第71話 赤の追憶①
セミの声が耳を擘く八月中旬。
僕は道場で一人、祖父を待つ。
夏だ。
大きく開け放った扉や窓からは生暖かい風が入ってくる。
そんな風でも、修練後の汗まみれの体には有難かった。
床に寝転び、ひんやりとした感触を全身で楽しむ。
火照った体が心地よく冷め、目蓋を閉じていたら眠ってしまいそうだ。
なに、爺ちゃんが帰ってくるまでまだ時間はある。
何しろ道場から少し離れた倉まで出てるんだ。目当ての品を探す時間も加味しても、あと十数分はゆっくりできる。
そう考え、大欠伸。
そして、いつの間にか帰っていた祖父と目が合った。
「うわ!! ごめんなさい!!」
飛び上がり、即座に正座。ビシリと背筋を伸ばす。
だが、僕の眼前に居たはずの祖父の姿が忽然と消えた。
四方を見回してもどこにも居ない。
それもそのはず。
だって、僕の背後へ回り込んでたのだから。
次の瞬間、祖父は般若のような顔で僕の道着の後ろ襟をむんずと掴み上げた。
「たるんどる!!!!!」
一喝と同時に僕はフワリと宙を舞う。
そしてそのまま床へ落下。
辛うじてだが、受け身は取れた。
「蓮、常に警戒を怠るな。いつも言ってるだろう」
床に仰向けの僕に、そんな言葉を投げてくる。
「いやいや、爺ちゃん。音も立てずに近寄ってくる人にどう警戒しろってんだよ」
僕の中では真っ当な反論だ。
築30年、木造建ての古びれた道場で、床の軋む音一つ立てずに襲撃してくる。
そんな妖怪を相手にどうしろと。
「神聖な道場で寝転がるからじゃバカタレ」
然もありなん。
実に正当な指摘だった。
反論の言葉もなく仰向けに倒れていると、祖父が持っている物が目に入る。
「で、それがご先祖様の品?」
起き上がりつつ、祖父が片手に持った台紙に目を指さした。
このままでは説教モードに移行しそうだったので、思い切り話題を逸らしにかかったのだ。
祖父の眉間にシワが入った。
僕の魂胆はバレているようが、祖父はため息を一つつくと、台紙の表を見せてくれた。
僕は思わず目を見張った。
そこにあったのは、手形だった。
墨汁に漬けた手を押し付けたものだろう。
驚くべきは、その大きさ。
とても人間の手形とは思えない。
三十センチ定規でも測れるかどうかと言うくらいだ。
「でっか!!」
「これが初代横綱、明石志賀之助の手形じゃ」
「この人が三代目!?」
「違うわい。お前、最近ワシの話を聞かなくなってきたのう」
呆れつつ床に座り込んだ祖父は、話を続けた。
「さっきも少し話したが、三代目はこの横綱の近衛。つまりは護衛をしておった」
そうして祖父は話し聞かせてくれた。
三代目人明流の壮絶な半生を。
◇
話を聞き終わり、庭に出た祖父と僕。
これから、三代目が生み出した口伝の指導が始まるのだ。
祖父の指導はいつも単純。
技をやって見せ、それを真似させる。
なので最初はいつも実演から入る。
ところで、なぜ外に出るのだろう?
そんな僕の疑問は、祖父が手にした日本刀を見て消し飛んだ。
「爺ちゃん……それ、何に使うの?」
「刀の用途などひとつじゃろう。だがまあ、これからやるのは本来の用途とは違うがな」
勿体ぶった言い方をして、祖父は庭の中央に立った。
刀を抜き出し、鞘を芝生に投げ置く。
そしてもう片方の手に、古びた木刀を持った。
「ワシが教わった頃など、無茶な指導をされたもんじゃが、お前はまだ幼い。まずは見て覚えなさい」
「う、うん」
幼いと言われて少しムッとしたが、口答えする気には成れなかった。
祖父の持つ刀が、あまりにも怪しく、恐ろしく光っていたからだ。
「まずは試し斬りじゃ」
そう言って、祖父は刀を真上に投げる。
ゆっくりと縦に回転しながら、祖父の頭上に刃が落ちる。
「爺ちゃん!!!」
危ない。
そう叫ぼうとした瞬間、祖父は軽々と半歩ずれて躱し、片手の木刀を掲げる。
掲げられた木刀は、音もなく切断された。
まるで果物でも切るみたいに、スルリと刃が降りたのだ。
そのあまりの切れ味に、僕は唖然とした。
祖父は僕のそんな表情を見て、快活に笑う。
「はっはっは! 良い切れ味じゃろ! 一晩かけて研ぎ直した甲斐があったわ」
「ええ……笑ってるよこの爺さん……」
変な物を見る視線を送るが、祖父は気にせず突き刺さった刀を再び持ち、高い青空を見上げた。
「驚くのはまだ早いぞ、蓮」
言った瞬間、再び刀が宙へ舞う。
祖父の手から離れた刀は、回転しながら風を斬り、先程よりも遥か高くへ昇っていく。
「切れ味を確認するため木刀で受けたがな、今度は違う」
言葉と共に、祖父の頭上で刀の上昇が終わ李、掲げられた腕目掛けて落ちてくる。
腕が切断されると、子供にも想像できる。
咄嗟に僕は、祖父の言いつけも忘れて駆け出した。
「爺ちゃん! 危ないって!」
「よく見ておきなさい。これこそが人明流三代口伝、剛侭だ」
祖父を突き飛ばそうとした両手はあっさり制され、僕は祖父の目前で尻餅をついた。
見上げた先には、祖父の微笑。
そして今まさに、枯れ枝のような腕に鋭刃が降りた。
ーーザス
僕の真横の地面へ、重たい音が突き刺さる。
「これ、危なかったではないか。離れていなさいと言っただろう」
祖父の至って冷静な声。
それでも僕は呆然としていた。
とてもじゃないが、信じられない事態が目の前で起こったのだ。
か細く、しわがれた老人の腕は、刃を弾いて見せた。
刀は岩にでも当たったように宙で弾み、そのまま落ちてきた。
「じ、爺ちゃん……ケガは……?」
「あるわけなかろう。ほれこの通り」
乾いた皮膚には浅く真っ直ぐなシワが入っていた。
だが、血の一滴たりとも流れてはいない。
木刀ですら容易に両断する刀が、驚くことに、この老人の腕には傷一つ付けられなかった。
事実を飲み込み切れず、僕はひとまずこう言った。
「……今度危ない真似したら婆ちゃんに言うからね」
「それはやめて」
視界が歪む。
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