第77話 三代口伝 剛侭
血が、白い床にポタポタと落ちた。
「ば、馬鹿な……!」
ガロードの表情は驚愕に歪み、思わず声が震えた。
騎士ガロードは全力で剣を振り抜いたはずであった。
磨き上げた白刃に一切の綻びはなく、魔力で強化した膂力には一切の衰えはない。
人間の腕など、絹を裂くより簡単だ。
簡単なはずだった。
だが、目の前にある現実が語るのは、常識を遥かに凌駕していた。
レンの腕は無事であった。
刃は皮一枚を切って完全に止まり、傷口からほんの少し血が垂れている。
「くそ……!」
岩石に剣を鷲掴みにされたような、不気味な手応え。
剣に力を入れるが微動だにしない。
引こうと、押そうと、無為に力が籠るだけであった。
「貴様……! 何をした!!!」
唾を飛ばして怒るガロードに対し、レンは静かに囁いた。
「三代口伝、剛侭……」
◇
三代目人明流当主、志野篝。
この男の物語は、まさに大嵐であった。
この世に生を受けた瞬間、母を亡くし、父と二人、人情と刃傷ひしめく江戸で育つ。
齢七つの頃、江戸史上最大の大火事、明暦の大火を被災。
父であり、二代目人明流、志野灯次とはその時に死に別れ、天涯孤独の身になる。
鎮火し、焼け出された大量の亡骸と惨状を見て、志野篝は逃げるように江戸を離れた。
父と懇意にしていた木材商の助けを借り、廻船に独り乗り込んだ。
そうして彼が辿り着いたのは飛騨高山。
そこから数十年、山で孤独に生きた。
豊かとはいえ、最初は穏やかとは言い難い暮らしであった。
熊に幾度となく襲われ、その度に命懸けの戦いを経験した。
彼の命を救ったのは、いつだって父から教わった人明流の技。
江戸で何もかも失った篝だったが、人明流だけが唯一の拠り所であった。
修練すれば真剣な父の顔が浮かび、技を習得すれば喜んで誉めてくれる。
なので、すがる様な思いで鍛錬に明け暮れた。
そうして体と技が成熟しきる頃、7尺(約2.2m)の大熊を投げ飛ばし、高山の生態系の頂点に達した。
やがて”高山に大天狗が出る!”という噂が城下町で囁かれるようになった頃、一人の男が会いに来た。
その男こそ、初代横綱 明石志賀之助。
その瞳と巨躯に備わる闘気は大熊の比ではなく。
その日、篝青年は世界の広さをその身を以て味わった。
志賀之助に見込まれた篝は、江戸に舞い戻る。
飛騨高山に足を踏み入れて、十年もの歳月が流れていた。
江戸に着くと、民衆の声と汗、笑顔でむせ返りそうになった。
あの地獄から十年。
武士、商人、農民……多くの人々の尽力で、江戸は元の活気を取り戻していた。
しかしながら、刃のギラつく夜も十年前と変わらない。
特に、日の本一の力士ともなれば、悪漢や浪人に付け狙われる。
土俵で闘う職務を帯びる志賀之助を、そういった輩から守る事が、志野篝生涯の職務となった。
襲い来るのは日本一の功名に惹かれた強者達。
そのどれもが生半可な実力ではない。
向けられる凶刃を、己の腕のみで退け続けた。
無慈悲な自然と、強欲な市井が育んだ、その絶技。
その名は”剛侭”。
己が肉体を以て誰かを守り、敵対者を誅する鋼の意思そのもの。
◇
ガロードの剣を持つ手に力が籠り震えた。
だが、レンの片腕に差し込まれたその剣は、ピクリとも動かない。
一方のレンもまた光る鎖に拘束されている。
本来なら避けるべき斬撃を受け止めたのは、そうせざるを得なかったからである。
騎士の刃を受け止める瞬間、突如として膨れ上がった上腕二頭筋。
それは肉の筋で剣を挟み込み、手を使わずして握り締めた。
一見豪胆に見えるがその実、繊細で微細な筋肉操作を必要とする。
それを可能にしているのが、特殊な呼吸と緊張法である。
レンは短く細かい呼気を繰り返しながら、筋肉へと酸素を送り続ける。
果たして人体にこのような事が出来るなどと、この世界の誰が発想できようか。
「貴様、本当に人間か……!?」
「人間だとも、貴方と同じだ。そして、君が殺した彼女もそうだった!!!」
レンの叫びが礼拝堂にこだまする。
その声に、騎士の腕が一瞬ゆるんだ。
レンはその隙を見逃さず、鎖のまとわりついた右腕を弛緩させた。
”剛侭”によって拘束されていた刃がスルリと抜ける。
同時に緩み、たわむ鎖。
そのたわみを利用して、レンは剣を絡め取った。
そのまま落ちる剣。
切先には、ガロードの足先。
まるで釘を打ち付けるように、レンは柄頭へ肘鉄を落とす。
ガスン!!!
鉄靴を貫く音が鈍く響き、騎士の息が一瞬詰まる。
「……!!」
だが、その反応すらレンは待たない。
纏わり付いた鎖に引かれるまま、彼は上半身を脱力。
倒れるように上下逆さへ翻り、下半身に”剛侭”を効かせる。
そうして放った渾身の卍蹴り。
空手流派の一つ、躰道にもあるその技は、拘束された状態であろうと反撃を約束する。
「が!!!!!」
騎士の顔面にレンの右前足底が、めり込んだ。
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