11.無能な奴隷の生きる価値
1.
翌朝、目を覚ますとすでに少年の背中は無かった。
「あ、おはよう、オルテンシアさん」
食卓にはすでに朝食が並んでいて、少年が笑顔で迎えてくれていた。
「も、申し訳ございません!」
オルテンシアは床に崩れ落ちた。
「えぇー……」
少年の呆れ声に、オルテンシアの全身がきゅうと縮む。
もし、オルテンシアが彼の立場だったら、主よりも遅く起きる召使いなど決して許さない。
あの奴隷屋の店主がオルテンシアにしたように、鞭でしっかりと調教したに違いない。彼女の気分と奴隷の値段しだいでは、痛みのあまり死んでしまってもかまわない。
オルテンシアの価値観においては、顔に傷を負い、何の才能も特技も無く、しかも怠惰な人間に存在価値は無かった。
それでも今までの彼女なら自分だけは特別であると開き直っていたかも知れない。だが、今の彼女は揺らいでいた。臨死の恐怖と拷問による激痛。その経験はオルテンシアに死と生の実感を骨の髄まで叩き込んでいた。
生まれてこの方、自分は特別な存在であるという幻想の中で生きて来たオルテンシアの心は今、鞭打たれながら丸裸で現実という寒空の下に引きずり出されていたのである。
「ご飯、冷めちゃいますよ。大丈夫。僕は気にしていませんから」
肩を抱かれるようにして立たされ、半ば無理やり食卓に付かされる。
「急いで食べちゃいましょう。今日はやることがたくさんありますから」
「私に、何かできることは……」
喉の奥から絞り出されたか細い声。少年はしばらくオルテンシアを見つめていたが、すぐに優しく微笑んだ。
「僕の側を離れないで。いつまたフォーチュンテラーが来るかわからないから」
違う。そうじゃないとオルテンシアは首を振った。
「何かお手伝いを……」
「気にしないで。オルテンシアさんは僕のそばに居てくれるだけでいいんだ」
「……」
オルテンシアにとって、少年の優しい言葉が何よりの恐怖だった。
彼女の価値観では、ここで主人の甘やかしに甘んじるような奴隷に生きる価値は無い。
(私は試されているんだ)
実際に彼女を試しているのは目の前の少年ではなく、彼女の内部に潜む彼女自身の過去なのだが、それに気付けるほど今のオルテンシアに余裕は無かった。
自分以外の物の見方を認めない。そもそも、他人には他人の人生に基づく視線があることを想像すらしない。そんなオルテンシアのこれまでの生き方が、ここにきて彼女自身に牙を剥いていた。
その後の彼女の奮闘は散々なものだった。
壁や天井にまだ埃が溜まっているのに床を掃除して二度手間となる、オズがすでに終えていた洗濯ものをもう一度洗濯しようとして水浸しにする、火の起こし方が解らず不用意に魔法を使って小火を起こす……
しまいには、釘を取って来てほしいと言われて恐怖に震えながら5寸釘を差し出す始末だった。彼女にとって、釘とは工具ではなく拷問器具だったのである。しかもこの時、彼女は少なからず失禁してしまいオズの仕事をさらに増やしたのだった。
日が暮れる頃にはもう、オルテンシアは食事も喉を通らないほどに憔悴していた。心も体も無駄に疲れ果てていた。
「仕方ないですよ。いきなり何でもできるようにはなりませんから」
少年の慰めも、彼女の耳には届いていない。
「明日は……明日はもっと……頑張ります……もう一度チャンスをッ――」
涙で言葉が詰まる。もう消えてしまいたくなるほど恥ずかしかった。もし自分がこんな無能から同じ言葉を言われても、嘲笑以外何の感情も湧かないだろう。
「……」
この日、オルテンシアは眠らなかった。隣から感じる少年のぬくもりに抗い、眠りの沼に沈もうとする身体を必死に叱咤しながら、夜が明けるのをひたすら待った。
窓の隙間からかすかな光が見えた時、彼女はオズを起こさないよう細心の注意を払いながら起き上がり、寝室を出て行った。
……。
しばらくして、バリッという破裂音がオズ少年を叩き起こした。
「ッ!」
少年は転がるようにベッドを降りる。その手にはすでに愛用の長剣が握られていた。
寝室の壁から、巨大な刃が突き出ていた。
「オルテンシアさん!?」
抜刀し、窓から飛び出した少年が見たものは、薪を前に呆然と座り込むオルテンシアの姿だった。
「「あぁ……」」
2つの吐息が重なった。一方は安堵、一方は絶望の吐息だった。
おそらく、オルテンシアは少年よりも早起きして薪を割ろうとしたのだろう。だが、重いマサカリを振り下ろそうとして手がすっぽ抜け、マサカリは勢いよく壁をぶち破ったのだ。
「オルテンシアさん……」
ビクッ、とオルテンシアの肩が震えた。
「あ……あぁ……ぅ……」
薄紫色の瞳が、恐る恐る少年を見上げる。
「大丈夫? ケガはしてない?」
消え入りそうな声で「はい……」とつぶやいた瞬間、オルテンシアの目から涙があふれた。
「うわああああああああーーーーーッ!」
そのまま地面に突っ伏して号泣する。一度決壊した感情を抑えることはもう彼女自身にも不可能だった。これまで、他人に八つ当たりする以外に感情を抑制する術を持たなかった彼女にできることは、赤ん坊に戻ることだけだったのだ。
「泣かないで」
そんな彼女を、少年は優しく抱きしめる。
「いきなり薪割りは無茶ですよ。今日は……そうですね、お洗濯の仕方を教えてあげますから、ひとつひとつできるようになりましょう」
その日は、手取り足取りで洗濯の仕方を習うオルテンシアだった。その甲斐あって日が暮れる頃には準備から後片付けまで一通りこなせるようになったものの、彼女の心を覆う不安の雲は晴れなかった。
少年は決して口に出さないが、オルテンシアには解っている。彼女のせいで、少年はこの日の予定を半分もこなすことができなかったことを。
冬は容赦なく迫って来る。
オズ少年の日ごろの行いの賜物で街の人たちも何かと力を貸してくれるが、根本的な衣食住は自力で賄わなければならない。
「焦らなくていいですよ。春になったら色々と教えてあげますから、今はただ僕の側に居てください」
遠回しに『何もするな』と言われているのだが、オルテンシアは気付かない。この期に及んで、彼女は自分の目線で自分のことしか見えていなかった。
何かしなければ捨てられてしまう。
身勝手な焦燥感が彼女の心を苛んでいた。




