拾い上げた。刀身は古く錆びついており、黒く乾いた肉片のようなものがこびりついていた。
「嫌……嫌、嫌ッ! 嫌ァッ!」
そんなもので斬り付けられたら、どんな病気に感染するかわかったものではない。
怯えるオルテンシアの貌を、赤い眼球が愉し気に見つめる。穢れた切っ先がオルテンシアの眼前にぴたりと突き付けられ、彼女は身じろぎひとつ出来なくなった。許されるのは、生命をかろうじて維持するだけの極めて浅い呼吸のみ。
切っ先がにわかに赤い熱を帯びた。
(これってまさか――)
熱気がオルテンシアの眼球を焼き、光熱が網膜を灼く。失明の恐怖にオルテンシアは慄くが、まばたきをしたら最後、彼女のまぶたは真っ二つに焼き切られてしまうだろう。
それはまさしく、魔法剣だった。
「灼熱剣、火走百足……」
オルテンシアの眼前で、何かがもぞりと動いた。
それは、赤熱する刃の上を這う百足だった。百足は一匹だけで、とても小さい。だが、その身体に内包する熱量は凄まじく、身体の内部から白く発光していた。
「やめて……」
オルテンシアの脳裏に、フォーチュンテラーの殺害方法が思い出された。被害者は皆、顔の上半分を焼かれ、首を斬られる……。
「やめて……お願いやめて……」
浅い呼吸の中で必死に哀願する。だが、そんな彼女を嘲笑うように、その頬に何かがぽたりと落ちた。
「ぅぁぁぁぁぁぁぁぁ……ッ!」
喉の奥を絞ったような悲鳴が上がった。
白熱した百足が、オルテンシアの目元を這い回っているのだ。肉の焼ける臭いが鼻を突く。
熱さを感じたのは一瞬だった。直後、無数の針を骨まで突き立てられたような激痛が押し寄せた。
「お゛ッ、お゛ッ、お゛ッ、お゛ッ……」
長い脚が、陸に打ち上げられた魚のようにビクン、ビクンと跳ね回る。上半身を物理的にも精神的にも絶望的な力で拘束されている反動か、下半身はまるで別の生き物のように暴れ回っていた。
床を生温かい液体が広がっていく。
「もう……、やめ……て……」
皮と肉が焼け焦げる強烈な臭い。
「お……ねが……い……」
下まぶただけで嗤う真っ赤な眼球がオルテンシアの瞳をのぞき込む。
「オル……テン……シア……」
ギ、ギ、ギ……、と、油の切れた歯車のような奇怪な音。それがフォーチュンテラーの笑い声であることに気付くのに、若干の時間を要した。
熱を帯びた刃から、百足がもう一匹、にゅるりと生えた。百足を生やした切っ先が、まだ焼けていない方の目元へと移る。
「あッ……あッ、あッ、あッ!?」
苦痛と恐怖が荒れ狂う波となってオルテンシアの心身を嬲り、弄ぶ。絶望が重くのしかかり、彼女を蹂躙する。
のたうつ2匹目の百足が全身を現し、激しく発光しながらオルテンシアの眼球に噛みつこうと大あごを開いた。
オルテンシアの精神の糸が引き切れようとしたその時だった。不意に、彼女の身体を押さえつけていた絶望的な重量が消えた。
「え……?」
光に眩んでいたオルテンシアの視界が少しずつ回復する。そこにいたのは、壁に激突して倒れ伏すフォーチュンテラーと、鞘に納めた長剣を杖にして何とか立っているオズ少年がいた。
どうやら、オルテンシアの悲鳴を聞いてようやく覚醒したオズが、鞘に納めた剣でフォーチュンテラーの身体を横殴りに吹き飛ばしたらしかった。
「大丈夫ですか、オルテンシアさ……」
オルテンシアを見る少年の隻眼が、一瞬大きく見開かれ、やがて瞳を深い憂いの青色に染めた。
「ごめんなさい……」
小さくつぶやくと、自分に気合を入れるように剣を抜いた。
「フォーチュンテラーさん、ですよね」
空色の隻眼が、床に這いつくばる黒い影をきっと見据える。
「いいところで……そのまま寝ていればよかったのに……」
虚ろな声と共に、黒いローブの殺人鬼がゆらりと立ち上がった。枯れ枝のような手の先に長剣がだらりと垂れ下がっている。
少年の刃が美しい銀色の三日月を描く。だが、刃で影を斬ることはできないと証明するかのように、フォーチュンテラーは最小限の動きで剣閃を躱す。その様子は、剣が影を素通りしたようにしか見えない。
「鍛錬は欠かしていないようね」
なぜか、どこか優し気な声。オルテンシアに激しい憎悪を向けていた殺人鬼とも、オルテンシアを拷問した冷酷な占い師とも違う、初めて生気を感じさせる声色だった。
(女?)
オルテンシアの鼻腔を、ほのかに甘い香りがくすぐった。
「……」
対する少年は、無言のまま剣を振るう。影が床を這うようにして刃を躱す。直後、小屋の壁には巨大な十文字が刻まれていた。
「風の魔法剣かぁ……」
感心したようなつぶやきとともに、フォーチュンテラーもまた無造作に剣を振るった。
風が少年の顔を掠めた。少年の目が驚愕に見開かれる。
少年の果実を思わせる張りのある頬がぱくっと裂け、血の飛沫が空に散った。
「私も使えるんだ、魔法剣。ふふ、互い無傷じゃ済みそうにないね」
ゆらりと影が動く。少年の顔を汗の雫が伝い落ちた。彼らの間に、放心したオルテンシアが挟まれる。
「さ、続きをしようか」
キリ……と少年の奥歯が軋んだ。ここで両者が剣を振るえば、風の刃に切り刻まれるのはオルテンシアの身体である。
「くッ!」
少年は降参の意を示すように剣を床に放り投げた。剣は刃を下にしてすとんと床に突き刺さる。
「おや、どういうつもりかな? 彼女を守るんじゃないのかい?」
「守りますよ。何としても」
黒い影から銀色の剣閃が薙ぎ払われる。剣先から放たれる無数の不可視の刃がオルテンシアに向かった。
「オルテンシアさん!」
同時に、少年も跳んでいた。転がるようにオルテンシアを抱きかかえると、小さな背中で風の刃を受け止めた。
「うああッ!」
少年の背中から血飛沫が翼のように広がった。
ヴェールに隠されてはいたが、フォーチュンテラーの口が嗤うのがわかる。
だが、その直後だった。
あばら家が爆発した。
「なッ!?」
ただでさえむき出しの赤い眼球が、さらに驚愕に見開かれる。
「そうか、そういうことか……」
オズが剣を投げ捨てた時、すでにその刀身には彼の魔力が込められていたのだ。それは炎の魔力だった。フォーチュンテラーの放った空気の刃がそれに触れて引火し、爆発を引き起こしたのである。
今、あばら家は半分ちかくが吹き飛ばされ、冬場を迎え乾燥していた木材が轟々と炎を上げていた。
「人が来ますよ?」
少年の冷たい声に、フォーチュンテラーはやれやれと肩をすくめた。
「いいのかい? 私を探していたんだろう? お母さんの仇を取らないのかい?」
「また捜し出します。何年かかっても」
影は「ふふっ」と笑うと、ずるり、ずるりとローブを引きずりながら少年が先刻創り出した十文字の風穴に染み込むように消えて行った。
「そうだね。また会おう」
やがて、もうもうと立ち込める黒煙に気付いた近所の人たちが集まってきた。だが、誰一人、オルテンシアを抱きながら炎を見つめる少年に語りかける者はいなかった。
少年の隻眼は何も映さず、少年の美貌は何の感情も湛えていなかった。彼の腕の中で失神しているオルテンシアの方がまだ生気があった。
背中からだらだらと血を流すオズ少年の方が重傷だったが、彼が見つめているのはひたすらにオルテンシアの顔だった。
「傷、手当てをしないといけませんよね」
腐木の洞に風が通り抜けるようなうつろな声で独り言をつぶやくと、少年は割れる人込みの中を街へと進んで行った。




