7.オルテンシアの受難
1.
こうして、オズ少年の武勇伝が1つ増えた。
「見たか? あんな美女を奴隷にして、街中を引き回しだぜ?」
「流石、未来の英雄は奴隷へのお仕置きも半端ねぇな」
「王都では生意気な奴隷の躾は名士の嗜みだそうよ」
「いいなぁ。私もオズ君に所有物宣言されて引き回しされたい……」
概ね好評なのは、少年の実績と日ごろの行いの賜物だろう。また、彼と殺人鬼フォーチュンテラーの因縁を知る者たちが少年を擁護しているのも大きい。
一方、そのしわ寄せを一身に引き受けることになったのがオルテンシアだった。
「オズの義姉だっつーからあのデカい態度も我慢してたっつーのに」
「あいつ、御主人様の剣を勝手に売り払おうとしたらしいぜ」
「私、オズ様の近所に引っ越したんだけど、毎朝薪割りをして竃に火を起こしているのはオズ様なのよ。洗濯も家の修繕も全部オズ様がやってるのよ」
「奴隷の立場を解らせてやりてぇが、オズの所有物を傷つけるわけにいかねぇしな。あの女、奴隷の立場を利用してやがるぜ」
ちなみに、これらの噂はほぼ事実である。そのためオルテンシアを擁護する者は誰1人おらず、むしろ「もっとやれ」という雰囲気が街中に充満していた。
下民の下衆な噂話にいちいち耳を貸すオルテンシアではなかったが、オズを必要以上に持ち上げ、代わりにオルテンシアをこき下ろすこの空気は、彼女自身が自覚していた以上にその心を圧迫していた。
「もうイヤ! 耐えられないわ!」
「そんな、まだ3日じゃないですか」
「もう3日よ! 私はもう外に出ないわ! あとはあなたが勝手にやって!」
ベッドの上で、一糸まとわぬ裸体を高級な羽毛布団にくるみ、オルテンシアは抵抗の意志を示した。
粗末なあばら家のガラクタ同然の調度品の中で、ベッドの上だけが異様に浮いている。オルテンシアが母の仇を討ちたい少年の心に早くも付け込んだ成果だった。
「1人で家に居る方がかえって危険ですよ」
「だったら、あなたも外に出なければいいでしょう」
「無茶言わないでください。冬の支度だってあるんですから」
越冬の準備は、少年の家だけのことではない。子供を失った老人の家や働き手の足りない孤児院など、周囲が手を貸してやらねばならない者たちがいる。
必然的に、この地域において互助はどうしても必要だった。
冒険者ギルドに依頼を出すという手もあるが、基本的に冒険者は社会的な信用のないならず者という認識である。オズのような存在が希少なのだ。
自分の意見が通らないと知って不貞腐れたオルテンシアは、この日を境に少年が何を話しかけても返事はおろか視線を向けることさえしなくなった。
だが、当然ながら今回は少年も譲らなかった。
「今日もよろしくお願いします」
と言いながら、オルテンシアにてきぱきと服を着せ、首輪を着けると鎖を手に外出するのだった。穏やかではあるが、実力行使には変わりない。そして実力勝負となると単身で竜を屠る少年の力に、魔法学校中退の元箱入り娘が敵うはずもなかった。
こうして、心理戦VS実力行使という異種格闘戦にもつれ込んだ2人の生活だったが、先に折れたのはオルテンシアだった。
折れたと言っても、彼女が少年の前に膝を屈したわけではない。彼女は心理戦の敗北を認める代わりに、もっと直接的な手段に出たのである。
2.
それは、オズがオルテンシア引き回しのついでに裏路地に暮らす老婦人の家の雨漏りを直している時だった。
オルテンシアは言葉巧みに耄碌しかけている老婦人を誘導し、古い睡眠薬を手に入れた。そして隙を見てそれをオズの夕食に混入させたのである。
「あ、あれ?」
少年は食事を終える前に、小さな頭をことんとテーブルに置くようにして眠りに落ちた。
「世話になったわね。礼だけは言っておくわ」
いつかここから逃げ出すことを見越し、彼女は少年を言いくるめて財産の大部分を他の街でも通用する手形や貴金属に変えていた。
「あなた1人が冬を越せる程度のお金は残してあげる」
彼女にとって、それが一宿一飯の恩返し――ではない。それは彼に盛ったのが致死毒ではなかったことで返したつもりである。全財産を奪わなかったのは彼女の慈悲であり高貴な者が下々に与える『施し』だった。
「さようなら。日が昇る頃にはもう、あなたの名前は忘れているでしょう」
毛皮をなめした外套を羽織り、外に出ようとしたその時だった。
ガン、ガン、とドアがやや乱暴にノックされた。
「こんな時に……」
オルテンシアは忌々しげにつぶやくと、ドアの取っ手を掴もうとしてはたと止まった。
今は、少年が役に立たない。
オルテンシアは少年の道具袋から短剣を取り出し、逆手に隠し持つ。
「……どなた?」
答えは無く、もう一度ドアがガン、ガンと叩かれる。
(まさか、ね……)
そう思いながらも、オルテンシアはドアの脇の壁に背中を付け、短剣を構えて息を殺した。
「……」
緊迫した沈黙が流れる。訪問者が立ち去った気配はない。
(こちらから仕掛けてみるか……)
このような場合、先にしびれを切らしてしまうのはオルテンシアの悪癖だった。周囲から甘やかされて育ち、自分が望んだ物は周囲が迅速に与えてくれることが当たり前だった彼女にとって、耐えるという行為自体が謂れのない罪で刑罰を受けているような苦痛だった。
そっとドアの取っ手に手をかけ、わずかに押したその瞬間だった。
「――ッ!?」
オルテンシアはほぼ無意識の領域で身の危険を察知し、反射的に手を引っ込めていた。それができたのは完全に幸運によるものであり一種の奇跡だった。
ドアと壁の隙間から、刃が生えていた。赤茶けた汚れと錆を浮かせた、汚らしい切っ先だった。
手を引っ込めるのがコンマ数秒でも遅れていたら、彼女は右手の指を何本か永遠に失っていただろう。
「フォーチュンテラー……」
穢れた剣から発する殺気は、実戦経験のないオルテンシアでも十分に感じ取ることができた。これは、悪戯の類では決してない。
少年の作戦が功を奏し、オルテンシアの名を冠する女性を殺して回る殺人鬼が再び活動を開始したのだ。
だが、殺人鬼が剣を使ってくるとは意外だった。彼女のイメージでは、フォーチュンテラーのような変質的で嗜虐嗜好の強い殺人鬼の凶器は、鈍器かもしくは短剣だった。
(どうしよう)
相手の得物は刃渡りがかなり長い。少なくとも、オルテンシアが持っている短剣よりははるかに長い。
剣がずるりと引き抜かれた。
壁越しに刃を突き立てられる可能性に思い至り、オルテンシアは慌てて飛び退る。
「ねえ、起きて」
テーブルに突っ伏す金髪に短剣の鞘を投げつけるが、薬で眠らされた少年はピクリとも反応しない。
「もう、使えない!」
流石のオルテンシアでも、完全なる自業自得であることは自覚していたが、毒づかずにいられないのが彼女という人間である。
隠れるという選択肢はない。何が悲しくて自ら逃げ道と視界を捨て去らなければならないのか。そもそもこのあばら家に隠れる場所なんて無い。
「……」
短剣に魔力を込める。刀身が赤く輝き始め、柄を持つ手にも熱気がじわりと伝わって来る。
ドアが、外からゆっくりと押し開けられる。
(まだよ、オルテンシア……)
こらえ性の無い自分を必死に落ち着かせる。
扉の向こうから黒い布が見えた。どうやら丈の長いローブのようだ。
(もう少し……)
敵の身体が、ぬっと部屋に入ろうとしたその瞬間――
「喰らいなさい! 爆炎剣、炎舞蝶!」
短剣で虚空を十字に斬る。白刃の軌跡から炎の翅をした何匹もの蝶が飛び立ち、侵入者に襲い掛かった。ローブの人影が激しい炎の渦に飲み込まれる。
「ふふ……」
オルテンシアの顔に会心の笑みが浮かんだ。だが――
ローブの人影が袖口から生やすように持っていた剣を無造作に振るう。扱う者にもそれなりの技量を要求する長剣を、それは片手で軽々と振り回した。
熱風がオルテンシアの顔を撫でた。
「ッ……!」
思わず顔を庇ったオルテンシアが次に見たのは、剣のひと薙ぎで炎の翅を無惨に散らされ、弱弱しい火の粉となって消えていく炎の蝶たちだった。
「そんな――」
十八番の魔法剣を破られた驚愕がオルテンシアを襲った。
炎の中から現れたのは、粗末な黒いローブに身を包んだ細身の人間だった。体格からおそらくは女性であろう。
口元を黒いベールで覆い、目元はフードの影になってよく見えない。だが、黒い影の奥から、赤い灯のようなものがこちらをじっと見据えているのがわかる。
「オル……テン……シ……ア……」
風が洞を通過する音のような、人のものとは思えない、生物的ですらない虚無をはらんだ声だった。
「オルテンシア……」
不気味な前傾姿勢を取り、それはずるりと入ってきた。妄執の炎のような赤い視線がオルテンシアに絡みつく。
「オルテンシア……オルテンシア! オルテンシア!」
うわ言のようだった声に、感情が実体と重みを付与していく。
「オォルテンシアァーーーーーッ!!!」
突如、憤怒の咆吼が空気を揺るがした。