第56話 ザグラムの闇夜①
「エルゴー卿が下されました!!」
さる貴人の大邸宅、その中の執務室にて兵の知らせが届いた。
大慌てで入室してきた兵士の声を聞き、書類に走らせていた筆がピタリと止まる。
「事実か……?」
報告に走ってきた兵の表情は硬い。
そんな顔を伏せたまま、床に向かって声を張り上げる。
「はっ! 本日夕刻、ザグラム第二層にて通報がありました。現地に駆け付けた衛兵によりますと、重傷を負ったエルゴー卿が民家の生垣で気を失っていたそうです!」
「何故二層などに居る。奴には三層の魔法学園へ行った筈だが?」
男の冷淡な声。
その声に秘められた圧力に、兵士の額に汗が滲んだ。
震える手足を必死に抑え込み、今は事実を述べることだけに集中する。
「住民によると、エルゴー卿は空から落ちてきたようです。現場を検分しましたが、卿の落下角度から第三層、魔法学園からだと思われます」
「……」
ザグラムで人が落ちて来る事は大して異常な事ではない。
術式の不具合や浮遊中のトラブルによってそういった事故は稀に起こる。
だが、落下したのが騎士となれば話は別。
人類の守護者であり、確かな実力と才覚を持った者だけが騎士となれるのだ。
その誇り高い騎士が、民家に落ちてくるなど、あっていいはずがない。紛れもない異常事態だ。
そのため兵士達は、即座に事件の全容を調べ上げた。
そして、この男の元へ報告に来たのだ。
「エルゴーを下した者は分かっているのだろうな?」
途端、兵士は内臓を握り潰されるような感覚を覚えた。
息が詰まり、心音が高まる。
「はっ、はい……同時刻、学園内で突発的な魔法戦があった模様です……事を起こした生徒の名はメラル・バーガン。そしてその相手は……」
「それがエルゴー卿だと?」
言葉の重みに耐えきれず、兵士は硬直したままゆっくりと頷いた。
男は、皮張りの椅子に深く座り込むと、暫く黙って考え込んだ。
その間が兵士には耐えがたい。
まるで水中で首を押さえつけられているような息苦しさが、執務室を支配している。
兵士の頭にあったのは、生まれたばかりの娘の安らかな寝顔と、愛おしそうに微笑む妻の顔。
まだ娘が立った姿を見ていない。
妻に伝えたい感謝がたくさんある。
年老いた両親に恩返しし切れていない。
まだ死にたくない。
叫び出したい気持ちを必死に堪え、名もなき兵士はその時を待った。
やがて、「チッ」と小さく舌打ちが鳴る。
「……報告御苦労。下がって良いぞ」
「はっ!! 失礼します!!」
不機嫌そうな声色ではあったが、退室の許可に、兵士の瞳が少し潤んだ。
生き残った。
帰ったら妻と子供を思い切り抱きしめよう。
そう決心し、兵士は木製扉のノブに手をかけた。
だがその瞬間、再び低い声がかけられる。
「ああ、待て。エルゴー卿はその後どうなった?」
兵士は油断しそうだった心を一瞬の内に引き締め直し、テキパキと答える。
「は! 現在治療中です。幸にして命に別状はなく、戦線復帰には時間がかかるだろうと診断されています! 治療施設は」
言葉が途切れ、視界が上下逆さに回る。
ーーゴトリ。
床に重い物が落ちた。
頬に伝わる床の冷たい感触。
(あれ……何で寝てるんだ……? 早く立ち上がらないと……)
ボヤけた思考はどんどん遠のいて行く。
(はれ、力が、はいら、ないーー……)
ーーガシャ!!
再び重たい音がして、兵士は瞳を動かした。
そこにあった物は、鎧姿を着込んだ自分の体。
血塗れになったその体を踏みつけながら、男の激しい怒声が響いた。
「屑が。何故殺してこなかった……学生風情に遅れを取るような者など、騎士団には必要ない!!」
男がいつの間にか抜き去った”細身の剣”には、血が滴っていた。
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