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2.無垢な少年剣士と奴隷堕ちの令嬢

  1.


「ごめんね、1人(ソロ)でこの依頼を受けることはできないの」


 前髪で目元を覆ったギルドの受付嬢はすまなそうに告げた。


「そんなぁ……」


 子犬のような瞳で見つめられた受付嬢は、たじろぎながらも「規則だから……」と何とか突っぱねた。どちらかと言うと、突っぱねたのは相手自身ではなく、相手の心に沿いたいと願う自分自身の心である。


「せっかくのチャンスなのに……」


 肩を落としたのは、一見少女かと思うほど可憐な顔立ちをした少年だった。おかっぱに切り揃えたプラチナブロンドの髪がさらさらと流れ、頬や唇の色づきは熟れ始めの果実を思わせる。


 しかし、最も目を引くのは、少年の左目に当てられた眼帯(アイパッチ)だった。少年は隻眼だったのだ。それが彼の美しさに儚い印象を添えていた。


「パーティかぁ……」


 すがるように周囲を見回す少年。だが、その場にいる冒険者の誰もが気まずそうに目をそらしてしまう。


「今はみんな忙しい時期だから。もう少し待てば、ね?」


 今は秋。これから収穫が始まる。

 冒険者ギルドでは田畑の護衛や輸送などの依頼が急増し、誰もが冬に備えてバリバリと依頼をこなさなければならない時期である。


 今の冒険者たち(かれら)に、幼子を卒業したばかりのような少年の世話をする余裕は無かった。


「本当にごめんね」


 受付嬢は目の前の書類に目を落とす。

 『はぐれオーガ討伐』。それが少年の持ってきた依頼書だった。

 これを見た時、受付嬢は頭を抱えた。依頼書の引き受け条件には冒険者ランクが記載されていなかったのである。


 通常、はぐれオーガ討伐の依頼は(カッパー)(アージェンタム)ランク以上の冒険者でなければ受けることができない。


 ごく稀に発生する書類のチェック漏れなのだが、低ランク冒険者にとっては名を上げる千載一遇のチャンスでもあり、1度張り出された依頼書は訂正しないのがこのギルドの不文律だった。


 最下位ランクである青銅(ブロンズ)ランクの少年がこの依頼書をいち早く手に取ることができたのは幸運だった。だが、『魔物討伐依頼は2人以上のパーティでなければ受けられない』というギルドの掟が幸運を不運に変えてしまっていた。


 ギルド内には「早くその依頼書を俺たちに回せ」という無言の圧力が受付嬢を締め上げている。


「焦ってランクを上げる必要はないんだよ? 君の仕事ぶりは評判いいから、初心を忘れなければ自然とランクは上がるから、ね?」


 少年はつい先月冒険者登録をしたばかりだった。

 そんな彼にやってきた依頼と言えば近場の草原で薬草を採集したり、下水道に棲み付いた巨大ラットを駆除したりといった駆け出し中の駆け出しがするようなものばかりだった。


 逆に言えば、その程度の雑用のような仕事で依頼主からギルドにお褒めの言葉が届くのだ。

 少年には一攫千金を狙うのではなく、コツコツと実績を積み上げる堅実な冒険者になってほしいという思いもあった。


 少年はようやく諦めがついたのか、トボトボとカウンターを離れていく。


 その腰には、彼の体格には少々持て余し気味な長剣(ロングソード)があった。

 父親か誰かからのお下がりなのだろう。飾り気のない実用性重視の代物だが、手入れは欠かしていないのか、磨かれた金具は少年の髪と同じくらい陽光をキラキラと反射させていた。


「あのね!」


 受付嬢はかなりの逡巡の後、意を決して小さな背中に声をかけた。


「一応、明日までこの依頼はキープしておくから」

「え?」


 少年の瞳が輝いた。突き抜けるような晴天の空を思わせる、青い瞳だった。この瞳の輝きを見るために、受付嬢はささやかな罪を犯してしまったと言っていい。

 彼の力になってあげたいというある種の母性本能が、彼女の背中を押してしまった。


「お日様が沈んだら、裏路地にある酒場に行ってみて。もしかしたらパーティを組んでくれる人がいるかも知れない」



  2.


 まっとうに生きる者ならば決して近寄ることはないであろう、埃とゴミの散乱する灯りのない裏路地にその酒場はあった。

 まるで客を拒むかのような重い扉の向こうは薄暗く、店内には陰気で野卑な汗臭さが満ちていた。


「何だ坊主、ここはガキの来るところじゃねぇぞ」


 この店の主と思しき、盛り上がった筋肉とでっぷり太った腹をしたひげ面の巨漢が、低くドスの効いた声で凄む。

 少年が一瞬怯んだのは、相手の強面に対してではなく、いつも少女と間違えられる自分がひと目で『坊主』と呼ばれたことへの驚きだった。


 少年はすぐに笑顔を取り戻すと、プラチナブロンドの髪をさらりと揺らして会釈しながらちょうど開いていた小さなテーブル席にちょこんと座った。


 店主はそれきり、少年の方は見ようとしなかった。

 何人かのガラの悪い男たちが少年を見てひそひそと囁きながら嗤っている。


 少年は好奇心に満ちた目で(くら)い店内をキョロキョロと見回していた。


「おいゴラァ!」


 突然の怒声に、少年の華奢な体がぴょんと跳ねた。そこかしこで失笑が漏れる。


「サボってんじゃねぇ! 客に注文聞いてこい!」


 どうやら怒鳴られたのは少年ではなくカウンターの隅に立つウェイトレスのようだった。置物のように佇んでいたウェイトレスはため息を1つつき、埃っぽい店内には妙に不釣り合いな洗練された歩き方で少年の前に立つと、乱暴に水の入ったコップとメニューを放った。


(きれいな人だ)


 少年は思わず見惚れた。


 ウェイトレスは強くウェーブした銀色の髪を煩わし気にかき上げる。


「注文は」


 客商売にあるまじき、静かで冷たい命令口調だった。でもそれが彼女の温度を感じさせない灰色の瞳と妙に合っている。


「んー……」


 じっとメニューに見入る少年。ウェイトレスは鼻を鳴らしてその場を去ろうとした。


「あっ、えっと、ミルクください!」


 誰かが吹き出した。

 ウェイトレスは返事もせずにくるりと踵を返す。


「あっ、あの、お姉さん!」


 ウェイトレスはわずかに首を回し、あとは目線だけで少年を見る。


「スカート、めくれてますよ」


 ついに、店内が爆笑に包まれた。


「面白れぇ坊主だなぁおい!」


 身なりだけは小洒落(こじゃれ)ているが、だらしなく垂れた目とにやけた口元から卑しさを垂れ流しているような男が、酒臭い息を吐きながら少年に絡んだ。


「アレはな、俺たちに見せてんだよ」


 ウェイトレスのスカートは後ろ側の布地がほとんど無く、着けている黒いインナーショーツはほとんど紐状と言ってよかった。紐は豊かな尻肉に挟み込まれて、一見何も履いていないようにすら見える。


「坊主、ここがどこか知ってて来たのか?」


 少年はフルフルと首を振る。


「冒険者ギルドの人に、ここに来れば僕とパーティを組んでくれる人がいるかも知れないって……」

「何だそりゃ!?」


 男はのけぞると所々抜けた歯をむき出してヒャハヒャハと笑った。


「そりゃあそのギルドの人ってのは洒落(しゃれ)(わか)る奴だなぁ。いいか坊主、ここはな――」

「おい」


 店主の怒気を含んだ声が飛んできた。ダン! と音を立てて少年のテーブルにジョッキに入ったミルクが置かれる。


「余計なことは言うな」


 凄みを聞かせる店主に、男は「へいへい」と口先では余裕を見せながら体を哀れなほどに縮ませる。


「坊主、それを飲んだら出ていけ。店の空気が悪くなる」

「はい」


 意外と素直にうなずいた少年に、店主は一瞬(いぶか)し気な顔を見せるが、すぐに無言のままカウンターの向こうへ戻っていった。


 少年はミルクをちびちびと舐めるように飲みながら、店内を観察した。

 ウェイトレスは3人。よく見れば、みんな尻をむき出しにしたスカート――というよりは前掛け――を着けていた。


 客はみんな男だ。誰もがぎらついた獣のような欲の深い目つきをして、洗練されたデザインをした仕立てのいい服に()()()()()()


 男たちは時々ウェイトレスを呼びつけ、酒や料理を運んできた女の尻をまさぐり、何かを書きつけた紙をひも状の下着に挟み込んでいた。


 あの態度の冷たいウェイトレスだけは誰にも呼ばれずにいる。3人の中では一番整った顔立ちをしているのだが、他の2人のようにすり寄るような微笑みを浮かべていないせいだろうか。


 そんな彼女の温度のない瞳が、なぜかこちらを見つめている気がした。少年は好奇心の赴くままに、他の男たちを真似てウェイトレスを見ながら指先で招くような仕草をしてみた。ウェイトレスは呆れたように小さく肩をすくめ、少年の座るテーブルに近づいてきた。


 その時だった。颯爽と歩いていたはずのウェイトレスが不意に足をもつれさせた。


「あっ」


 小さな悲鳴はどちらのものだったのだろう。

 少年が気付いた時には、ミルクがテーブルにぶちまけられ、滴りが少年の服を汚していた。


()()()()()()!」


 店主の雷鳴のような怒号が店内に響いた。

 少年ははっとウェイトレスを見る。

 店主の剛腕が無言でテーブルを拭こうとするウェイトレスの銀髪を乱暴につかみ上げた。


「何をしてやがる!」


 ウェイトレスの顔がテーブルに押し付けられた。(あら)わな尻が男たちの前に高々とさらけ出される形になる。彼女を見る周囲の目が爛々(らんらん)と輝いていた。


「あっ」


 少年は思わず声を上げた。店主の手に、黒い革製のバラ鞭が握られていたからだ。

 店主が手を振り上げる。


 パンッ!


 破裂音が店内に響き渡った。


「まずは客に詫びだろうが!」


 バシッ! バシッ!


 鞭が左右に振るわれるたびに、形の良い尻がプルンと波打つ。きめの細かい白い肌に、いくつもの赤い筋が浮かぶ。


「言え! 『申し訳ございません』だ!」

「……」


 店主が鞭を振り上げる。


 バシッ!


「ンッ……」


 くぐもった声が漏れた。店主は、見た目や音は同じでも与える痛みを変化させる巧みな鞭技を持っていたのだ。

 引き締まったヒップがさらにこわばり、深い尻えくぼをつくる。


 再び鞭が上がった時、

「申し訳、ございません……」

 食いしばった歯の間から謝罪の言葉が絞り出された。


 パァン!


「あっ――!?」


 それでも、鞭は容赦なく振るわれた。

 店主を睨みつける灰色の瞳に血の気が差して淡い紫色になっていた。怒りと屈辱の色のようだった。


「俺への詫びはどうした?」

「……」

ミルク(商品)を無駄にしやがって。お()ェみたいな役立たずに飯と寝床を世話する俺への詫びがあるだろう!?」


 黒い鞭の先が、赤く腫れた尻をいやらしく撫で回す。


「言え。『役立たずで申し訳ございません』だ」


 ぺしぺしと、バラ鞭がオルテンシアの尻を威嚇するように軽く叩く。


「……」


 だが、彼女はなぜか頑なに店主への謝罪を口にしようとはしなかった。


「このクソアマ!」


 パァン!


「んグッ――!」


 バン! バシン!


 鞭の音が変わった。同時に、白い柔肌に走る赤い線にも不気味な深みが宿る。それを見つめる観衆の興奮にも、どこか人間味のない冷たさが漂い始めた。


「言うか? 『役立たずなオルテンシアをお許し下さい』と」

「……」


 バシン! バシン! バシン!


「ンッ……クッ……アァッ!」


 細い背中が反り上がった。もはや店主は彼女の謝罪を求めてはいなかった。振るわれる鞭の意味はすでに『お仕置き』から『刑罰』へと変わっていた。


「バカだねぇ」


 先刻の男が、少年にこっそり語り掛けて来た。


「一言詫びればいいものを。()ご令嬢のプライドってやつかねぇ」


 ビシッ! ビシッ! ビシッ!


 鞭の音が鋭さを増す。尻に走る線は今や無惨などす黒さを帯びていた。


「クゥッ……うぅ……」


 少年の目と、涙にぬれた淡い紫色の目が合った。その瞬間、少年はハッと我に返った。


「もうやめて下さい!」


 少年は叫んだ。


「もうミルクはねぇ。出ていけ」


 少年を無視して鞭が振り下ろされる。だが――


「ん!?」


 間に入った少年の細腕が、店主の屈強な腕を止めていた。


「これ以上は可哀想です! とても痛そうじゃないですか!」

「坊主には関係のねぇ話だ」


 凄みをきかせる巨漢の店主の眼光を少年はまっすぐに見返した。


「僕は客です」

「あん?」


 店主の太い眉がぴくりと動いた。


「客だと? 笑わせるな。坊主、お前は何も――」

「ここは、お姉さんを売っているお店なんですよね?」


 驚愕のさざ波が店内を走った。


「だったら、僕は客です。僕はこのお姉さんを買います!」


 少年は懐から1枚の紙片を取り出すと、他の客がそうしていたように、オルテンシアの尻に食い込むTバックに挟み込んだ。


「本気か?」


 紙片は、ギルドが発行する金貨の預かり証だった。


「……こいつはまだ()()()の途中でまだ売り物の形になってねぇ」

「かまいません。僕はこの人を買います」


 店主がちらりと目を走らせる。

 先刻から少年に絡んでいるにやけ男が呼応し、少年の肩に馴れ馴れしく手をかけた。


「坊ちゃん、悪いことは言わねぇ。あの女だけはやめとけ。どうしても欲しいなら、仕込みが終わるのを待つんだな」

「でも、僕は――」

「まぁ聞けって。アレはいわくつきなんだ。聞いたことはねぇか? 『悪逆令嬢オルテンシア』の名前をよ」

「え――」


 今、この国に生きる者で『悪逆令嬢オルテンシア』の名前を知らない者はいない。

 平民出身で国民から圧倒的支持を得ているミネルヴァ王太子妃が魔法学校に在籍していた頃、王子の恋敵としてミネルヴァをいじめ倒し、心身に深い傷を負わせたと言われる侯爵家の令嬢。


 慈悲深いエピソードに事欠かない、聖女の再来と言われるミネルヴァ王太子妃をして「貴女だけは絶対に許さない」と言わせしめた、いわゆる悪役令嬢の代名詞。


「ミネルヴァ様が少し脚を引きずっていらっしゃるのは、あの女が階段から突き落としたからだ。他にもならず者を大勢雇って拉致させようとしたり、友人を学校から追放して孤立させたり、可愛がっていた子犬を惨殺して首を届けたりしたらしいぜ?」


 ミネルヴァが王子の婚約発表の日、お祝いに訪れたオルテンシアを大勢の諸侯の前で告発し、その悪行の数々を暴露した話は今も語り草である。

 オルテンシアは見苦しく言い逃れをしようとしたが、ミネルヴァが周到に保存していた証拠品の数々と、これまでオルテンシアの家名に怯えて口を閉ざしていた者たちが証人として何人も名乗りを上げたため、ついに裁きの場に立たされることになった。


 裁判の場では、手の平を返したかつての取り巻きたちによってオルテンシアの更なる悪行が明るみに出、被告席で平然と立つオルテンシアよりも先に証人席に座っていたミネルヴァがトラウマを発症して泣き叫びながら失神してしまった話も有名である……


 当のオルテンシアはまるで他人事のように男の話を聞き流していた。


「でも、悪逆令嬢オルテンシアは自殺したって……」

「ああ。侯爵家から罪人を出さないために、判決が出る前に死んだことにしたのさ」


 事実は今少し込み入っており、侯爵家はオルテンシアを本当に自死させる計画を立てていたのだが、王太子妃ミネルヴァが「死んだ程度で償えると思うな!」と発言していたため実行できず、水面下の交渉の結果、公式にはオルテンシアは死んだことにして家名を剝奪し、奴隷階級に堕として王都から追放することでようやく話がついたのだった。


「あの目を見ろ坊ちゃん。あの女、まったく反省なんかしちゃいねぇ。むしろ、自分を奴隷に堕としたお妃さまを逆恨みしている目だぜ」


 無垢な少年の目から見ても、テーブルに押し付けられるオルテンシアの瞳には一切の温度を感じない。むしろ、静かな憎しみに満ちた極低温の冷気を感じる。


「お綺麗なのは肉体(からだ)だけさ。心はねじ曲がって根っから腐ってやがる。とても坊ちゃんの手に負えるタマじゃねぇ。悪いことは言わねぇから、どうしてもアレがほしいなら、あの傲慢さ(プライド)がへし折れて奴隷根性が染み付くのを待つんだな」

「それでも……」


 少年はオルテンシアの痛々しく腫れあがった尻をそっと撫でた。その手つきには一切の邪念がなく、ひたすらに傷ついた肌をいたわる優しさに満ちていた。


「僕は、オルテンシアさんを買います。今すぐに。今、彼女じゃなきゃ、僕はダメなんです」


 にやけ男は肩をすくめてお手上げのポーズをとった。

 店主は渋面を作ってオルテンシアの尻に挟まった紙片を引き抜く。そこには決して安くない金額が書かれていた。


「……いいだろう。本当はちと足りねぇんだが、服を汚しちまった分をまけてやる」


 店主はオルテンシアを立たせると、少年の方に押し付けた。


「ご主人様に礼を言え」


 だが、オルテンシアはきっと店主に振り返ると傲然と言い放った。


「私はもうあなたの商品じゃないわ。指図は受けない」


 その場にいた誰もが呆れ返ったのは言うまでもない。


「最後にもう一度聞くぞ坊主。返品は受け付けねぇ。本当にコレを買うんだな?」

「はい」


 少年の隻眼は蒼く澄んでいる。


(世の中ってのは上手くできてねぇもんだ)


 奴隷は主人を選べない。この少年のように綺麗な目をした者を(あるじ)にできる者は、奴隷の中では幸せな部類に入るだろう。なのに、彼が選んだのがよりによって悪逆令嬢とは――!


 そう思った時、店主は口の中に苦いものを感じた。


 オルテンシアがわざと転んで少年の服を汚したのだと今更ながらに気付いたからだ。


(この(アマ)、奴隷の分際で主を選びやがった)


 胸がムカムカする。いっそ土壇場で契約を台無しにしてこの女の慌てる顔を見てやろうかとも思ったが、それは一瞬のことだった。

 彼は商売人だった。この性悪を奴隷に仕込む手間暇やリスクを考えると、ここできれいさっぱりと厄介払いできる機会を生かすことにした。


「今からこの女はお前の所有物(もの)だ。煮るなり焼くなり好きにしろ」

「はい。ありがとうございます!」

「……」


 どうもこの少年は店主の調子を狂わせる。店主は少年の純粋な瞳から逃げるようにオルテンシアを睨みつけた。


「おい、御主人様に誓いを立てるのを忘れるなよ」

「……」


 オルテンシアはぷいと目を反らした。


 まだあどけなさの残る少年と、尻肉をむき出しにしたオルテンシアが店を去ってしばらくの間、店内は無言だった。


「……変な奴」


 にやけ男が呆れた顔でつぶやいた。

 店主は無言だったが、その目は今しがた少年と交わした契約書をじっと見つめていた。書類に書かれた彼の名前を脳裏に刻み込む。商売人の勘が告げている。あの少年には何らかの形で投資をしておくべきだ、と。



  3.


「礼は言わないわ」


 店を出るとすぐにオルテンシアは言った。


「私は買ってくれなんて一言も言ってない」

「ご迷惑でしたか?」


 少年の瞳が、恐る恐るオルテンシアを見上げていた。


「商品は自分を買った客に文句はつけないわ。ただ、あれで私を助けただの救っただの思いこんで恩を着せられるのは迷惑ね」


 オルテンシアの言葉を理解しているのかどうかは怪しいが、少年は無邪気に微笑んだ。


「大丈夫です。僕は貴女が必要だから買った。それだけです」

「……」


 オルテンシアはつんとそっぽを向いた。顔はそっぽを向きながらも、瞳だけは少年の方を向いて観察する。


(平民か……)


 正直、それだけで彼女の少年に対する興味は8割ほど減じた。だが、彼が決して安くない金額をあっさりと吐き出して自分を買った事実は無視できない。


 彼女が次に目をつけたのは、彼が大事そうに抱えている長剣(ロングソード)である。


 初めは細い十字架かと思った。それくらいこの剣には余計な装飾が無かった。だが、それは決して手抜きで作られたものではなかった。むしろ、ある種の執念を感じるほどに徹底的に無駄を省き、そぎ落とした結果に残った、斬撃の権化とも言うべき代物だった。


 見る目のある者が見なければ、この剣の真価はわからないだろう。

 その点、生まれた時から様々な超一級品に触れて来たオルテンシアには、物の真贋を見抜く目は備わっていた。


(一介の冒険者風情が手に入れられる代物じゃないわね)


 もしかしたら、祖父か父親が騎士爵(ナイト)だったのかもしれない。こんな業物を持っていたのだから、少しは戦場で名を馳せたのだろう。

 少しだけ、少年を見直す気になった。

 と言っても、見直すのは少年という個人ではなく、彼の身体に流れる血筋である。


「ねえ」

「はい!」


 澄んだ蒼い瞳がオルテンシアを見上げた。まるで、自分に手を差し伸べる者はみんな優しくしてくれると信じて疑わない子犬のような目だった。


「あなた、お金持ちなのね」


 オルテンシアがわざと粗相をして彼の気を引こうとしたのは、彼女なりの先行投資だった。ああしてアピールしておけば、いずれ彼はオルテンシアを買いに来ると踏んでいた。

 もっとも、彼女がアプローチしたのは少年が最初だったが、彼だけにするつもりはなかった。世間を知らなさそうなお坊ちゃん――人間の悪意には底が無いということを実感していない男――には何らかの形で印象的な出会いを演出するつもりだった。


「でもまさか、即金で買われるとは思わなかったわ」

「全財産ですから」


 あまりにも何事もないように言われたので、流石のオルテンシアも反応が一拍遅れた。


「は?」

「ですから、オルテンシアさんを買うのに全財産使い果たしました。明日は何が何でも依頼を達成しないと、パンを買うお金もありません」


 頑張りましょうね、と少年はなぜか楽しそうに笑った。


「じょ――」


 冗談じゃない、という言葉をオルテンシアは寸でのところで飲み込んだ。素寒貧なのは彼女も同じだ。今、彼の元を離れるわけにはいかない。


 奴隷という身分にもまだ利用価値がある。


 しかし、オルテンシアの思考は、すでに『いかに少年の利用するか』から『いかに少年を廃棄するか』にシフトしていた。


「そうね、頑張りましょう。御主人様」


 オルテンシアの灰色の目は、冷たい鏡となって少年を映している。


「そう言えば、御主人様の名前を聞いていなかったわね」

「オズです。よろしくお願いします」

「オズ、ね……」


 この時はどうせすぐに忘れてしまう名前だと、オルテンシアは高を括っていた。

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