“過去”に作られた偏見
月明かりに照らされた草木が、風に揺られてカサカサと音を立てて靡いていた。
相変わらず生き物の声が全くしない。草木以外に聞こえるのは、フラフラと歩いている自分の足音くらいだろう。
「…少し暑いな」
霞の肌をじっとりと湿った生温い風が包み込む。まだ本格的な暑さではないものの、季節が1日1日着実に夏に向かっているからだろうか。
「…ここにもか」
目的もなく歩いていると、その先に小さな湖を見つけた。この山には何箇所かこういう場所があるらしく、霞が散歩を始めてこれで見つけたのは三箇所目だった。
しゃがみこんで湖の中に手を軽く入れてみる。外気と違って冷えた水が、霞の体温を手からゆっくりと奪ってくれる。
人の汚れを忘れたのか、はたまた自然の清らかさに浄化されたのか…霞の手は水面下でも、指先までしっかりと見えていた。
「やっほい、こんなとこで何してんの?」
後ろから、今は一番聞きたくなかった声が聞こえた。…この水とは正反対の地の男が。
「今は貴様とは話したくない。失せろ」
「ふ〜ん、ここにも湖があるんだね。こう何箇所も同じ様な景観の場所があったら、すぐ簡単に迷いそうになるね」
霞の言葉を思いっきり無視して水に近付く志度。それにイラつきを覚え、立ち上がって彼の方へ身体を向ける。
「ここはお前の居ていい場所じゃない。早く立ち去れ」
「なんで?この湖に近付くのに霞くんの許可が必要なんて、今まで一度も聞いたことないけど?」
「汚れきった人間が易々と触っていい水じゃない、と言っているんだ」
「汚れきった?僕のどこが汚れてるの。ちゃんとシャワーも浴びたよ?」
そう言いながら自分の匂いを嗅ぎ始める志度。今の霞にとって、そのおちゃらけた動作は完全に逆鱗に触れる行為だった。
「人を嬉々として殺す様な種族が!この水を穢すなと言っているんだ!!」
「…それは、僕が未発展土地出身だからって言いたいの?」
「それ以外に何がある…!現に簡単に人を殺すだろうが!」
今までとは明らかに違う怒りを見せる霞に、志度が苦虫を噛み潰した様な顔をする。
「そうかもしれないけど…でも中には命を尊む人だっているんだよ」
「なら…!何で俺の両親は殺された!!命を尊む人間がどうしてあんなにも戦争を好む!?」
「それは……」
志度の言葉は今の霞には全く届かなかった。むしろ、火に油を注ぐような状況になってしまっている。
確かにこの瞬間にも、あの場所ではいくつもの死体が出来上がっているのは明白だ。あそこはそういう場所だ。
「結局は未土地の人間は全員そうなんだよ。同じ場所にいるのも嫌になる位卑しくて、自分勝手で…非人道的な人間なんだよ…!」
「………っ!」
そんなことない…と出かけた言葉は、行き先を失い詰まった空気として志度の口から漏れる。
きっと今の霞には何を言っても意味がないだろう。それどころか、ここで下手に言い返しすぎたら彼の信用を得る機会を全て潰しかねない。
「…今まで1日たりとも許したことはない。これからも、未土地の人間は全員俺の敵だ」
霞が深い憎しみをぶつけながら志度の隣を通り過ぎて小屋へ向かう。志度は首だけで振り返り、その背中を寂しそうな目で見守っていた。




