16.悪逆令嬢の破滅
1.
冬に閉ざされた街は、今宵限りの喧騒に満ちていた。
新年を祝う祭りである。
ここ冒険者ギルドも、今年最後の依頼を終えて報奨金を得た者たちが、今年1年を生き延びた喜びを酒の肴に羽目を外して騒いでいた。
オズ少年はその場に短い間だけ参加した。お世話になったギルドの受付嬢や、共同で依頼を受けた冒険者らに挨拶をして回ると、騒ぎに紛れてこっそりとその場を抜け出した。
その背後には、少年とお揃いの眼帯をしたオルテンシアが静かに付き従っている。
「僕、みんなで無礼講ってちょっと苦手で」
微笑むオズの空色の瞳に、少しだけ寂しさの色が差していた。
「ずっと母さんと2人きりで、その後は1人だったから」
少年の、寒気に赤らんだ手が目に留まった。温かい料理を作り、薪を割り、剣を振るい、そしてオルテンシアを優しく撫でる、小さな手。
身体の芯から沸き上がる、そんな彼の手を取って肌で温めてあげたいという欲求をオルテンシアは必死にこらえた。
そうしてあげれば、彼がどれだけ喜ぶかを知っていながら、彼女にはそれがどうしてもできなかった。
――炎のカード。意味するところは破壊、喪失、つまりは破滅。
喪われると分かりきっているものを与えるのは、あまりにも残酷だ。
家に戻った2人は、ミルクと肉が多めに入ったスープと少しだけ上等なパンでささやかな新年のお祝いをした。
「お酒って美味しいの?」
小さな杯に入った葡萄酒を口にするオルテンシアに、オズは興味津々といった眼差しを向けて来た。
「御主人様のお口には合わないかも。苦くて、ほんの少しだけ甘くて、舌が痺れるような味です」
「それが美味しいんだ」
「ええ。とても」
辛い現実を忘れることができる味だから。
だがこの時、実はオルテンシアは酒を飲むふりをしていただけだった。オズの関心を惹くために。
「ひと口だけ、いい?」
案の定、オズは子猫のように無邪気な好奇心をまっすぐに向けて来た。
オルテンシアは黙って杯を差し出す。
それは、彼女が主に行う最後の裏切り。
「うわぁ……」
少しだけ口をつけて、少年は顔いっぱいに渋面を作った。
「何これ? 喉が焼けそう」
「いずれ、それが美味しいと感じられる時が来ますよ」
オルテンシアが差し出したのは、大の男でも一気に煽ればあっという間に酔い潰れるほどの強さを持つ酒だった。
「ふぁ、あ、あれ……?」
当然、アルコールに慣れていない少年の小さな身体で耐えられるはずもなく、彼はころんと床に倒れ、寝息を立て始めた。
オルテンシアはそんな彼の身体を毛布に包み、ベッドに運んだ。念のため身体を横向きにして寝かせる。
「ごめんなさい」
少年の眼帯を外す。
そこには、刃物を突き立て、抉られたような痕を残して、ぽっかりと黒い穴が空いていた。
そんな惨たらしい傷痕に、オルテンシアはそっとキスをした。
「さようなら、愛しいお方」
2.
そこは、宴に沸く街とは対照的に、シンと静まり返っていた。
街はずれの小さな墓地。
石の塀に囲まれた区画の奥隅で、オルテンシアは凍える身体を抱きながら1人佇んでいた。
「こんなところに1人でいるのは危ないよ、お姉さん」
どこか淀みを含んだ、虚ろな風の音のような声。
いつからそこにいたのだろう。墓石の影から、闇夜の一部が剥がれたように人影が1つゆらりと立ち現れた。
「怖い殺人鬼に出会うかも知れないから」
ずらりと抜かれる錆びついた長剣。
「あなたに逢いたかったのよ、占い師」
薄紫色の瞳が、黒い影をまっすぐに見つめる。
「あなたも、私に逢いたかったんでしょう? あなたが憎み、探していたオルテンシアは私だった。殺されたオルテンシアたちは、新人の娼婦、新人のメイド、引っ越して来た新妻、みんな他所から流れて来た者たち。落ちぶれた貴族の娘が流れ着きそうな場所にいたオルテンシアたち。そうよね?」
「そうなの? よくわからないけど」
フードとヴェールに隠された首が傾げられる。だがその瞬間、人影の何かが変わった。見た目にはわずかに体の向きと姿勢が変わったに過ぎない。だがそれだけで、影が纏う雰囲気はがらりと変わっていた。
まるで、違う人間と入れ替わったかのように。
「そうよ。私はずっとあんたを探していた。あんたを憎んでいた……。殺したいほどに……」
枯れ木のような手が、フードとヴェールを取り去った。
だが、その顔は依然として長い前髪によって目元を隠されている。
「正直、ちょっと驚いた。侯爵家のご令嬢様が私なんかに気付くなんて」
ピッと1枚のカードが風に舞う。それは、オズがギルドであいさつ回りをしている間にオルテンシアが受付嬢にこっそりと手渡したものだった。
そこには、彼女と墓地で2人きりで会いたいという旨が記されていた。
「どうして、私がフォーチュンテラーだって分かったの?」
「臭いよ」
「え?」
受付嬢――フォーチュンテラーはローブを袖を鼻に当ててすんすんと嗅ぐ。
「私、そんな臭い?」
「食人花の甘い匂い。あの子が教えてくれたわ。食人花は白粉の原料になるって。あの日、私を襲った殺人鬼からも、ギルドの受付に立つ貴女からも、かすかに甘ったるい匂いがした」
「愛用の化粧品が同じってだけで、私を疑ったの?」
「食人花から作られる白粉は高級品よ。その特徴は、肌に優しく、とてもよく馴染むこと。人間の血肉で育った植物を原料にしているんだから人間と相性がいいのも頷けるわ。貴女には、この白粉がどうしても必要だった。前髪だけでは隠し切れない焼け爛れた肌を隠すために」
「そっか。敵わないわね、貴族様には」
オルテンシアはうつむき気味に顔をそらす。
「もう、貴族じゃないわ……」
「貴族よ」
黒い人影の中で、白く浮かび上がった口元が嘲笑う。
「今の今まで私の顔なんて忘れていたくせに」
胸にズキリと鈍痛が走る。
「思い出したの。あの年、魔法学校に平民枠で入学したのはミネルヴァの他にもう1人いた。その娘は、ミネルヴァにとってたった1人の友人で、だから、だから私は……」
当時、悪逆令嬢と呼ばれたオルテンシアである。その被害者が後の王太子妃ミネルヴァだけであるはずがなかった。
「私は、その娘にありとあらゆる嫌がらせをした。その娘を学校を追い出し、ミネルヴァを孤立させるために……。それだけのために……」
「ありとあらゆる、ね」
風がぶわりと黒いローブを吹き上げた。はためく前髪の奥から、ぎょろりと赤い眼球がのぞく。
「もっと早く思い出すべきだった。貴女のその顔……焼いたのは私……。取り巻きに貴女を抑えつけさせて、占いもそう……貴女の顔をどう傷つけるか……カード占いで決めて……。あの頃の私は……人間じゃなかった……」
「言いなよ、全部。あんたが私に何をしたって?」
「剣のカードが出たから、まぶたを切り取った……。炎のカードが出たから、貴女の顔を焼いた……魔法剣の練習台だと言って……」
オルテンシアの歯の根がガチガチと震え始めたのは、寒さのためだけではなかった。
「懐かしいね。思い出すなぁ……。なぜか私だけ居残りをさせられて、帰り道にならず者に乱暴されたっけ。試験で不正をしたって身に覚えのない罪を着せられて、酷い体罰を受けたのも貴女の差し金かしら」
「あ、あぁ……」
身体の奥から発する悪寒と震えに耐えかね、オルテンシアは自らの身体をかき抱く。
「思い出した? ならもっと思い出して。ほら、お気に入りの玩具が壊れるまで遊んだ思い出に浸ろうよ」
「ごめんなさい!」
オルテンシアは凍り付いた地べたに膝をついた。
「思い出せないの! あの頃の私は悪魔だった! あまりに、当たり前みたいに、貴女を傷つけていたから、何をしたのか憶えていないの!」
下から見上げると、フォーチュンテラーの前髪の奥にある赤い眼球が赤々と燃えているのが解る。周囲の吹雪をものともしないその熱量に、オルテンシアは魂から震え上がった。
「まあいいわ。あんたに懺悔なんて期待していなかったから。どうせ私の本当の名前も憶えていないんでしょ?」
「……」
「で? 今は悪魔じゃなくなったらしいオルテンシア様が、わたくしめに何の御用?」
激しい後悔と共に、オルテンシアは自分の目論見の甘さを思い知っていた。心のどこかで、彼女はまだ自分に都合の良い幻想を抱いていた。かつての侯爵令嬢である自分が、手を付いて謝れば相手は許してくれると、根拠のない確信が根を張っていた。
だが、かつて玩具と蔑んだ級友の真っ赤に燃える両眼が、そんな幻想を煤ひとつ残さず焼き尽くした。
それでも、オルテンシアは絶望を抱いたまま、口にするしかなかった。
「私が悪うございました……。どうか、許して下さい……」
恥知らずな謝罪の言葉を。
「ク、ハ、ハ、ハ」
復讐鬼の喉の奥から、笑い声とも唸り声ともわからない、そもそも声であるかどうかもわからない『音』が鳴る。
「御令嬢が何をおっしゃるかと思えば、随分と白けさせてくれるじゃない? 『許せ』? お嬢様は許しを乞う相手を許したことがございまして?」
突如、暴風がオルテンシアの身体を強かに打ち据えた。
「ふざけるな。私はずっとこの時を待っていたんだ。あんたに、私と同じ苦しみを味合わせながら嬲り殺しにする時を。ああ、そうだよ。これまでに何度頭の中であんたを殺してきたことか!」
今度こそ、オルテンシアは全身の血液が凍り付くほどの恐怖を味わった。
「貴女、まさか、自分のしたことを憶えていないの?」
「その言葉、そっくりあんたに返してやるよ! 許せと言ったな。だったら思い出せ! あんたが私にしたことを全て!」
長剣が宙を薙ぐ。風の刃がオルテンシアの外套を切り裂く。
「……何その恰好。ふざけてるの?」
破れた外套からのぞくオルテンシアの服は、場末の酒場のウェイトレスのものだった。ただでさえ短いスカートの布地が後ろ側にはほどんどなく、尻の肉がむき出しになっている。
「他に無かったの。貴女の前で着れる服が……」
他の服は彼女がわがままの限りを尽くしてオズに買わせたものだ。そんなものを身に着けてかつて自分が傷つけた者の前に出て行くことはできなかった。
「脱ぎなさい」
その口調は明らかにオルテンシアの真似だった。
「……」
オルテンシアは言われるままに服を脱ぐ。
「全部よ」
恐怖と羞恥に震えながら、オルテンシアは一糸まとわぬ姿になった。
「寒いでしょう。火に当たるといいわ」
赤熱した剣が服を斬る。オルテンシアの目の前で、服は勢いよく燃え上がった。
「あ、あぁ……」
思い出した。この仕打ちもまた、かつての意趣返しだ。
「で、何だっけ? 私、何であんたに呼び出されたんだっけ?」
「お願いを……聞いてほしくて……」
オルテンシアは凍てつく風に裸体をさらし、霜柱の切り立つ地面にその身を侍らせ、額を擦りつけるように土下座した。
「この通りです。どうか今だけ、今だけは、私を殺さないでください」
「さっきと言ってることが違わない?」
「ごめんなさい。私がバカだった。もう『許して』なんて言わない。私は、貴女に殺されても仕方のないことをした……」
粗末な革のブーツがオルテンシアの頭を踏みつける。
「ぁ……ぁ……」
顔を横向きにされ、頬をぐりぐりと踏みにじられる。口の端から血を流しながら、オルテンシアは哀願を続けた。
「約束します……時が来たら、この命は貴女に捧げます……でも今は……彼が……彼の心が壊れてしまう……」
「オズ君のこと?」
初めて、フォーチュンテラーの目に動揺が走った。
「私は、彼の心を見てしまった……、彼は、母親の愛に飢えている……焦がれてる……私がどんなに悪いことをしても、どんなにわがままを言っても、笑って許してくれたのは、自分がそうされたいから……」
愛してほしい。母親が我が子に抱くような無償の愛が。でも、彼は知っている。それはもう永遠に手に入らないことを確信している。だから、彼は与える。それは一種の代替行為。
オルテンシアが母と同じ名前であるという、ただそれだけの理由で彼は彼女に献身的に尽くす。
それはオズが小さな身体の奥底に抱える、絶望的なまでの渇きと孤独の裏返しなのだ。
「お願いします……。私に、彼を愛する時間をください……。彼の心を癒す時間をください……。その後は、私は身も心も貴女への償いに捧げます。少しでも貴女の怒りが鎮まるためなら、どんなことでも喜んで受け入れます。ですから、どうかお慈悲を……」
「……随分と変わった、いえ、変わったように見えるわね、悪逆令嬢」
「傷が痛むの。あの日からずっと……」
フォーチュンテラーに焼かれた顔と、オズに焼かれた尻の傷。どちらも鋼を媒介に炎の魔力を流し込まれてできた傷だ。
魔力とは精神の力であり感情の力である。
地位と美貌、2つの柱を壊され瓦解したオルテンシアの心に、火傷を通して2人の感情が流れ込んでいた。
「同じなの。貴女と彼が私に与える痛みが、全く同じなの」
憎しみと愛は表裏一体などと誰が言ったのだろう?
この2つは異質な感情だ。愛するがゆえの憎悪は存在するかもしれないが、憎悪ゆえの愛は存在しない。憎悪はどこまで突き詰められても憎悪でしかない。
フォーチュンテラーとオズ、2人に共通しているのは、狂気である。
現実と妄想の区別なく『オルテンシア』を狩り続けるフォーチュンテラー、怒りも悲しみも恐怖さえも捨て去り『オルテンシア』を愛し続けるオズ。
どちらも、1人の『オルテンシア』の愚かな行為から産み出された魔物だった。
悪逆令嬢への憎しみから生まれたフォーチュンテラーの狂気、フォーチュンテラーの妄想により母を奪われて生まれたオズの狂気。
2人は、オルテンシアの罪から生まれた姉弟のような存在だった。
「そっか。オズ君のために、私に折れろと。はぁ、どこまでも、私を軽く見るんだね……」
呪詛の声に寂寥が混じる。
それは聞きようによっては、弟を優先された姉の不貞腐れた声にも聞こえた。
「でも、オズ君を盾にされると弱いなぁ」
「そんな、盾だなんて……」
「あんたが語る愛なんてそんなもんでしょ」
違う! という叫びが喉を突く。だが、それは言葉にならなかった。どんな責め苦でも受け入れると誓った以上、彼女は感情を否定される痛みを味合わなければならなかった。
顔を踏みつけていた足がどかされた。ほっと息をついたのも束の間、鋭い蹴りが突き出された尻を打ち据える。
「奴隷紋か……」
革ブーツの先が、敏感な火傷痕をぐりぐりと抉る。
「あっ、あぁ――ッ……」
「これがあんたとオズ君の絆ってわけね」
フォーチュンテラーの口元に浮かんだ酷薄な笑みは、オルテンシアの位置からは見ることができなかった。
「削って」
「え?」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
錆びた剣が墓地を囲む石塀の一画を指し示す。塀に使われている石は目が粗く、所々が腐食していた。
「オズ君に無償の愛を捧げるって誓いがあるなら、こんな紋章は要らないよね」
「それ……は……」
オズに焼き鏝を押し付けられた時の記憶が蘇る。終わりの見えない激痛、臨死と狂気の間を彷徨う苦痛、そしてそこからの生還した時の恍惚と安堵感。少年の涙と手のぬくもり。
過酷な試練を乗り越えた末に手に入れたこの焼き印は、彼女とオズのつながりを示す唯一の目に見える証だった。
それを自分の手で捨て去れと命じるフォーチュンテラーの冷酷さに戦慄するが、同時にどこか納得している自分もいた。
もし、自分がフォーチュンテラーの立場だったら同じことを命じたに違いない。
「ほら、どうする? ちなみに私は今すぐにでもあんたの首をちょん切ってオズ君に届けてあげたい。ねぇ、どうする?」
「あぁ……」
絶望の吐息が漏れる。あれは鏡だ。激しい憎悪が狂気に至り、ついには憎んでいたはずの相手と精神を同調させてしまった魔物。
だとしたら、憎しみもなく正気のままに1人の人間をあそこまで追いやった自分は何者だろうか? それほどのことをしておきながら、まるで1年前の夕食の献立のように忘れ去っていた自分は何者だろうか?
オルテンシアは立ち上がった。凍え切った足ではまともに歩くこともままならない。よたよたとよろけながら、彼女は塀を背に立つと、尻を荒れた石肌に押し付けた。
「ッ!」
しっとりとした瑞々しい肌が凍り付いた塀に張り付いた。
薄紫色の瞳が縋り付くようにフォーチュンテラーを見つめる。だが返って来たのは嘲りの笑いだった。
「ああああッ!」
オルテンシアは尻を塀に押し付けたまま一気に腰を落とす。
「ァァァァァアアアアアアーーーーーッ!」
絶叫が吹雪に飲まれて消えていく。
「はい、もう1回」
石塀に描かれた幾筋もの赤い線をつまらなさそうに見ながら、虚ろな声が命じる。
「も、もう許し――」
「え、何?」
冷たい切っ先がオルテンシアの首筋を撫でる。オルテンシアは慌てて首を振る。
「や、やります……」
脚の筋肉がみしみしと音を立てているようだった。もう一度、尻を冷たく切り立った石塀に押し付ける。
「ごめんなさい、御主人様……」
再び尻がすり下ろされる。
「オ゛ッ――オ゛ォッ……あ、アァァ――ッ!」
激痛と共に大切なものが消えていく喪失感に、オルテンシアは苦悶した。
尻を突き出して地に伏せる間抜けな姿をさらるオルテンシア。そんな彼女を、赤い眼が見下ろしている。
「あー、流石オズ君。この程度じゃ奴隷紋は削り切れないか……」
そして、まるで犬に芸を仕込む飼い主のように告げる。
「もう1回」
「は、はい……」
だが、脚に力が入らない。
「ッ! ッ!」
自分で自分の脚を懸命に殴りつけ、鼓舞するが、オルテンシアの深層心理に根付き長年にわたって育まれてきた利己的な本質がそれを拒否する。
彼女の理性も、プライドも、オズへの愛も。
「わああああああーーーーーッ!」
それは哀しみの叫びだった。不格好に座り込んだまま動く気配のない脚を狂ったように殴りつける。
振り乱されるオルテンシアの銀髪を、枯れ枝のような手が掴み上げた。
「悔しいでしょう。泣いても叫んでも、身体が言うことを聞かない。心さえも動かない。自分の醜さを直視するのは辛いよね」
真っ赤な眼球が薄紫の瞳をのぞき込む。
「私もそうだった。私には弟がいたの。病弱で、治癒術士からは大人になる前に死ぬって言われてた。でも、貴族がかかり付けるような高名な術士なら治せるかも知れないともね」
心身をズタズタにされたオルテンシアの耳に、呪詛が染み込んでいく。
「だから私は、魔法学校からスカウトが来た時、神様に感謝した。魔法学校を卒業して貴族と関りを持てば弟を治せるかも知れない。それが私の希望になった。あぁ、なんてバカ。それが、あんたという悪魔と引き合わせるための神様の悪戯とも知らずに」
ぽたりと、何かがオルテンシアの身体に落ちた。
「どんなにつらくても、弟のためなら頑張れると思っていたのに。あんたに顔を焼かれた時、私の心は折れてしまった。いちど折れた心は、どんなに苦しんでも元には戻らなかった。気が付いたら、私は弟を抱いて水の中にいた。弟は私を責めなかった。ただ一言、『産まれてきてごめんね』って――!」
赤い涙がフォーチュンテラーの頬を濡らしている。
「そして……弟だけが死んで……私は死にそこなった……」
「……」
もう、オルテンシアには発するべき言葉が無かった。
「オズ君が、何だっけ? 彼を愛する時間が、何だっけ? 愛って何? そんなものはこの世に存在しないって、教えてくれたのはあんただよ、オルテンシア……オルテンシア……オル、ル、ル、ル……」
「オォルテェンシアァーーーーーッ!」
黒い獣が吼えた。
白い裸体が宙を舞い、墓石に叩きつけられる。
「オル……テン……シアァ……」
穢れた長剣をずるずると引きずりながら、妄想の世界の住人と化したフォーチュンテラーが近づいて来る。
赤い眼球を燃やし歯茎をむき出すその貌は、もはや人のそれではなかった。
「あ……あは……あはは……」
怒り狂う怪物を前に、オルテンシアは笑っていた。
「ごめんなさい……、私は愚かな人間でした……、産まれてきてはならなかったのは貴女の弟じゃない、私でした……今まで、恥知らずにのうのうと生きてきて、本当に、申し訳ございませんでした……」
謝罪の言葉を口にしながらもヘラヘラと笑う彼女に、怪物の怒りが増していく。
「オルテンシアァ……」
「違うの、これは、御主人様への謝罪……、せめて死に顔でだけでも伝えたいの。あなたに出会えてよかったって……、あなたは何も悪くないって……、お願い、これだけは許して……死に顔だけは、堪忍してください……」
そんな彼女の太ももに、錆びついた剣が突き立てられた。
「あーッ! あ、はは、あはぁ、は、は……」
それでも、オルテンシアは笑う。苦痛と恐怖に満ちた死に顔だけは、オズに見せたくなかった。
――だから、だからなんでしょ? お母さん……首だけになって……安らかに笑ってたのは……、僕から解放されて……、嬉しかったんだよね……。
(違う。きっと違う。あなたのお母さんはただ、この世にたった1人残してしまう息子に伝えたかっただけ)
「オルテンシアァ……」
(こんな私の想いなんて何の価値も無いけれど、それでも、あなたに絶望だけは残したくない。だから、これだけは言わせてほしい)
「愛しています。私の、御主人様……」
両手を祈るように組み、目を閉じて微笑みを浮かべるオルテンシア。
「オォルテェンシ――」
迫り来る怪物の咆吼が、突然切れた。
黒い影の真ん中に、ぽっかりと風穴が開いていた。一瞬間をおいておびただしい量の血液が迸る。
「オルテンシアさんから離れろ」
フォーチュンテラーの身体を穿つ穴の向こうに、隻眼に蒼い炎を宿した少年の姿があった。その手にあるのは鈍い光を放つ鋼鉄の長剣。その切っ先にはパリパリと乾いた音を立てて紫電が走っている。
「また……いいところで邪魔を……」
ごぼりと血の塊を吐き出すフォーチュンテラーの口元には、なぜか微笑みが浮かんでいた。
「これ以上オルテンシアさんを傷つけるな」
「怒った顔も可愛いよ。ふふ、オルテンシアには決して見せない顔。私だけのオズ君だね……」
「……」
「聞いていたんでしょ? 私とオルテンシアのこと……。だったら止めないでほしいなぁ」
オルテンシアの肩が落ちる。聞かれていた。オズに自分の醜い過去を。
それはもちろん恥ずかしい。だが、今オルテンシアの心を苛んでいるのは、自分がオズの求めている母親像から遠ざかってしまった事実だった。
「ごめんなさい。それでもやっぱり僕は、オルテンシアさんを守りたい。それと……」
吹雪が、斬れた。オズの剣閃が空を切断し、いくつかの墓石と共にフォーチュンテラーの首を刈っていた。
「貴女を止めてあげたかったから……。貴女が母さんの首と一緒にこの剣を置いて行ったのは、僕に追ってきてほしくて、僕に止めてほしかったからでしょ?」
「……」
オルテンシアの位置からはもうフォーチュンテラーの貌は見えない。
「ひとつだけ教えてください。貴女が紹介してくれた奴隷屋で僕がオルテンシアさんに出会ったのも、貴女の仕組んだことだったんですか?」
「はは、まさか」
血で湿った笑い声。
切断されたはずのフォーチュンテラーの頭は、依然身体の上に乗っかっていた。
「俺たちはただの死にぞこないだ。姉さんはあの女を殺すことをただひたすら妄想し、俺は衝動のままにオルテンシア共を殺した。他にやることが無かったからな。君とあの女が出会ったのは、本当にただの偶然さ。はは、運命って怖いね」
オズは剣を鞘に納めた。幼い身体が黒いローブの脇を通り抜ける。少年は外套を脱ぐと、氷のように冷たくなったオルテンシアの裸体を包み、抱きしめた。
「最後にいいかな」
フォーチュンテラーの背中がオルテンシアに問うた。
「姉さんの――私の名前、憶えてる?」
もう、心身が凍え切ったオルテンシアに何も答える力は無かった。
「ごめんなさい……」
何の重さもない言葉が吹雪に紛れて虚空へ消える。
「そっか」
風のような声。まるで、フォーチュンテラーの身体に開いた穴が鳴っているようだった。
「死は、救いだ。私たちは先に休ませてもらうよ。あんたは地獄の底を生き続けると言い。悪いけどオズ君にも。私の邪魔をした報いだよ」
その時、オルテンシアの脳裏に電撃が走った。
思い出したのだ。彼女の名前を。
決して口に出してはいけない、呪いのようなその名前を。
「待って!」
運命は残酷だった。どうして一瞬早くこの名前を思い出さなかったのか。
直後、占い師の紡いだ言葉が全てを破壊した。