14.焼き印の儀式
1.
そこに一片の打算もないと言えば嘘になる。
教会で行われる奴隷紋の『烙印式』は神聖なものであり、この儀式を通じて奴隷は主の元を離れて人であることを辞め、主の所有物となる。
一方で主は奴隷に対し、神が人に負っているものと同等の責任を負う。
それが奴隷紋について聖典に記された教義である。
もちろんこれは形式的なものであり、実社会においては曲解や拡大解釈による変質は避けられない。
とはいえ、奴隷紋を交わした主従はある意味夫婦よりも固い絆で結ばれていると言っても過言ではない。
つまりオルテンシアはオズから奴隷紋を焼きつけられることで、彼から捨てられるという最悪の事態を決定的に遠ざけることができるのだ。
2人が出会った頃の関係からすれば何とも皮肉な話である。
「わぁ、綺麗だよオルテンシアさん」
少年の素直な感嘆に、オルテンシアは困ったような微笑みを浮かべた。
寒々とした薄暗い礼拝堂で、天窓から降り注ぐ淡い光を浴びるオルテンシアはあられもない裸体を縄で縛られた、奴隷の象徴とも言うべき姿をしていたからだ。
両手を後ろで括り、豊かな乳房を根本から搾り上げ、股間にきつく喰い込むその縄は新雪のような純白だった。
頭には花嫁が身に着けるような透き通った薄布ののヴェールがかかっている。
顔の火傷には包帯が巻かれていたが、着付けをした司祭の好意だろうか、白いバラの造花で美しく飾られていた。
ある意味、煽情のひとつの極致とも言える姿だが、そんなオルテンシアを見るオズの透き通った空色の隻眼に欲情の色は一点も見られない。
恐らく精神的な枷が彼の心の成長を止めているのだろう。彼の欠落した感情がまたひとつ明らかになった気がして、オルテンシアは胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
それは、己の乳房を括る縄よりもきつく感じた。
「では、奴隷は主の前に跪きなさい」
司祭は男性だった。さすが修道者だけあり恐るべき自制心を発揮していたが、時折揺らぐ目線はやはりオズのように完全なる無欲ではいられないようだった。
長く厳かな祝詞が終わり、ついに烙印の儀式が始まった。
「炎か雷の魔法は使えますか?」
司祭がオズに問う。
「どちらも」
少年の即答に少々驚いた様子を見せたが、司祭はすぐに気を取り直すと、先端が丸い判になった鉄の棒を手渡した。
「まずはこの判の部分に手をかざして魔力を込めてください。神があなたを象徴する印を刻みます」
言われるままに、オズは手を鉄棒の先端にかざす。すると鉄の板面に赤い線が浮かび上がった。
「なるほど、『剣』ですか」
次に司祭はオルテンシアにも「炎か雷の魔法は使えますか?」と問うた。
「炎を」
司祭はオズの手元を導き、彼女の顔の前に鉄判を向けた。
「ッ――」
赤熱する剣の文様を見て、爛れた顔の傷が疼く。
「大丈夫?」
心配そうに尋ねる小さな主に、オルテンシアはしっかりと頷きを返した。
「では、魔力を込めなさい。神が貴女に送る最後の恵みです」
オルテンシアは目を閉じる。剣の文様と重なるように再び赤い線が浮かび上がる。
「『炎』……」
司祭は唸った。この宗教には人の精神を象徴する文様は20ほどあるが、『剣』は「死」や「損失」の象徴であり『炎』は「破滅」や「災厄」の象徴だった。
「『剣』と『炎』。これがお2人の文様です」
無邪気に頷く少年に対し、オルテンシアは神妙だった。彼女は2つの文様が意味するところを知っていた。
「『剣』には運命を切り開く力、『炎』には破壊の後の再生という意味もあります」
慰めるように言う司祭だが、オルテンシアが考えていたのはフォーチュンテラーが自分に対して行ったインチキな占いだった。
「では奴隷は立ちなさい」
いよいよ儀式が始まる。
オルテンシアは祭壇の前に導かれた。
祭壇は彼女の腰くらいの高さであり、四隅には大きな金具が付いていた。
司祭に促され、祭壇に頭を付けると腰と背中の上側に木の枷を嵌められ、祭壇の金具に固定された。
さらに両足首にもそれぞれ枷を嵌められ、祭壇の脚に括りつけられる。
それは祭壇というよりも拘束具だった。もはやオルテンシアが自分の意志で動かすことのできる体の部位は、頭と手足の指先くらいだった。
(初めて会った時も、私は彼にお尻を突き出していたっけ)
あの時は何も感じなかった。
でも今は――
都合よく、オルテンシアの口に木の棒に布を巻き付けた猿轡がかまされた。彼女は顔を伏せ、それをぐっと噛みしめる。
烙印の痛みに備えてというより、少しでも気を抜いたら羞恥のあまり嗚咽を漏らしてしまいそうだったからだ。
「では、主従の誓いを。決して手を離してはなりませんよ」
司祭が厚い羊皮紙をオルテンシアの尻にあてがった。奴隷紋は割り印である。印の半分は奴隷の尻に、もう半分は羊皮紙に焼き付けられる。この羊皮紙を主が所有し、教会に無断で破棄や譲渡をすることは許されない。
「行きますよ、オルテンシアさん」
オズの言葉にオルテンシアは顔を伏せたまま小さく頷く。
オズは一瞬だけ躊躇って、思い切ったように焼けた鉄をオルテンシアの尻に押し付けた。
「ッッッ――!」
薄暗い礼拝堂に、肉の焼ける音と異臭が漂った。
「もっとしっかり押し付けなさい!」
司祭が厳かに命じる。鉄棒を握るオズの手に力がこもった。
「ア゛ッ、オ゛ッ! オ゛オ゛オ゛ッ――!」
猿轡を噛みながら首をのけぞらし、オルテンシアは吼えた。彼女の意に反して全身が激痛から逃れようとガクガク震える。だが、肝心の尻だけは祭壇の拘束具とオズの力によって完全に動きを封じられていた。
「ングゥゥゥゥッ! ヴッ! ングゥッ! ぅア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ーッ!」
息ができない。息を吸う前に腹の底から悲鳴が怒涛のように押し寄せて来る。尻には無数の針を一度に突き立てられたような激痛が絶え間なく襲い掛かる。
「ンン゛ッ! ンンフッ! ウッ、アッ、アッ、アァッ! アオオォォッ!」
言葉による思考は完全に失われていた。あるのはとにかく息を吸わねばならないという本能的な欲求だった。
枷によりのたうち回ることすら許されない身体が、痛みを和らげるはけ口として悲鳴を要求する。
オルテンシアの精神は、外部からの激痛と内部からの欲求に苛まれていた。
「もっとしっかりと魔力を込めて」
司祭が容赦なくオズに告げる。全身から脂汗を滴らせ、正気と狂気の間で喘ぐオルテンシアに更なる責め苦を与えよというその言葉は、幸か不幸か彼女の耳には届いていない。
「は、はい……」
少年は頷く。だが、目の前で悶絶するオルテンシアの肢体の前に、少年の青い瞳が泳ぎ、手がかすかに震えた。
「魔力のこもらない烙印は、時が経つにつれて薄れてしまいます。あなたも辛いでしょうが、彼女の苦痛を1度で終わらせるためにも今は」
「わかりました……ッ」
意を決し、鉄棒に魔力を込める。少年の手元から、黒い鉄がゆっくりと赤く、そして太陽を思わせる黄色へと変わっていく。
灼熱の光が、鉄棒の先端へじわじわと向かっていく。
ついに、光が先端に届いた。その瞬間――
「ア゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛――ッッッ!」
絶叫と共にオルテンシアの全身の筋肉が収縮した。
「オルテンシアさん!」
少年がたまらず叫ぶ。
拘束具の支配下でオルテンシアの身体は人に非ざる者のように激しく痙攣する。全身の穴が開いて熱い飛沫を上げ、鼻を刺すような異臭が礼拝堂に満ちた。
ガクン、とオルテンシアの頭が落ちた。
「あ――ッ」
少年は叫ぶが、司祭の鋭い視線が彼の身体を縛り付けた。
「まだです。御印が身体の芯に根付くまで、魔力を切らせてはいけません」
「うぅ……」
少年の眼帯から、一筋の血がすっと流れた。
「ぅッ、あッ、ふあッ、あッ アァッ! アオ゛ッ! オ゛オ゛ッ!」
1度は失神したオルテンシアだったが、終わらない激痛が彼女の意識を無理やり現実に引きずり出す。
「オ゛ォア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ーーーーーッ!!!」
再び、汗に濡れた銀髪を振り乱して絶叫する。拘束された身体は筋肉の伸縮だけで悶絶し、飛沫をまき散らし、またガクリと脱力した。
「ゥ……ァゥ……ぁ……ぁ……」
天窓から差し込む陽光が赤く染まり、オルテンシアの悲鳴も枯れ果て、何度失神したかもわからなくなったころ、ようやく彼女は解放された。
枷を外された彼女は激しい水音を立てて床に倒れ込んだ。彼女の周囲には、自身が全身から噴き出した体液が水たまりを作っていたのである。
彼女にはもう自力で立つことはもちろん、座位を保つ力すらも残っていなかった。虚ろな瞳は不自然なほど上を向き、だらしなく開いた口からは舌が驚くほど長く垂れ下がっている。
「オルテンシアさん……」
そんな彼女の濡れた裸体を少年は強く抱きしめた。
「胸を擦ってあげなさい」
司祭の言葉に従い、少年の小さな手がオルテンシアの胸の谷間を強く擦る。全身の筋肉が弛緩し、心臓だけがかろうじて動いているのがわかる。
身体は水分を欲しているだろうが、喉も唇も満足に動かせない彼女のために、オズは水を含ませた柔らかい布で唇を濡らす。
根気よく胸を擦り、口を濡らしてやっているうちに、ようやく瞳の焦点が合ってきた。どんよりと曇っていた灰色の瞳に、光と血の気が差す。
「わた……し……」
「オルテンシアさん! 気が付いた?」
「あ、あぁぁ、ぁ……」
恐怖に歪み、慄き始めるオルテンシアの裸体を少年はもう一度強く抱きしめる。
「もう終わったよ。頑張ったね、オルテンシアさん、頑張ったね……」
「これで……わたし……御主人さまの、モノ……」
「そうだよ。オルテンシアさんは、完全に僕の物だ」
少年の腕とまっすぐな眼差しに包まれて、オルテンシアは「あぁ……」と恍惚としたため息をつきながら、眠るように失神した。