13.哀願
1.
「「あ……」」
陽が昇って間もない早朝。2人は薪の積んである納屋の前にいた。
「……」
「……」
2人の間を肌を刺すような冷たい風が吹き抜けた。
少年は黙ったまま薪を割り始めた。オルテンシアも黙って割れた薪を運ぶ。今日の分をかまどや暖炉の脇に積み上げ、残りは納屋に納めていく。
乾いた音が乾いた虚空に響く。空は薄い白雲に覆われていた。
「オルテンシアさん」
オズは手を止めて空を見上げていた。
「雪だよ」
白い空から、はらはらと降る雪を少年の手が受け止める。
「あぁ……」
オルテンシアの唇から漏れた吐息には、どこか悲し気な響きがあった。
少年との約束。雪が降るまでに占い師と決着を付けることができなければ、オルテンシアは協力をやめる。
「御主人様が私を買ったのは、私の名前がオルテンシアだったから……」
「そうですね」
空を見上げる青い瞳はどこまでも透き通っていた。
「すみません、僕のせいで。オルテンシアさんにとんでもない傷を負わせてしまって。今まで、怖かったですよね」
「……」
オルテンシアはふるふると首を振る。だが、空を見上げている少年にその仕草は見えていないようだった。
「もう終わりにしましょう。今日は教会に行って、名前を変えてもらいに行きましょう。そうすればもう貴女が襲われることは――」
「嫌……です……」
オズは怪訝な顔でオルテンシアを見た。
「私は、殺人鬼なんて怖くない……」
嘘だった。今も時おり焼けた片目に鈍痛が走る。その度にあの真っ赤に充血した眼球を思い出して奥歯がガチガチと鳴り脚が震える。
でも、今の彼女にはそんなことよりも恐ろしいものがあった。
「私は、オルテンシアのままでいたいです」
自分がオルテンシアでなくなったら、この小さな主の空色の瞳に、自分の姿が全く映らなくなってしまうのではないか? そんな妄想じみた恐怖が昨夜の一件から彼女の中に芽生え、爆発的に成長していた。
――彼女の名前がオルテンシアで、オズがフォーチュンテラーを追っている限り、彼女が捨てられることはない。そんなことを考えるほどに。
「僕は、わからなくなってきました」
だが、そんなオルテンシアの思惑とは裏腹に、少年の顔には迷いがあった。
「僕は、フォーチュンテラーと戦って、何がしたいんだろうって……」
「え――?」
「僕はずっと、自分が母の仇を追っていたと思ってました。でもそれを成し遂げたとして、僕の中にいる母は笑ってくれるんでしょうか?」
乾いた寒空の下で、少年は乾いた微笑みを浮かべた。
「本当は解ってた。母の中に僕は初めからいなかった。僕はあの日からずっと、母の仇を追っているつもりで、ただの幻を追いかけていた……。僕がフォーチュンテラーを追っていたのは、他にすることが無かっただけだったのかなって」
舞い落ちる雪が、少年の手の中で跡形も無く消えていく。
「約束通り、僕はこの先一生貴女に不自由はさせません。だから、名前を変えて穏やかな暮らしをしませんか?」
笑顔が儚い。オズの方こそ、手を伸ばしたら消えてしまう幻のようだ。
「1つだけ、お願いしてもいいですか?」
「何でも言って」
何の躊躇いもなく言い放つオズに、オルテンシアは全身から火が出るような羞恥心を覚える。
これまで、彼の頼みをひとつ聞くために多くのわがままを通して来た。それをさも当然のように考えて来た。
自分は何をのぼせ上っていたのだろう。
彼にとって、自分は「オルテンシア」という名前以外に何の価値もない存在だったのに。
それは、出会った時からずっと。
そんな自分が、厚かましくもまた対価のない要求をし、相手は無条件でそれに応えようとしている。
これでは、彼女は奴隷ですらなかった。道端に座り込んでひたすら他人の慈悲にすがる乞食に過ぎなかった。
何度か声を出そうとしてやめるオルテンシアの背中を押したのは、まだ洗顔をしていなかったオズの頬にかすかに残っていた、黒い血の塊だった。
それは、幼い少年の涙の痕だった。
それを見た瞬間、オルテンシアの中でまだかすかに残っていた元侯爵令嬢のプライドは消失した。
冷えた地面に膝をつき、頭を垂れ、祈るように手を組んだ。
「私の身体に、奴隷紋を刻んでください。私を、あなたの奴隷にしてください」