第62話 ウルド王子の祈り
同時刻、ウルド王子の研究室。
そこは以前と同様、書物が散乱し、至る所に紙の山を作っている。
見渡す限りの紙の積雪に、埃っぽい床には足の踏み場もない。
その劣悪な惨状を他人が見たとしたら、間違いなく眉を潜めるだろう。
しかし、主人であるウルド王子本人は、この部屋の有り方を大いに気に入っていた。
山と積まれた書物。雑多に書き込まれた紙の束。床に捨て去った着想のカケラ達。
それらは皆、ウルド自身を形作る要素と言って相違ない。
生まれた時から王子としての品格と、誇りある振る舞いを強要されてきた。
抵抗など、一切出来なかった。
なぜならそれらは、周囲の期待や羨望といった形で押し付けられるからだ。
彼自身、それは宿命であると無理やり納得せざるを得なかった。
王子に生まれた以上は、仕方のない事なのだと。
だが、この汚い研究室は、その事実を真正面から否定してくれる。
ここでは王子ではなく、一人の探求者として自分を肯定できるのだ。
そんな幻想めいた確信が、彼を研究へと駆り立てた。
やがて、この場所で過ごす膨大な時間は、さらに膨大な成果物として顕現するようになる。
気が付けば王国一の天才などと、渾名されるようになっていた。
だがその反面、人間嫌いなどと揶揄されるようにもなってしまった。
多少のやっかみもあったのだろうが、人を寄せ付けない孤独な様子を見事に形容していた。
当のウルドはそれでよかった。
王子という型で見られようと、偏屈な人間嫌いなどと誹りを受けようと、彼が彼であることに、何一つ恥じることなどない。
「王子だの、人間嫌いなどと、何とでも呼ぶがいい。だが、私自身を定義するのはいつだって私だけだ!」などと、王子である彼が口に出せる筈もなく。
そんな信念など、誰にも知られる事なく人生を遂げるのだろう。
と、彼は受け入れきっていた。もはや諦めと言っていいほどに。
思いもよらなかった。
そんな信念が、まさか六つも年下の弟に看破され、ましてや尊敬の念まで抱かれる事になるとは。
「くはっーー!」
埋もれていた本の山から引き摺り出され、ウルドの周囲に埃が舞う。
吸い慣れたそれが喉奥にかかり、思わずゴホゴホと咳き込むと、視界が上下反転している事に気がついた。
逆さ吊りになっている。
首をもたげて足を見ると、大蛇の尾が、彼の両足首に巻き付いていた。
じっとりと冷えた感触を覚えながら、今度はその尾の主人を目で這った。
「捕まえたぞウルドよ。こんなに壊すつもりはなかったのじゃが……おい、生きておるのか?」
女の声がそう囁くと、大蛇の尾が動く。
そうして拘束した彼を手繰り寄せるように、女の元へと近づいた。
黒衣の美女がウルドを覗き込む。
死人のように半目を開けていたウルドだが、女の姿を認めた途端、瞳が大きく見開かれた。
「アズ……ドラ……!!」
ウルドが亡者の叫びにも似た怒声を上げる。
彼は飛びかけていた意識を手繰り寄せ、敵の表情を睨みつけた。
敵意を見てとってなお、黒衣の美女は口が裂けるような笑みを見せる。
その美貌が霞むほどの醜悪な笑み。
ウルドの背筋をゾクリと震わせる。
「生きておったな! よしよし!」
幼子をあやすように、ぶら下がったウルドの額に触れた。
侮りきったその仕草に、ウルドは悔しさで歯噛みする。
真紅の魔女アズドラ。
この国における魔法使いの最高権威、”魔女”の一人だ。
そして魔法技術研究所の所長でもあり、名実共に魔法界のトップを走る人物。
闘技場に現れ、太陽の様な火球によってレンとルイスを殺しかけた女でもある。
彼女がウルドの研究室を訪れるのは珍しい事ではない。
むしろ、このザグラムにおいては彼女くらいしか来訪者が居ないのだ。
だからこそ、ウルド自身も油断していた。
この部屋の惨状を見ても全く動じず、それどころか、自分の研究室もこんなものだと言ってくれたこの女に。
無意識に、彼女は自分と同類だと。一方的な絆を感じてしまったのだ。
魔女であり、同輩だと信頼していた彼女が、まさか自分に危害を加えようなどと、思いもしなかった。
だが、現実は無情である。
数十分前、いつものように研究室を訪れた魔女は、開口一番こう言った。
『餌になってもらうぞ。ウルド』
何かの冗談かと思った。不遜で無遠慮な彼女らしいジョークだと。
笑みを作って振り返ると、そこに待っていたのは魔獣の牙、竜の顎、大蛇の尾。
異空間から切り取ってきたかのような凶撃の数々が、無防備なウルドを一方的に打ちのめした。
抵抗の暇も余裕もなく吹き飛ばされ、本の山に突き刺さり、埋もれた。
身体中に激痛が走り、意識が抜け落ちかける。
この段になって初めて、魔女の裏切りを確信し、絶望に飲まれた。
しかして彼は研究者だ。
この異常事態を前に、感情よりも理性が先に走る。
アズドラの目的は?
この行いの意味は?
餌とはどういうことか?
アズドラの性格、経歴、直近の出来事などがウルドの脳裏に一瞬で回る。
やがて過程と理由をすっ飛ばし、実に合理的な結論へ収束した。
(目的はアルド達か……!!)
彼女がここまでする以上、それ以外に考えようがない。
アルド達がザグラムに来ている事に、アズドラは気が付いている。
彼女の感知能力であればそれは容易だろう。
だが反面、”餌”という表現が正しければ、正確な居処までは掴めていない。
這いずるような湿った音が聞こえる。
ゆっくりと、だが確実に、こちらへ近づいてくる。
本の山に埋もれたまま、ウルドは即座に魔力を練った。
ただ黙って”餌”になってやるつもりは毛頭無かった。
念話のパスをアルドへ開いた。
解離しかけた意識を奮い立たせ、今伝えられる情報を送った。
アルドの声が不安に震えていたが、聡い彼ならきっと逃げてくれるだろう。
そうして、ウルドが出来る唯一の抵抗が終わった頃、大蛇の尾が彼を引きずり出したのだった。
ウルド王子を逆さに連れて、アズドラは研究室を出ると、浮遊魔法で窓から中庭を通過。
そのまま学園校舎との間にある礼拝堂へと入った。
ウルドの部屋とは一転して清潔な白さに輝く床に、ポタポタとウルドの鮮血が落ちた。
魔女が何をしようとしているのか、ウルドには分からない。
だが、やれるだけの事はやった。後は祈るのみ。お誂え向きに礼拝堂だ。
床に転がされると、ウルドはか細い声で呟いた。
「アル、ド……サリーちゃ、ん……どうか無事で……」
儚い願い。
だがこの時、彼は思いもしなかった。
まさか、必死の念話こそが、アルドを奮い立たせる事となろうとは。
一方、魔女アズドラは不適な笑みを浮かべて魔力を練り上げる。
「さてと、前倒しにはなるが始めようかの。軍師殿の侵攻計画を」
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