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15.少年の愛

  1.


「――以上のことから、当法廷は弁護人の主張は客観的な根拠に乏しいと言わざる得えず、王太子妃ミネルヴァ殿下自らが示された証拠を覆すには至らないと判断する。よってオルテンシア・ガットネェロがミネルヴァ殿下に行ってきた悪逆非道の数々はゆるぎない事実である」


 オルテンシアは夢を見ていた。夢にしては極めて鮮明で現実味に溢れているがそれは当然だ。これは過去の記憶なのだから。


 屈辱の記憶。

 彼女は自分が罪人であるとは思っていなかった。彼女に非があったとすれば、それは平民を侮っていたことだ。


 まさか、平民が――それも戦場で武勲を立てたわけでも、財産を築いた商家でもない、本当に平平凡凡とした平民が、五大侯爵家と言われこの国を影で動かしているガットネェロ家に真っ向から盾突くとは思いも寄らず、まして王子の心を射貫いて王家を味方に付けるなどとは夢にも思わなかった。


 オルテンシアが敗北感を味わったとしたら、それは王子という駒を奪われたというその1点だった。


 社交界においても絶世と言われた美貌と強大な利権を擁する家柄が、平民の田舎臭い顔となりふり構わない子供のような感情表現に敗れたのだ。

 王太子妃の座さえ手に入れていれば、こんなことにはならなかった。


 証人席では、こちらを刺し殺さんとするかのような目でこちらを睨んでいるミネルヴァがいる。

 王子の伴侶として恥ずかしくない程度に髪を結い、着飾ってはいるが、水に浮かぶ油膜のようにまったく肉体に馴染んでいない。


「くだらない」


 オルテンシアは吐き捨てた。

 ミネルヴァは所詮、水に浮かんだ一滴の油だ。王家と貴族が連綿と積み上げてきた歴史の水は、田舎の小娘が想像することすらできないほど深く、暗く、淀んでいる。


 たかが階段から突き落とされたくらいで何を憤っているのか。それとも、わざと捨て犬を拾わせて情が移ったころに殺したことを怒っているのだろうか? だとしたらなおさら噴飯ものだ。


 この歴史という真っ黒な深海を漂う虚無感に比べれば、些細な事でそこまで憤ることができる彼女の精神がむしろ羨ましくすらある。


 ――だが、それも終わりだ。


 退出のために手錠をかけられながら、オルテンシアは思った。

 明日の判決はすでに水面下で決まっている。今夜、オルテンシアは自室で自死したことになり、それをもってこの件はすべての決着が付く。


 彼女はたしかに侯爵家を追われるが、代わりに自由を手に入れる。ミネルヴァのような田舎娘が王子に見初められる時代だ。自分ほどの容姿であれば、どこの国のどんな家にも取り入ることができるだろう。


(最後に笑うのはどちらかしらね)


 そんな思いを抱いて、今一度証人席を見る。


「ッ!?」


 だが、そこに王太子妃ミネルヴァの姿は無かった。


「どうして――」


 代わりに、そこにはオズがいた。哀しみに満ちた青い隻眼がこちらをじっと見つめていた。


 身体が、灼けるように熱い。

 法廷に立った時の彼女は、地味ではあるが貴族令嬢としての礼節を保った上等なドレスを着ていたはずだった。

 だが、オズを前にした彼女は、裸体に荒縄が食い込んだ晒し者そのものの姿をしていた。


「嫌ッ!」


 両手に嵌められた枷が、恥部を隠すことを許さない。


「見ないで……見ないでッ!」


 その声はオズだけに向けられていた。

 強烈な羞恥の炎に、彼女の身体は内部からじりじりと()かれていた。


(どうして!? どうしてこんなに恥ずかしいの?)


 被告席で大勢の耳目にさらされても、彼女は屈辱を感じこそすれ恥ずかしくはなかった。傲然と胸を張り、どんな罵詈雑言にも眉1つ動かなかった彼女である。


 なのに、オズ1人の視線が、貧民のあどけない少年の目線が、消えてしまいたいほどに恥ずかしい。


 少年は見るに堪えないと言いたげに、ふいと顔をそむける。その瞬間、オルテンシアは自分が奈落の底に落ちていくような感覚にさらされた。


 こんな自分を見られたくない。

 でも、見捨てられるのはもっと嫌だ。


「死にたい……」


 突然、そんな言葉が口をついた。


 彼女自身、なぜこんな言葉が出て来たのかわからない。


 でも、オズに自分の姿を見られたくない、でも自分を見捨てないでほしい。この矛盾は自分が生きている間は決して消えないという確信があった。


「オルテンシアさん……」


 少年が顔を背けたまま語り掛けて来た。


「オルテンシア……」


 腐った木の(うろ)を風が通り抜けたような、虚ろな声。


「死んだ程度で許されると思うな」

「え……」


 少年が眼帯を外した。

 そこには、まぶたが焼け落ちてむき出しになった、真っ赤に充血した眼球があった。

 赤い眼球が、真っ直ぐにオルテンシアを見る。


「ひっ」


 気が付けば、彼女の周囲は暗闇に染まり、真っ赤な眼球だけが闇に浮いていた。

 赤い球体が増えていく。

 傍聴席の聴衆たちの目だった。否、今や裁判官や弁護人たちの目までが真っ赤にそまってぎょろりとオルテンシアを凝視していた。


 ――貴女の、今日の運勢は……。


 頭の中に声が響く。


 ――炎のカード。意味するところは破壊、喪失、つまりは破滅。貴女は今日、大切なモノを失うでしょう……。


 それは、あの時、殺人鬼フォーチュンテラーがオルテンシアに向けた言葉。


(違う……)


 オルテンシアの眼前にある光景が浮かび上がった。

 それは、魔法学校の学生だった頃の一幕だった。今まで忘れていたのは、意図していたわけではない。ただ、オルテンシアにとってあまりに些細で無価値だったために覚えていなかっただけのことだ。


 だが今は、その光景が圧倒的な重量をもってオルテンシアを圧し潰そうと迫っていた――


「アアアッ!」


 オルテンシアは跳び起きた。


「どうしたの!?」


 悲鳴を聞いて、オズが寝室に飛び込んできた。


「御主人様――ッ!」


 形容しがたい感情があふれ出し、オルテンシアは少年の細い身体に抱き着いた。


「どうしたの? 恐い夢見たの?」


 よくわからない感情に翻弄され、子供のように泣きじゃくりながらオルテンシアはこくこくと頷いた。

 自分でも驚くほど、身体がガタガタと震えている。


「大丈夫だよ。僕たち、主従になったんだから。この先僕は何があっても貴女を守って見せるから」


 オズの温かい手で幼子をあやすように頭や背中を撫でられ、徐々に震えは収まってきた。


「高熱を出していたんだ。オルテンシアさん、丸一日眠っていたんだよ」


 オズの優しい言葉に安心したのか、1度力の抜けた体は、思うように動かせなくなっていた。


「み……ず……」


 声すら満足に出せず、愕然とする。何時間も悲鳴を上げ続けた彼女の喉は、1日休んだくらいでは回復できないほど疲れ果てていた。


「わかった。待ってて」


 尻に焼き付けられた奴隷紋がじりじりと疼く。主従の誓いを交わしたばかりなのに、早くも主に使い走りをさせている自分が情けない。


 勇気を出して焼き印に触れようとする。だが、オルテンシアの腰は幾重にも巻かれた布に覆われていた。


 その意味するところに愕然とする。侯爵令嬢として大勢の使用人に身の回りの世話をさせて来た彼女だが、物心ついてから()()()()世話をされたことは無かった。


(奴隷以下ね、私……)


 熱い涙があふれ、ボロボロと零れ落ちる。


「オルテンシアさん」


 オズが差し出す水の入ったコップを、彼女は上手く受け取ることができない。


「……」


 不意に、オズは水を自分の口に含むとオルテンシアに口づけした。


「んッ!?」


 オズの体温が移った水が、唇を通して流れ込んでくる。

 身体が水分を激しく求めていたせいもあるだろう。オルテンシアには、その水が脳をとろけさせるほどの甘露に思えた。


 せっかく摂った水分が、またオルテンシアの目から零れ出た。


「ごめんなさい。嫌だった?」


 恐る恐る尋ねて来るオズにオルテンシアは微笑みながら首を振り、むしろせがむように身体を摺り寄せた。


 ――彼は悪くない。何ひとつ悪くない。


 もう一度口づけをされる。水分と共に幸福感を流し込まれ、恍惚とするオルテンシアの脳裏に、突然あの赤い眼球がフラッシュバックした。


 ――悪いのは私だ。全て私が悪かったのだ。


 オズはまだ熱が残るオルテンシアの額に濡れた布をあてがい、繊細な指でそっと彼女の銀髪を撫でつけると、静かに寝室を出て行った。


 遠ざかる少年の足音を聞くオルテンシアの、焼け爛れ腫れ上がった片目から、涙がとめどなく流れていた。

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