4.裏切りのオルテンシア
1.
「無理」
「え?」
「だから無理。こんな暗くて汚くて危険な場所に入れるわけないでしょう?」
ここは森の奥深く。はぐれオーガが巣穴としているという洞窟の前で、オルテンシアは両手を組んでゴネていた。
「で、でもオルテンシアさんは、魔法学校にいたんですよね? だったら、一緒に来てくれると心強いんです……けど……」
「嫌よ。はぐれオーガなんて近寄りたくもないわ」
オーガの雄は固有の縄張りを作り、雌を侍らせたハーレムを形成する。縄張りを持てず、雌に好かれなかった雄オーガは『はぐれ』となり、各地を彷徨いながら武者修行をして縄張りを得る力を蓄えるのだ。
だが、彼らにはいかんせん身の回りの世話をしてくれる雌がいないためその身体は不潔の一言である。
実際、すでにこの洞窟の入り口からも異様な臭気が漂っている。
――余談だが、雌オーガはきれい好きな働き者として知られており、自分が認めた雄に尽くし、彼との間に生まれた子に無償の愛情を注ぐ習性で知られている。この地域における『鬼嫁』とは献身的な良妻賢母という意味であり、翻って『鬼のような女』とは男に媚びへつらう都合のいい女という揶揄である。
「せめて、松明を持って――」
「ねえ、私は穴に入りたくないって言ってるの。解かるかしら?」
「はい」
「行くなら坊や1人で行って」
「……はい」
少年はトボトボと洞窟に向かう。が、すぐに戻ってきた。
「あの、でしたらコレ、預かっていてください」
差し出したのは、例の長剣だった。
代わりに、腰に差していた粗末な短剣を抜く。
「洞窟の中では長い剣はかえって邪魔になりますから」
「……」
オルテンシアは顎で足元を指す。勝手に置いていけ、という意味だった。少年は言われるままに剣を置くと、チラチラと振り返りながら洞窟に入って行った。
少年の後姿が見えなくなると、オルテンシアはようやく剣を拾い上げた。
「重っ……」
憎々しげにつぶやくと、抜き放った剣を両手で持ち、ピタリと正眼に構える。
魔法学校に在籍していた時、剣の扱いについても学んでいる。むしろ彼女にとって剣は魔導書よりも重要なものだった。
(やっぱり、上質な鋼を使っている。これなら……)
目を閉じ、刀身に魔力を込める。
刀身が赤く発光し始めた。
魔法剣――鋼を触媒にすることで、単純に魔法を放つよりも高い破壊力を生み出すことができる高等技能だ。
「爆炎剣・炎舞蝶!」
剣を大上段から地面にたたきつけるように振り下ろす。
そこから炎の翅を持つ蝶が大量に飛び立った。炎の蝶の群れは渦を巻き、紅炎柱となって洞窟の天井に炸裂した。
凄まじい轟音と土埃。それらが収まった時、オルテンシアの前には砕けた岩盤によって完全にふさがれた洞窟があった。
オルテンシアはふん、と鼻を鳴らすと、まだ熱が残る剣を引きずりながら1人で山を下りて行った。
2.
「これは、いい品ですな」
「でしょう?」
輝く刀身を見ながら古物屋の店主は唸った。対するオルテンシアは会心の笑みを浮かべる。
「いくらで買っていただけるかしら?」
「金貨100枚でいかがでしょう?」
「なら、他に行くわ」
立ち上がろうとするオルテンシアに、店主は慌てて食い下がった。
「分かりました。金貨200枚で――」
「ねえあなた、私の主人をバカにしているの? 確かに今は剣を質入れしなければならないほど困窮しているけど、それでもかつては戦場にこの人ありと謳われた騎士爵なのよ?」
「ひっ……」
店主が悲鳴を上げたのは、騎士爵の言葉に怯えたのではなく、オルテンシアの灰色の瞳に宿る底なしの冷気を感じたからだった。
「あなたに騎士の誇りを金貨200枚で買い叩かれたと知ったら、主人はそれはそれはお嘆きになることでしょう。共に戦った戦友たちに、戦場に散った英霊たちに申し訳がないと。その無念は、主人を心から敬愛する我々や存命の戦友たちが受け継ぎ、必ずやその復讐を――」
「わかりました! 金貨500枚! これが、我ら卑しい商人が護国の騎士爵様に表せる敬意でございます!」
古物商は思わず平伏した。これ以上、オルテンシアの眼光と言霊が発する冷気に魂が耐えられそうになかった。
「お顔を上げて」
命じられるまま、商人はオルテンシアを仰ぎ見る。
「あなたの誠意、しかと受け取りました。このことをお伝えすれば、主人は必ずご厚意に報いようとなさることでしょう」
「おお、ありがたい」
商人は恭しくオルテンシアの手を取り、うっすらと涙さえ浮かべていた。
「では、借用書を――」
「オルテンシアさん!」
そこへ、埃にまみれた金髪隻眼の美少年が飛び込んできた。むわっと漂う汚物と血の臭い。
「非道いじゃないですか! 勝手に帰っちゃうなんて!」
形の良い細い眉をきっと吊り上げ、少年はオルテンシアに詰め寄った。
「しかもそれ、僕の剣ですよね! 何で勝手に質入れしてるんですか!」
「あ、いえ、これは違うの……」
しどろもどろに言い訳をしながら、オルテンシアの灰色の瞳はある一点に釘付けとなっていた。
少年が背負う風呂敷に包まれた巨大な丸い『何か』。風呂敷には赤い染みができ、今もぽたぽたと床に雫を落としている。
「もう! 冬の蓄えならこれから頑張って稼ぐって言いましたよね! 返してください。それ、大事な剣なんですから!」
「ま、待って。あなた、その、幽霊じゃないわよね?」
少年は、ぷくっと頬を膨らませて腕を組み、オルテンシアをきっと睨んだ。
「何をバカなことを言ってるんですか。大変だったんですよ、オーガをやっつけたと思ったら、岩で入り口が塞がっててて……」
危く漏れかけた「でしょうね」という言葉を飲み込む。
「ほら、行きますよ。お店が閉まる前にコレをギルドで換金しないと、晩御飯が買えません!」
オルテンシアの手を引き、店を出ていく少年。オルテンシアは慌てて店主から大剣を奪い取ると少年の引っ張られて半ば引きずられるように店を出て行った。
「待って」
「はい?」
少年の蒼い瞳に、もう怒気は見えなかった。
「教えて。洞窟の入り口が塞がっていたっていうけど、あなたはどうやって外に?」
「ああ……」
少年は短剣を抜いた。刀身にパリパリと紫電が走る。
「剣に魔力を込めると、普通に魔法を放つより威力が上がるんです」
まるで生活の知恵でも紹介するように解説する少年。対するオルテンシアは彼に気付かれないように生唾を飲み込んだ。
言うまでも無く、彼が使ったのは魔法剣である。だが、それは魔法学校に入学できた者でさえ一握りの上位者しか使えない高等技術のはずだった。
しかも、彼が今見せた魔力の属性は『雷』。炎や氷、風といった一般的な他の属性とは異なり、膨大な魔力消費ゆえに生まれつき高い魔力を持つ者にしか扱えない珍しい属性だった。
オルテンシアも、雷属性の魔法詠唱に成功したことはない。
(この子、一体……)
灰色の瞳に血の気が差して紫色に変わる。オルテンシアは初めて自分の主である少年個人に興味を抱いていた。
3.
冒険者ギルドは大騒ぎになった。農繁期を迎え、依頼人や冒険者だけでなく商人や交渉人、果ては特定の冒険者のファンなどの人々でごった返しているところに、突然血と悪臭を纏うオーガの生首が持ち込まれたのだから無理もない。
「オズ君~!」
泣きつくような悲鳴を上げたのはおなじみの受付嬢である。
「依頼を達成したのは偉いけど! オーガ討伐の証は角だけでいいんだよ?」
「すみません……」
オズ少年はしょんぼりとうなだれた。
「僕、知らなくて……」
オズに他意はないのだろうが、大人としてそれを言われると弱い。誰もが自分たちの忙しさにかまけて、彼に冒険者のいろはを教える者が誰もいなかったのは事実である。
「それにしてもブッたまげたな。本当にあの小僧1人でやったのか?」
「ちっ、今まで薬草採取とドブネズミ狩りしかして来なかった奴が、これで一気に鉄ランクか……」
「こりゃあ、新しい英雄の誕生かも知れねえな」
称賛と羨望が入り混じる中、騒ぎはまだ終わっていなかった。
「これ、ただのはぐれオーガじゃないんじゃないか?」
と言い出す者が現れたのだ。
「コイツぁ、もしかして……」
騒ぎを聞きつけた古株の冒険者が言葉を失った。
「この頬の傷跡、間違いねぇ! かつて王都を荒らして騎士団を壊滅させたオーガバトラー、『稲妻疵』だ!」
「マジかよ……」
オーガバトラーとは、はぐれオーガが武者修行をしている間に縄張りや雌への興味を失い、ひたすら己を鍛え強敵を倒すことに専心するようになった変わり種である。その強さはピンキリだが、稲妻疵のように異名を持つ者は例外なく縄張り持ちのオーガよりもはるかに強い。
「……」
誰もが言葉を失い、呆然と金髪隻眼の少年を見つめた。少年はきょとんと首をかしげている。
「「「す、すげぇぇぇぇぇぇーーーーーッ!!!」」」
冒険者ギルドが歓声に満ち溢れた。
「おい、こんな逸材をただ青銅から鉄ランクに上げるだけでいいのかよ!?」
「ああ。名前付きのオーガバトラーの討伐なんて金か白金ランクでないと達成できねぇぜ?」
もはや、誰も少年の功績を疑う者はいなかった。少年以外の誰かがこのオーガバトラーを倒したとして、その偉業を無名の少年に譲るメリットが無いからである。
「……」
あまりの急展開に、流石のオルテンシアも狼狽を隠せなかった。
(この子、使えるわね)
ようやく思考を切り替えると、彼女はまずやるべきことをすることにした。
「ねえ。御主人様?」
少年の耳元で、誰にも聞こえないようにこっそりと耳打ちする。
「さっきは、ごめんなさい。私、その、御主人様がオーガを倒せるなんて思ってなくて、本当にごめんなさい。私、怖くなって、逃げてしまって……。剣を売ろうとしたのは、少しでもあなたの役に立てないかなって思って……」
言っていることは謝罪らしき言葉の羅列であり、意味は支離滅裂である。元より彼女は自分の行動に整合性を持たせようとは思っていない。
子供の説得に重要なのは仕草である。
オルテンシアは誰にも見られないように、媚びるような上目遣いをして見せた。
声が詰まり、目尻から涙がぽろりと零れ落ちる。
屁理屈を押し通すために、オルテンシアは己の武器を最大限に使用する。
すがりつくような手つきで少年の肩に触れ、腕をそっと豊かな胸に押し付ける。
性に目覚めていない少年にはこのくらいの接触で十分だ。母親のぬくもりを持つ存在が涙を見せるだけで、この手の純朴な少年は困惑する。
「泣かないで」
案の定、少年は真摯な眼差しでオルテンシアを見つめ返して来た。
「僕の方こそ、山の中に置き去りにしちゃって、ごめんなさい。オルテンシアさんも怖かったんですよね?」
「ごめんなさい」
「もう謝らないで。僕は気にしてませんから」
誰かが少年を呼ぶ。少年は笑顔で手を振ってその方向へ向かった。
冒険者ギルドのロビーは酒場も兼用している。そこで一足早いお祭り騒ぎが始まった。もっとも、主役である少年が酒を飲めず、疲労のため早々に眠ってしまっていたが。
広間の隅にあるソファーの上で、すやすやと寝息を立てる少年を膝枕してやりながら、オルテンシアは気配を消すように黙りこくって周囲の喧騒を見つめていた。
少年の強さは想定外だったが、むしろ嬉しい誤算だった。彼を謀殺してなけなしの金を奪うより、人を疑うことを知らないこの少年に取り入り、彼女に都合よく教育した方が社交界への道のりは近いかも知れない。
(せいぜい、愛して差し上げますわ、御主人様)
その口元に、うっすらと浮かぶ酷薄な笑みを見た者はいない。