10.羞恥の芽生え
1.
オズとオルテンシアの新しい住まいは、街の郊外にひっそりと建つ2階建ての廃屋だった。
「あっはは……」
少年は苦笑した。
「お掃除と修繕と……雪が降るまでに間に合うかなぁ……」
ぼやきながらも、少年の手にはすでに箒やぼろ雑巾がつまった木桶が抱えられていた。
「オルテンシアさん」
オズが手招きしている。彼女がふわふわと呆けていた間に、彼は手早く寝室の塵を掃き、ベッドのマットを取り換えていた。
「ここは僕に任せて、休んでいてください」
「え、でも……」
少年は悲しそうに微笑んだ。
「……オルテンシアさんが恐ろしい目に遭っている時に、僕はぐぅぐぅ眠っていたんです。これくらいしなくちゃ」
「あの、それは――」
「貴女にはもう、一生苦労はさせませんから」
少年の蒼い目がオルテンシアを貫く。
――じゃあ、遠慮なく休ませてもらうわ。
いつもの彼女ならそう言うだろう。実際、理性はそう言うようにとオルテンシアを急かしてる。相手が勝手に負い目を感じている今がチャンスだと。あのヤブ治癒士のせいで崩れかけた上下関係(もちろん、オルテンシアが上である)を再構築する絶好の機会だと。
だが、もう1人の彼女――心の奥から聞こえて来る声がそれを止める。
――醜いお前に、その資格は無い――
真っ赤に燃える眼球と、白熱した切っ先が網膜に蘇った。
「あっ……ぅ……」
では何を言ったらよいのか、どうしたらよいのか、オルテンシアには皆目わからなかった。結局彼女は無言のままベッドにもぐりこみ、まるで考えることを放棄するように眠りについた。
眠っている間も、オルテンシアは悪夢にうなされていた。
フォーチュンテラーの、あの赤い眼球に身体の奥まで見られている夢。どんなに逃げても、眼球は追って来る。それは次第に数を増やし、ついにオルテンシアは眼球の群れに囲まれてしまった。
いつの間にか、それらはフォーチュンテラーの赤い眼ではなくなっていた。それらは人々の――今までオルテンシアが出会ってきた人々の、感情の無い眼差しだった。
それは、無だった。
これまでオルテンシアが向けられてきた、憧憬や畏怖ではない。怒りや軽蔑でもない。もはや憐みですらない。
無だった。
弱った羽虫を何の気なしに眺めているような目だった。
そんな目の中に、ひと際美しい空色の瞳を見つけた時、オルテンシアは心が芯から凍り付くような感覚にさらされた。
――やめて。
彼女は瞳に向かって叫ぶ。
――そんな目で、私を見ないで。
彼女は駆けた。他の目は無視して、ひたすら蒼い瞳を追いかけた。
蔑みでもいい。哀れみでもいい。ゴミをみるような嫌悪の目でもいい。
無は嫌だ。無だけは――
ようやく、オルテンシアは蒼い瞳の持ち主に追いついた。彼の見えない身体に手を伸ばす。
だが、振り返ったその瞳は――
温度の無い灰色をしていた。
「嫌ッ!」
オルテンシアは跳ね起きた。辺りはすでに暗かった。
暗闇になかなか目が慣れてくれない。
大きく息を吸うと、ほのかにミルクの香りがした。
「大丈夫ですか?」
ドアの向こうからオズ少年の声がした。ほどなく、手にランプと食事の乗ったお盆を持った少年が入ってきた。
「苦しそうでしたけど、火傷が痛みますか?」
手が何か冷たいものに触れていた。冷水を含ませた布切れだった。オルテンシアが眠っている間にオズが額に乗せてくれていたのだろう。
「お夕食ができました」
お盆の上に、薄いミルクで豆とパンを煮込んだ粥が入った椀があった。
「はいオルテンシアさん、あーんして」
「……自分で食べられるわ」
「無理しちゃダメですよ。片目は距離感がつかみにくいから――」
その言葉に、オルテンシアの中で何かが弾けた。
片目が爛れ、腫れ上がった自分の顔を思い出したせいもある。それ以上に、平民に憐れまれたという屈辱が強かった。
この自分が、平民の、年下の男から施しを受けたと思った。
冗談ではなかった。
施すのは自分だ。
彼がオルテンシアに衣食住を提供するのは、正当な取引だ。
美しい自分が側に居て、話さえしてやるのだ。その莫大な恩恵からいくらか代償を支払いうのは当然だ。
それがオルテンシアの心理の根底を支える教義だった。
「自分で食べるって言ってるのよ!」
オルテンシアは怒りに任せて少年の手から匙を引ったくろうとした。だが、その手は勢い余って熱い粥の入った椀を弾いてしまった。
「危ない!」
少年は驚くべき反射神経で、オルテンシアの眼前で椀を受け止める。しかし中で湯気を立てていたスープまで止めることはできなかった。
「……違うの。私、そんなつもりじゃ」
「大丈夫? オルテンシアさんにかからなかった?」
うっすら赤く腫れた少年の腕。
「違う……違うの……」
「ごめんね。すぐ片付けるから」
なのに、彼はオルテンシアをまるで責めようとしない。
「違う!」
オルテンシアは叫んだ。
「私、わざと黙っていた! 奴隷紋のこと!」
「え、何の話?」
自分でも分からない。なぜ、自分はいきなりこんなことを言いだしたのか。
「あの時も……。あなたが眠っていたのは……私が眠り薬を……」
一度堰を切った告白は止まらなかった。まるで嘔吐のように、息をつく暇もなく彼女は自分の悪行を吐き出した。
「ごめんなさい!」
とうとうオルテンシアはベッドから飛び降り、床に手を付いた。
「もう2度としない! 誓うから! お願い、捨てないで! あなたに――御主人様に捨てられたら私は、私はもう……」
認めたくなかった。だが、現実はもう認めるしかないほどに容赦なく彼女を圧倒していた。
彼女にはもう、世間と渡り合う武器が無かった。
他者に与えるものが何一つ無かった。
もし、オズに捨てられてしまったら、オルテンシアがオルテンシアとして生きていける場所はもうどこにもないだろう。
奴隷屋に戻ったとしても、彼女を待っているのは単純な労働力として安く買い叩かれて死ぬまでこき使われるか、醜い傷を負った顔を責めながら肉体を貪ろうとする倒錯的な変態の慰み者か……。
「どうか、どうか許して……許してください……」
生まれて初めて、心からの土下座をしながら、オルテンシアは主の言葉を待った。
これから彼女の頭上には、あらん限りの罵倒が降り注ぐと覚悟していた。足を舐めさせられるかも知れないとも思っていた。
それでも、彼が望むなら甘んじて受けようと彼女は決心していた。
「やめてください、オルテンシアさん」
だが、少年の言葉は彼女の予想を超えていた。
「言ったでしょ? この先、一生貴女に不自由はさせないって」
「どうして……?」
オルテンシアが恐る恐る問うた声は、小さすぎて少年には届かなかった。
その後は2人とも一言も話さず、オルテンシアはベッドの上で少年の言うがままに食事を食べさせてもらことになった。
そして、自分がぶちまけた粥や、自分の寝汗で汚れたシーツを取り換えてもらう間も、オルテンシアはすくんだように動けないでいた。
何もしなくてよかった以前とは違う。彼女は足元がじわじわと水が浸されるような恐怖にさらされていた。
何かしなければいけないのに。頭が真っ白になって何をしたらよいか、まるで浮かんでこなかった。
「それじゃ、おやすみなさい」
「え……あの……」
「?」
「ご、御主人様は、どこで寝るんですか?」
この家に1つしかないベッドを差し出され、オルテンシアは困惑した。
一方で少年はきょとんと首をかしげている。まるで質問の意図が解らない風で。そして何事でもないように答える。
「リビングの床ですけど……?」
「え――」
オルテンシアは絶望的な気分で記憶を手繰る。前のあばら家でもベッドは1つしかなかった。今まで、あまりにも当たり前に使っていたから気付かなかった。
今までずっと、彼女の小さな御主人様は当たり前のように床で寝ていたのだ。
「私、今までなんてことを……」
オルテンシアは慌ててベッドから降りた。
「御主人様を差し置いて、奴隷がベッドで眠るなんて……」
「えぇー……」
言葉にこそ出さないが、少年の顔は「今更何を言っているんだろう?」と問いかけていた。
「僕は平気ですから。遠慮しないでくださいよ」
「そんな……」
オルテンシアもここで引き下がるわけにはいかなかった。今の彼女の思考を占領しているのは、主を不快にさせてはいけないという防衛本能だった。
彼女は、いまだ彼女の価値観に基づいてオズの機嫌を取っていた。オズにはオズなりの価値観があることを理解できていない。
しばらく気まずい沈黙が流れた。
「わかりました。じゃあこうしましょう」
そう言って、少年はオルテンシアの肩を軽く小突いた。
「あっ――」
華奢な体格と仕草からは想像できない強い力に、オルテンシアはたまらずベッドに倒れ込んだ。そんな彼女の身体を押しのけるように、少年はベッドにもぐりこむ。
「2人で寝ましょう。ちょっと狭いのは我慢して下さい。御主人様の命令です」
「は、はぅ……」
間の抜けた返事も聞かず、オズはオルテンシアに背を向けると早くも寝息を立て始めた。
ベッドの上で少年が占める面積は、明らかに半分に満たなかった。
「……」
オルテンシアはいつものように服を脱いで寝ようとした。
だがその時、オズの背中、よれよれのシャツの隙間から縫ったばかりの傷痕が目に入ってしまった。
小さな背中。
殺人鬼の斬撃から守ってくれた背中。
少年の背中が急に大きく、たくましく見えて、オルテンシアは慌てて脱ぎかけた服を着なおした。
彼の前で服を脱ごうとしたことが、とてつもなく恥ずかしいことに思えた。